アウランガーバードを拠点に巡る2カ所の石窟旅。まずは初日、アジャンター遺跡を訪れた先週土曜日の記録を。
アウランガーバードからアジャンター遺跡までは車で約2時間余り。バスも出ているが、わたしたちは自分たちの車を手配した。
また、ガイドはホテルを通して、プロフェッショナルな人を頼んだ。このような遺跡巡りにガイドは必須。
アジャンター現地に到着して雇うよりも、あらかじめきちんとした人をアウランガーバードで頼んでおいた方がいいと聞いていたので、そのアドヴァイスに従った。
少々高くついたとしても、滅多に行く場所ではないし、そのガイドの案内によって旅のクオリティは大きく変わる。
ガイドに案内してもらうのと自分たちだけで巡るのとでは、理解の度合いが雲泥の差だ。
もしも旅の予定がある方は、ガイドと車はフレキシブルに、自分たちで手配することをお勧めする。
ムンバイを州都とするマハラーシュトラ州には、いくつもの石窟寺院がある。
中でも有名なのは、昨年訪れたエレファンタ島、そして今回訪れたアジャンターとエローラだ。ここでガイドブック的な情報をまとめるのは面倒なので避けるが、概要だけを記しておきたい。
ひとまず、アジャンター石窟寺院群の特徴について、簡単にまとめておく。
■アジャンター石窟寺院群とは ワゴーラー川の湾曲部を囲む岩山の断崖を、左右約550メートルに亘り、断続的に「くりぬいて」築かれた約30の石窟から成る仏教石窟寺院である。
■何のために作られたのか 仏教僧たちが雨期の雨をさけて修行を続ける場所を構築すべく、石窟寺院が建設された。なおこの界隈は南北を結ぶ交易路があったことから、物資の入手が比較的たやすかったという。ちなみにこの周辺は、シルクロードにも連なる要衝でもあったようだ。
■石窟寺院群の種類と構成 石窟には2種類ある。ひとつは「僧院」としての「ヴィハーラ窟」。もうひとつは、「聖なるもの」を表す「チャイティヤ窟」。チャイティヤ窟には、仏舎利をまつるストゥーパなどが配されている。
■石窟寺院群が作られた時代 アジャンター石窟寺院群の開窟年代は、前期と後期に区分される。総じて紀元前2世紀から紀元6世紀半ばにかけての間に作られた。即ち「今からおよそ2300年から1500年前の間」という大昔である。
■石窟寺院の歴史的背景 インドで起こった仏教だが、ヒンドゥー教の台頭に伴い衰退。アジャンター石窟寺院群も、6世紀半ばごろ、未完成のまま放棄された。人々に忘れ去られ、ジャングルの中に眠り続けること1000年余り。時を経て1819年、英国統治時代。虎の狩猟に訪れていた英国人士官ジョン・スミスが、虎に襲われてワゴーラー渓谷逃げ込んだ際、コウモリの住処になっていたこの遺跡を発見した。
■世界遺産としてのアジャンタ、エローラ アジャンター及びエローラの石窟寺院群は、1983年にユネスコ世界遺産に指定された。しかし内部の劣化が著しく、加えて基盤整備が不十分にも関わらず観光客の増大から損傷が著しい。日本は円借款という形で資金を提供し、遺跡修復作業や保全活動に協力しているらしい。
土曜の朝。ひんやりとした空気に包まれている。ここもデカン高原ゆえ、朝晩は冷えるのだ。
にもかかわらず、夫は張り切って、朝っぱらからプールへ泳ぎにいった。
よほど泳ぐのが好きらしい。
妻はといえば、一足お先に朝食である。
同じタージ系列のホテルとはいえ、地方都市のそれにおけるコンチネンタル料理は「いまいち」であることが多い。
従っては、インド料理がおすすめだ。
南インドの朝食の定番であるワダ(ドーナツではない)とチャトゥネ、そしてフルーツなどを味わう。ワダとは豆の粉を原料とした揚げパンのようなものだ。そこはかとなくガンモドキ風、である。
同時に、ランチボックスも注文する。
なんでも、アジャンター界隈には食事をする場所がないというので、ホテルがランチボックスを販売しているのだ。インドにしては異様に高いが、しかし背に腹は変えられぬ。2セット頼んだのだった。
ホテルのロビーでガイドと合流。
車も時間通り到着しており、速やかに出発だ。
田園地帯を走り抜けるが、道路事情が悪い。
劣化したアスファルトが著しい凹凸を作っており、むしろ砂利道の方がましだろうという箇所もある。
タクシー会社に頼んだ車は、思ったよりもおんぼろで、乗り心地はいまいち。若干不満ではあったが、まあ、動けばよい。
約2時間後に休憩所のカフェに到着。このカフェのインド料理定食でも、わたしたちは別によかったのだが……。ホテルで詰めてもらった高級弁当を取り出し、早めのランチタイム。
現地についたら数時間は食事ができないので、1人分のランチボックスだけを開封。かなりのヴォリュームである。これならば、2つも買う必要はなかったな、と思いつつ、チャイを飲みつつ、くつろぐひととき。
さて、軽く食事をすませて、いざ出発。
……と、5分も走らないうちに、ドライヴァーは急に速度を落とし、車を路肩に止めた。
「お約束」のように、タイヤがパンクである。
やれやれ。これで30分はかかるな。
と思いつつ車を降りる。トランクを開けるドライヴァーの表情が険しい。
嫌な予感。……嫌な予感的中!
スペアタイアに、空気が入っていない!
どうしてこうも、インドとは、どこまでもインド的なのか? ムンバイでいつも利用しているタクシー会社に、系列のオフィスを紹介してもらっていたのだが……。
ムンバイでは今まで問題がなかったとはいえ、ここは異なる都市。誰を責めてよいものやら。というか、誰を責めてもどうにもならぬ。……達観。
ドライヴァー、おもむろにタイヤを転がしつつ反対車線へ。どこぞのトラックを止め、ヒッチハイクして、どこかへ行ってしまった。
放置プレーな我々。
ガイドによれば、ドライヴァー曰く、どこかで空気を入れてもらって戻って来るというが、いったいどれほど時間がかかることか。待ってられんな。ということで、我々もヒッチハイクをすることに。
あ〜もう、これだからいやよね。と思いつつ、牛などを撮影しつつ、ヒッチハイクをするも、どの車も観光客を乗せていて一杯。まあ、当然である。
遠い昔、ボルネオ島を取材したときも、同じ経験をしたことを思い出した。途中で車が壊れて、ヒッチハイクして、バンに載せてもらって、そのバンがパンクして、空気入れてもらって……。
あれは、コタキナバルからサンダカンまでを走ったときだった。同じように、舗装道路が劣化していて、ひどい凹凸の道路だったのだ。
などと懐かしんでいる場合ではない。
と思いきや、なんのことはない。
牛に道路を塞がれていただけのこと。
車内は満席。
やれやれ、こんなところでこんな目に遭うとは、タクシーを頼んだ意味がないじゃないのよと悪態をついていたところ、一台の車がすーっと止まった。
アジャンターに客をピックアップしに行くらしきタクシーで、誰も乗っていない。これ幸いとのせてもらう。もちろんお金は請求されたが、背に腹は変えられぬだ。
さて、石窟の近くまではシャトルバスを利用する。このバス、低公害型のエコカーらしいが、どう見ても、そうは見えない、単なるおんぼろのバスである。
このシャトルバスの就航や、現在建築中のヴィジターセンター設立にも、日本のODAが関わっているらしい。
さてさて、週末とあってか、団体が多い。加えて小学生、中学生の子供たちの団体も少なくない。本来ならば静かにゆっくり廻りたいところだが、それは叶わぬ相談であろう。仕方がない。
なお、入場料はインド人10ルピー。外国人は250ルピー。
この二重料金制度については賛否両論あるが、わたしは仕方がないと思っている。入場料が、遺産保全のために有効に使われるのであれば、なおさらのこと。
わたしはPIOカードを持った半ばインド人だが、しかしパスポートは日本人なので、外国人料金だ。
かなり傾斜がきついが、それも短時間のこと。
と、途中でバンガロール拠点の旅行会社を運営している知人と偶然遭遇。
日本からの旅行者を案内しているとのこと。
「なぜ、こんなところに?!」
と、お互い、驚きである。世間は狭い。
日本語ペラペラなガイドと一緒であった。彼女もまた「いいガイドさんと一緒?」とガイドのクオリティを気にしていた。
我々のガイドを紹介したところ、その日本語ペラペラなガイドと知り合いらしく「信頼できる」とのこと。安心した。
さてさて、息を切らしながら登れば、見晴らしのいい高台に出る。
目前に見えている河が、左に向かってぐっと湾曲している。その湾曲部に沿うように、前方に広がっている岩山が石窟群を擁している。
さて、約30もの石窟を一つ一つ見て行くよりも、要所要所を集中してじっくり見たい。
結論からいえば、わたしたちが最も長い時間滞在したのは、第1窟、第2窟、第17窟、第26窟。もちろん、それ以外の石窟にも出入りし、それぞれに興味深いポイントがあった。
それぞれの石窟の特徴などを記す根性もないので、ともあれ、写真を紹介しつつ、簡単にキャプションを添えたい。なお、写真はクリックすると、より鮮明な写真が現れる。
今後訪問する予定がある人は、余り写真を見ずに訪れた方がいいかもしれない。
先入観なしに訪れ、その場でガイドに案内してもらう方が、新鮮な出合いがあるとも思うので。
第1窟。「僧院」としての「ヴィハーラ窟」だ。薄暗く、色彩のない、まさに伽藍堂(がらんどう)に見えるが、天井、壁面は絵画で埋め尽くされている。作られた当初は、彩り鮮やかな室内であったことが偲ばれる。
全ては仏陀に由縁する物語が絵画となっている。仏陀の前世の姿であるマハージャナカ王の物語など。
当然ながら自然の染料を用いて描かれているのだが、それらが劣化しているとはいえ、2000年近くも色の名残をとどめてここに在ることに、驚嘆する。
石窟内では、フラッシュや三脚の使用が禁じられているため、ぐっと息を殺して手ぶれしないように撮影をした。なお、懐中電灯は使用できるので、ガイドが照らしてくれている隙に撮影である。
日本語でいうところの菩提薩埵(ぼだいさった)、即ち「菩薩」。蓮華手菩薩だ。
日本の法隆寺金堂壁画「観音菩薩像」(1949年に焼失)と同じ特徴を備えているらしく、アジャンターの仏教美術が中国を経由して日本に伝来していたことを示しているとか。
この写真、参考までに大きめの写真をアップしたので、クリックして見ていただきたい。
いかにもきらびやかな冠。パールのようなネックレス。滑らかにうねる一本眉。うつむき加減な流し目。蓮の花を持つ手の柔らかな指先。周囲の人々の、表情や肌の色。仕草。当時は上半身を露出していたという女性たちの乳房。猿などの動物たち……。
色あせてなお、目を凝らせば絵画の中の世界が、躍動感を伴って伝わって来る。
半裸の男の、濡れた髪の質感。周辺で働く人々。立体感のある建築物。
中央のダンサーの、そのファッションがまたすてき。サルワールカミーズ(パンジャビードレス)のようなそれ。青地に白の水玉模様のデュパタ(ストール)といい、裾のストライプといい、素敵なデザイン。
さらには躍動的な身体の動き、ジャラジャラとしたブレスレットもまた目を引く。
2000年もの前から、今と似たようなファッションがあったとは。
やれやれ、きりがないが、これも拡大写真を添えてみよう。かなりぼけているけれど、横笛を吹く女性たちもまた、ダンサー同様に艶やかな装飾品を身にまとっていることがわかるだろう。
そして皆の目が、なぜか流し目主流。夫曰く、
「なんか、みんな目が細くて、ミホの目みたいだね」。
……。
こちらがまた、我が興味をそそった菩薩。金剛手菩薩。黄金の冠の、その装飾の精緻な麗しさ。切れ長度満点な流し目の極み。トリムしているとしか思えぬ細い眉。
これも拡大してみずにはいられない。ああもうきりがない。これで最後だ。
写真をクリックしてご覧いただきたい。ネット上でもかなり鮮明に見えるかと思われるが、いかがだろう。壁画の、はがれ落ち損傷した部分の多いことが、本当に、惜しく思える。
こんな遠い昔の人も、靴下、はいていたのね。しかも足にぴったりフィット。しっかり伸縮性のありそうな靴下を。
第2窟。ガイドから仏陀の手の仕草、「印相」について、教わる。アジャンターでは、仏像において、かつて目にしたことのない印相を目にした。
天井がモノクロ? とガイドに尋ねたところ、彼曰く、そもそも色があったのだが、修復の段階でうまくいかず、失敗したとのこと。
確かこの第2窟は、日本やイタリアのチームが修復作業に参加したとの資料があるが、実際どうなのだろう。
ガイド曰く、「イタリアの絵の具とインドの絵の具の素材が違ったので、イタリア式では修復が無理だった」とのことだが、どこまで真実かはわからない。
下半分はほとんどが崩れ去っているが、しかし一目でそれは、千体仏であることがわかる。
その絵の技巧がいかなるものなのか、素人のわたしにはわからない。しかし「無数に連なる」というそれだけで、強く訴えかけられるのは事実だ。
描かれた当時の、その色の渦であったろう光景を夢想してみる。
それはさておき、訪れる子供たち、若者軍団の騒がしいこと。
彼らはこの遺跡のなんたるかを、きちんと学んでいるとは思えず、うぎゃうぎゃと騒ぎながら、ピクニック気分を楽しんでいる。
子どものうちから文化的な物に触れ合うことはとても大切なことだと思うが、同時にこれらがいかに貴重な文化遺産であるかということを、丁寧に教え伝えることが望まれる。
柵がほどこされているところもあれば、あまりにも無防備に、壁画部分をさらしている箇所もあり。身近に眺められることはありがたい。
しかし一方で、直接手で触れることさえたやすく、それはよりいっそう劣化を早めることになるわけで、心が痛む。
ガイドは随所でマナーの悪い観光客を注意している。あちこちに注意書きの看板を立てるのは風情がないが、あまりに注意がなさすぎるのも問題だ。
せめて入場の際に、注意事項をしっかり読ませるなどの義務づけをするべきだろう。
日中は日射が鋭く照りつけ、外は暑い。しかし石窟内はひんやりと涼しく、暑さを感じない。
第4窟。ここは広大なヴィハーラ窟が掘られていたのだが、断層が横切っていたために作業が難航。
天井部分も未完成で、壁画も施されぬまま、放置されている。
しかしながら、その中途半端な状態が、掘削作業のプロセスを想像させてくれる。
下の写真はその内部だ。
この天井の、岩肌のうねり。装飾としての意図はなく、ただ掘り進められた結果ながら、むしろ迫力のある空間を作り上げているように見える。
仏陀には、一般的な人間とは異なる32の身体的特徴があったとされている。それをして、「仏の三十二相」と呼ばれる。
直立すると手先が膝に届く長い腕。頭頂の盛り上がり。眉間の白毫(白い右巻きの毛)。手足の指の間の水かき。身長と両手を広げた長さが同じ。馬や象のように陰相(男根)が体内に隠されている……などなど。
いかにもシンプルな石像にも、その特徴が現れている。ちなみに右上の写真は、手のひらのチャクラだ。
ガイドの説明に、熱心に耳を傾けている夫。仏像に何ら詳しくないわたしが言うのもなんだが、先述の珍しい印相。この仏像も同じ手の仕草、である。
右手の親指と人差し指で作られた輪。その接続部分と左手の小指の先が触れ合っているような状態だ。これが正しい解釈なのかどうかははっきりしないが、ガイドの説明を書いておく。
彼曰く、仏陀が説法をしているときの姿で、涅槃に到達するための4つの質問を、人々に問いかけている様子らしい。右手の小指から、一つずつ、1、2、3……と数えつつ話をしている身振りであるとのこと。
インドの人たちは数を数えるとき、小指の使い方が特徴的なのは事実だ。
さて、こちらは第5窟。未完の石窟だ。この石窟を見ることで、どのように作業が進行していたのかがわかる。
作業の流れとしては、最初にだだーっと石窟を掘って、それから細部を彫刻し、色をつけてゆく……というイメージだったのだが、さにあらず。
上の写真をよく見ていただくとわかるように、玄関口周辺だけが、妙にでき上がっている。岩を掘った先から、別の職人が彫刻を始めている。さらには、「塗り」も始められている。
この効率の悪そうな同時進行。現場がとっ散らかっていたのではないかと察せられる。
はからずも、我が家の内装工事を思い出させる。
造り付け家具。木材を削っている先から、取り付け開始。と同時に、壁のペンキは塗り直し……。スケジュールが詰まっているからそうせざるを得なかったが、これはどういう理由で同時進行だったのだろう。やはりスケジュール管理か。
まだ完全に掘られもしていないうちから、入り口周辺を整えるとは。
石を運び出したりするにも、人々がひしめきあって、さぞかし混沌であったことだろう。
更には周辺一帯、石工らが働く槌音がガンガンと響き、どれほどうるさく騒がしいことだったろう。
支柱に仏像画がくっきりと残っている。
この窟は自然光が入ることから、内部の絵画の様子も比較的よく見えた。
ところで下の写真。柱の高い場所に残された落書き。1819年にここを発見した英国人ジョン・スミスのサインらしい。
ガイド曰く、本当に彼のサインかどうかはあやしいとのことだが、少なくとも古いものであるには違いない。
というのも、手の届かない高い場所に書かれているからだ。当時、石窟内には、1メートル以上も泥が積もっていて、下部は土に埋もれていたという。
「ぼくが好きな絵、お見せします」とガイド。この長いまつげの様子が、彼のお好みらしい。確かに、チャーミングな目だ。インド人。2000年の昔もやっぱり、まつげが長かったのね。
この古代文字についてもひとしきり、説明された。ロゼッタストーンだのヒエログリフだの解読だのなんだのと説明されたが、すでに脳みそいっぱいいっぱいで、しっかり聞けていなかった。
左右に象の彫刻が見られる。
こういうところで記念撮影というのもなんだかなあ、という気分にさせられることしきり。
さて、石窟内の随所で見られる、天使のような、子どものような、小さな人間。
主には柱などを支える彼らは天使でも子どもでもなく、身分の低い人たちだとのこと。小人のような風貌をしている。
さて、第1窟に並んで壁画の保存状態がよいとされる第17窟へ。
首が痛くなりつつも、見上げながらしばし眺める。
この絵は、寝台のようなところでワインを飲む男女。
この女性の流し目こそ妖艶で、なんとも情感あふれる光景である。
下の写真は、男女の様子を拡大したもの。女性の肌が、ずいぶんと白い。もっとも登場人物のそれぞれが、肌色に濃淡がある。
ペルシャ辺りから流れて来た人たちの、それは肌の白さなのだろうか。
水玉のデュパタも印象的だったが、チェックのシャツもまた、お洒落である。しかも複数のパターンが見られる。
うわさ話をする女たちの、その囁きが聞こえてきそうな、リアルな感じ。
手鏡を手に、化粧をする女。柵があり近寄れないため、よく見えないのだが、ガイドがペンライトを照らしてくれて、その様子が見えた。
ガイドが、内部の係員に10ルピーを渡すように言う。なぜだろうと思いつつお札を出したら、ガイドがペンライトを係員に渡して何やら指示をしている。
係員が絵画の真下に赴き、下からライトをあてたところ……。
彼女のネックレスが、立体感を伴ってくっきりと浮かび上がったのだ。まるで本物のパールがそこにかけられているかのような。
他の部分は沈んでいるのに、ネックレスだけが浮かび上がる不思議。もちろん写真にはおさめられなかったが、まぶたの裏にくっきりと焼き付いた一葉だ。
何の素材で描かれているのか、ガイドにもわからないとのこと。まるで小さな秘密を見せてもらったようで、うれしかった。
それにしても、集中して見れば見るほどに、さすがに疲れてきた。疲労困憊だが、第26窟の涅槃像は必見だ。夫がガイドの説明を受けている間、妻は外の石に腰かけて、休憩。
もう一度、仏教の物語をもう少し勉強して、改めて見に来たいものだと思いつつ……。
記念撮影の二人が邪魔だが、ストゥーパの下部には仏像が彫り込まれている。
天井を見上げれば、鯨に飲み込まれたピノキオ気分。
まるであばら骨のような塩梅で、アーチが張り巡らされている。
壁面にも、そして天井にも、無数の仏像が見られる。
それらは技術的に優れたものなのか否かは、素人のわたしに判断する術はない。
しかしながら、一つ一つの像が、それぞれに異なる身振りと様子で、目にするだけでも興味深いのは確かである。
そしてついには第26窟。アジャンター石窟寺院巡りのフィナーレを飾る場所だ。
さほど広くない石窟内は、しかし他の石窟よりも整備され、照明も効果的に施されている。
インド最大の涅槃像(寝釈迦像)が、静かに、ひっそりと、横たわっている。アーチの向こう側にあるため、離れて全容を撮るのが難しい。
釈迦が入滅する様子、すなわち死する様子を表しているこの涅槃像。基本的に、頭は北向き、顔は西向きとされるらしい。「北枕」が忌避される理由はここにあるようだ。
ちなみにこの涅槃像の頭は北向きではない気がする。
もう。静かに見たいんだけど。と見入っていれば今度はガイドが、
「仏陀は下痢で亡くなったんですよ」
……。
インド菩提樹の下で悟りをひらいた仏陀の様子。頭上に木の葉がある。インドでは通称、People Tree(ピープル・ツリー)と呼ばれている。
今、わたしの目の前、書斎の窓からも、そのインド菩提樹が見える。今は葉が落ちているころ。4月ごろに新芽が現れるのだ。インド菩提樹を見たい方は、この日の記録をご覧いただければと思う。
頭上には天使のような存在が舞い飛んでいる。中央には、ヴェルサーチを彷彿とさせる彫刻が。ここだけでなく、随所で見られた「ヴェルサーチ」「スターバックス」的、ロゴマーク。これはギリシャ風、なのか?
支柱を見上げれば、不似合いな様子の天使風な絵画が。どうにも涅槃像とは結びつかない筆致である。ガイド曰く、これも天使ではなく、例の身分の低い小人だというが、そうなのだろうか。
かくなる次第で、アジャンター遺跡巡りは、終わった。
さらっと記録を残すつもりが、いや、見聞きして来たことの多さに比すれば、ここに書き残したことはごく一部にすぎないのだが、それでもかなりのヴォリュームとなってしまった。
基本、仏教徒でありながら、仏教に造詣のない人間が訪れ、見聞きしたレポートである。中には事実と異なる記述も散見されようが、検証しているといつまでたっても書き上げられないので、ひとまず書き記した。
ここに記されたことを鵜呑みにせず、興味のある方は然るべき資料を検証して、アジャンターについて学んでいただければと思う。
さて、翌日訪れたエローラに関しては、また後日まとめたい。もう、軽く、まとめたい。
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