友人らとの小旅行で、バンガロール郊外のワイナリーに1泊2日の旅に出た夫。
日暮れてまもなく、電話が鳴る。
「みほ、今、ものすごく、月がきれいだから、見て!」
バンガロールは、少し郊外に出るだけで、降らんばかりの星、煌々と夕闇の地上を照らす月。
しかし我が家の庭からは、昇りたての低い月を見つけるに難く。
外へ出てしばし歩き、アパートメント・コンプレックスのテニスコートに出てようやく、椰子の木と、建物の間から、伺い見る満月。
ぼんやりと、しかし大きく、ああこの月は、広大無辺の地で見れば、どれほどに麗しいことか。
生まれてこのかた、幾星霜。
数え切れぬほど現れているはずの満月を、しかしその都度、慈しみ眺めることの稀な暮らしにつき。
ゆえに、忘れ得ぬ満月はまた、心に深く刻まれ、折に触れて、思い出される。
1991年、北京からモンゴルの首都ウランバートルへ向かう週に一度の、シベリア鉄道に連なる国際列車。荒涼のゴビ砂漠の、北へ向かう36時間の長旅の途中、月は東に、日は西に。
1997年、イタリアのシエナ。とてつもなくおいしいラムチョップのグリルと、やはり信じがたいほどおいしかったマロングラッセのパンナコッタを食べたあと、まだボーイフレンドだったアルヴィンドとふたりして酩酊しつつ、中世の面影そのままの街を歩く。ドゥオモの向こうに煌々と輝く満月に、魂が吸い込まれるが如く、ふたり見入った夜。
2005年、インド移住直前。米国東海岸ワシントンD.C.から、西海岸ベイエリアを目指して約4000キロドライヴの途中。アメリカン・インディアンのナヴァホ族が暮らす、モニュメントヴァレーの、壮大な大地にて。月は東に、日は西に。
遠い旅路に思い巡らせ、尽きない満月の記憶を辿るひとりの夜。愛おしき、旅の情景。