パンデミックが明けて以来、バンガロールのヴェジタリアンな食料品店、Namdhari’sが、週に一度、我々の暮らすコミュニティにマーケットを開いてくれるようになった。コックスタウンの旧居には土曜日、ヤラハンカの新居には日曜日。昨今の我が家では、Bigbasket.comをはじめとするオンラインでのショッピングが主流になっていたが、やはり実際に野菜や果物を手にとって購入するのはいい。
土曜日、わたしが補習校に行っている間、夫は珍しくも自ら、クラブハウスの前に広げられたマーケットへ買い物に出かけた。果物が好きな夫。マンゴーの季節には、毎日、嬉々としてマンゴーを食べていたが、もう、シーズンは終わってしまった。ジャックフルーツ、ライチー、マンゴスチンも、このごろは見ない。そんな中、彼が買ってきたフルーツは、彩りは今ひとつながらも、ヴィタミンたっぷり、栄養価の高いものばかりだった。
それらを、朝、黙々と準備する。ブルーベリーとキウイは輸入ものだが、他はインド産。甘く柔らかなカスタードアップル(バンレイシ/釈迦頭)。ぼんやりとした味ながら栄養価が高いドラゴンフルーツ、甘酸っぱさと独特の芳香が魅力のパッションフルーツ。そしてほぼ毎朝食べているザクロやバナナ。
🫐
そんな栄養たっぷりのフルーツを盛り付けながら、昨日の出来事がふと、蘇った。そして、今更ながら、わたしは気づいたのだった。
わたしが忘れていた概念は、「社交辞令」だった。
関心を示されている……と感じていたことの一部は、実は社交辞令だったのではないか。そう考えると思い当たる節が出てくる。日本を離れて27年。未だ日本語は流暢だし、日本的な感覚も忘れているつもりはなかったし、そこそこ、忖度もできていると思っていた。
でも、久しく日本の社会に暮らしてきたわけではなく、時代も変容している。今の社会の様子など、実は何もわかっていないのかもしれない。
前向きな言葉や共感、誘いの言葉を、概ねストレートに受け止めてきたが、その割には「え?」と思うことが、インドに移住して、日本の人たちと関わり合う中で、少なからずあった。今思うとその多くは、わたしが社交辞令を間に受けていた、相手は本気ではなく、なんとなく場を丸くおさめたかっただけだった……と考えると、納得がいく。
自分が歳を重ねれば尚更のこと。いくら自分の精神は瑞々しいつもりでいても、相手から見たら大概……なのよね。そら、断りにくかろう。わたしが20代、30代の時も、かなり年長の人から話を持ちかけられれば、そら、断りにくかった。
やれやれだな〜。何だか恥ずかしくなってきた。
とはいえ、社交辞令と本音を見極めるのは難しい。無理強いをするつもりは決してない。しかし、圧が強いと思われている可能性もあるとすれば、不本意だ。いや、強いよな、圧。なにしろ、このごろはしばしば「お節介」とも言われてきたし。そもそも、お節介と親切の境目も見極めにくい。
本来(というかインドに来る前までは)、わたしは他人に干渉したくない、されたくない性格で、独立独行だったはずなのに、インドの影響なのか、年齢(経験)を重ねたせいなのか、つい……ああ、やっぱりお節介か。
とはいえ、だ。だからって、忖度しまくって、自分がやりたいことをやらないのは、諸々、勿体ない。共感してくれる人もいるのだから。
OK。わたしに向けて社交辞令を発する人には「うざい人」と思われるかもしれないが、仕方ない。適宜スルーしてください。
わたしはやはり今まで通り、自分に対して真摯に、一旦は声を上げて生きようと思う。命短し。忖度やらモヤモヤやらしている時間は無駄だ。さて、企画書作りに取り掛かろう!
Have a nice day!
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