昨日、半年ぶりの実家で朝食をすませ、美しい百合の花とともに、母の写真を撮影していたら、電話が鳴った。愛知県に暮らす2歳上の従兄弟のY兄ちゃんからだった。Y兄ちゃんと最後に会ったのは、30年以上前のこと。子ども時代は、祖母が暮らす嘉穂郡で、夏休みに会っていた。わたしが愛知まで遊びに行ったこともある。
「おそらく……」と予感した通り、それは伯父、つまりY兄ちゃんの父親であり、母の兄の訃報だった。88歳の大往生。歳月は流れど、やさしかったY兄ちゃんは、「Youtube、見たよ」「元気そうやね」と、笑いながら、昔のままの温もりある声で、妹に接するかのように話しかけてくれる。お悔やみを伝え、「いつかご家族で、インドにも遊びに来てね」と言って、電話を切った。
その刹那、わたしの最も古い記憶の一つ、2歳の夏の夜の思い出が蘇った。わたしは幼少期の記憶と心情が鮮明に残っている方だが、この記憶は格別に鮮やかだ。
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我が両親の故郷は、かつて炭鉱で栄えた福岡の筑豊地方。飯塚や嘉穂郡界隈だ。室町時代に遡る筑豊の炭鉱の歴史。明治時代には「殖産興業」を背景に八幡製鐵所が創業したことで、財閥や大手企業が相次いで出資。筑豊の炭鉱は隆盛を極めた。しかし繁栄の裏側には、過酷で劣悪、危険な労働環境に喘ぐ坑夫やその家族の物語もある。
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1963年(昭和38年)、「三井三池三川炭鉱爆発」という戦後最悪の炭鉱事故が起こった。その2年後の1965年6月1日、わたしが生まれる約3カ月前に、三井山野炭鉱で大規模なガス爆発事故が発生し、237名の死者が出た。この事故の日か翌日に、運悪く、当時まだ3歳だったわたしの従兄弟が、バイク事故で重傷を負った。彼は病院に運び込まれるも、そこは炭鉱事故の被害者で溢れかえっており……。
彼は手当を受けることなく、6月3日に、息を引き取った。
小学生のころ、彼の弟にあたる従兄弟から、古い写真を数枚、見せられた。家の中で探し物をしていたときに見つけたというモノクロの写真。血の滲む包帯でぐるぐる巻きにされた幼い子ども。抱きかかえる祖母の絶望的な表情。当時は、痛ましくも恐怖心が心を覆ったが、それもまた、炭鉱の悲劇のひとつであった。
戦後の高度経済成長に伴い、次々に炭鉱は閉山。上記の事故なども閉山に拍車をかけた。筑豊は、長屋、校舎、銭湯などの廃屋をひとつひとつ残しながら、静かに廃れていった。
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1965年(昭和40年)、東京オリンピックが開催された翌年に生まれたわたしは、不便で汚くて貧しかった日本の片鱗を体験した、最後の世代かもしれない。
なにしろ福岡市東区の自宅でさえ、お風呂にガスが通ったのは1968年あたり。3歳の頃だったと思う。それまでは、薪を焚いていた。近所の山に、祖母と薪を拾いに行ったことも覚えている。
砂利道が舗装され、海が埋め立てられ、山が造成され、団地が次々に生まれるのを目撃してきた。
翻って筑豊。
石炭の採掘の過程で積み上げられた「ボタ山」には、やがて緑が芽生えた。そんなボタ山で遊んだり、廃屋となった銭湯を探検したり、祖母が住む長屋で花火をしたり、虫かごを携えてセミ取りをしたり、赤とんぼやほおずきを愛でたり、界隈を流れる川で精霊流しをしたり……。
夏ごとに廃れ、徐々に再生する炭鉱町の情景が、わたしの原風景の一つとなっている。
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前述の「2歳の記憶」というのは、伯父夫婦やY兄ちゃんをはじめとする親戚らが、炭鉱の町を離れて愛知県の豊田市へ引っ越した夜のことだ。当時、多くの炭鉱関係者が、仕事を求めて故郷を離れた。愛知県豊田市はまた、その目的地のひとつだったと思う。
あれは、夏の夜だった。どの駅だったのだろうか。薄暗く小さなターミナルの売店の裸電球が、店先の虫取り網と虫かごを照らしている。わたしは片手にチョコボールを持っていた。それをひとつ、ふたつと食べながら、大荷物を抱えた親類たちを眺めている。
やがて、ホームにSL(蒸気機関車)が轟音とともに入ってきた。伯父や伯母、従兄弟たちが乗り込む。ほどなくしてSLは、凄まじい蒸気を上げ、悲鳴のような汽笛を上げながら、ゆっくりと動き出す。その列車を、穏やかで静かだった祖父が、泣きながら手を掲げ、追いかけ走った……。
夜の駅。チョコボール。SL。取り乱す祖父……。忘れ得ぬ記憶。祖父はその翌年あたりだったか、60代で静かに他界した。
電話を切ったあと、実家の袋戸棚からアルバムなどを取り出す。若かりし頃の、母と父。母のアルバムの1枚目には、他界した伯父と母の幼少時の写真。幼い頃、美形だった母は、写真愛好家のモデルもやっていたようで、雰囲気のよい写真も少なくない。
父の中学時代のアルバムもまた、往時を偲ばせる。父は中学時代から野球や柔道に専心していた。その名残の品々もまた、味わい深い。父は、嘉穂高校を卒業後、やはり炭鉱のひとつである日鉄鉱業二瀬鉱業所硬式野球部(通称日鉄二瀬)でキャッチャーをしていた。日本のプロ野球で活躍された江藤慎一氏や古葉竹識氏とは、親しい仲間だった。
わたしが生まれた熊本県荒尾市もまた、三池炭鉱の町だった。伯父の訃報に自分の出自を再認識する朝だった。
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