佐々井秀嶺上人の生きざま。わたしが知るのは本当に、氷山の「一滴」にも満たず、前回も、今回も、書き進めながら、もどかしさが募る。なにしろ仏教の背景や、インド社会の問題を知らなければ、その実情を理解してもらうのは非常に困難。それでも、自分の経験した限りを少しでも残したく、今日も綴る。
2世紀に生まれたインド仏教の僧侶、龍樹(ナーガルジュナ)。大乗仏教の基盤となる「般若経」における「空(くう)」の理論を大成した偉大なる高僧だ。日本では大乗仏教八宗(すべての大乗仏教の宗旨、宗派)の祖師とされ、特に真言密教において重要な人物である。
その龍樹(と思われる老人)が、若き佐々井秀嶺上人の枕元に立たれた。
1967年8月、満月の夜、ラージキルの日本山妙法寺。翌日に日本への帰国を控えた深夜、布団に横たわっていた彼の目の前に、白髪に白いひげをたたえ、白衣をまとった大柄の老人が現れた。右手に杖、左手に巻物を持っている。
「我は龍樹なり。汝速やかに南天竜宮城へ行け。南天竜宮城は我が法城なり。我が法城は汝が法城なり。南天鉄塔もまたそこに在り。」
佐々井上人は驚き、寺を司る八木上人を起こし、興奮して啓示を授かったことを伝えた。八木上人は、一旦、佐々井上人を眠らせ、翌朝、地図などを広げつつ、「南天竜宮」とは南天竺、中央インドにある「ナグ(龍)プール(宮)」ではないかと話した。
佐々井上人は「龍樹」と名乗る老人の啓示ばに従い、単身ナグプール行きの列車に乗った。その経緯、その後の活動のすさまじさは、山際素男著の『破天』に詳しい。
佐々井上人は、ナーグプルでの仏教の布教活動を始める傍ら、古代仏教遺跡の発掘をも開始した。前回のナーグプル旅を終えた後、わたしは資料を作るために、Googleマップをサテライト表示にして見た。すると、ラムテク (Ramtek) という村の東部に、まさに龍(もしくは蛇)のような形をした山脈が横たわっている。これこそが「竜樹(ナーガルジュナ)連峰」だ。龍の尻尾に近いあたりに、「ナーガルジュナ寺院」という名のヒンドゥー教寺院がある。
ナーグプルに暮らし始めて数年後の佐々井上人は、ここが龍樹ゆかりの地であることを確信し、その山脈の西側に広がるマンセル (Mansar) の小高い丘の発掘を開始する。果たしてそこには、大いなる仏教遺跡が眠っていた。それこそが、マンセル遺跡である。
その写真は、次の投稿に掲載する。
前回、2018年の旅の際は、時間的な余裕がなく、この竜樹連峰に上ることができなかった。次回は必ず……と願っていたことを実現すべく、本当は一人で登ろうと思っていた。近々日本へ一時帰国予定の竜亀さんは、工事現場の監督などのお仕事がおありなので、お邪魔をしたくはなかった。しかし、同行してくださり、ドライヴァー氏と3人で、昼の太陽が照りつける中、山頂を目指したのだった。
かなり傾斜のきつい斜面に、ほぼ直線で階段が作られている。ゆえに、1段1段がかなり高い。前のめりに、這いつくばるような感じで石段を踏みしめ上る。日差しを遮るものがないから、休憩するにも暑い。息を切らしながら、上る。
山の高さはどれくらいだろう。150〜200メートルほどだろうか。2枚目の写真は、参道(山道)の麓に立つ竜樹菩薩大寺から撮影したものだ。山頂近くにヒンドゥー教のナーガルジュナ寺院があり、丘の上の近くに、やはりヒンドゥー教の祠があった。竜亀さんとドライヴァーが立っている写真。このあたりに、龍樹にまつわる大切な何かがあったはずだと、佐々井上人は話されているという。
これまでの佐々井上人の偉大なる業績を鑑みるに、考古学的な側面からも、その推察は間違いないだろうと察せられる。
そして山頂まで到達すると、連峰の向こうに広がる絶景! Khindsi Lakeと呼ばれる湖が横たわっている。ここでは、ボートなどのウォータースポーツが楽しめるようだ。やや空気が霞んでいるが、澄んだ空気の折には、格別の景色が望めることだろう。日昇、日没のころも、きっとすばらしい景観が望めるに違いない。
宗教的なことはさておいても、お弁当を持参してこの山(丘)に登り、ここでピクニックをするのは楽しそうだと思う。昨年、2度訪れた霊山、アルナーチャラと同様、いやわたしにとってはそれ以上の磁力を感じさせるこのあたり。今回の旅の目的のひとつを果たせて、本当にうれしい。今度は湖畔のあたりを訪れてみたい。
✊インド国憲法草案者アンベードカルとインド仏教。そして日本人僧侶、佐々井秀嶺上人を巡る記録
https://museindia.typepad.jp/library/2021/12/unity.html
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