乾いた大地を4時間ほど走り抜けた果てに、アブ・シンベルに到着した。ここには小さな空港もあるため、多くの人は空路を選ぶが、わたしたちは敢えてドライヴを選んだ。砂漠を突っ切ってたどり着きたいと思ったからだ。わたしは1992年にモンゴルを一人旅したが、その理由の一つは「広大無辺の砂漠(荒野)に身を置きたかったから」だった。
世界地図を広げ、サハラ砂漠を眺めたが、どうにも広く、そして遠い。予算的にも時間的にも当時のわたしには無理な目的地だったことから、身近なゴビ砂漠を選び、北京からウランバートルまで国際列車で36時間の鉄道旅を決行したのだった。インターネットのない時代。ブリタニカの世界地図で見つけた1本の鉄道だけが頼りの、今思うに、全然、身近ではない無謀旅だったが。
さて、アブ・シンベル大神殿の背景は特殊だ。そもそもは、今から約3000年以上前の紀元前1260年ごろ、エジプト新王国第19王朝のファラオだったラメセス(ラムセス)2世により建造された。
エジプトの南部アスワンからスーダン国境に至るこのエリアは、古代ギリシャ人からヌビアと呼ばれていた。現在もそうだが、古来からこのあたりは金が採掘されるなど重要な地でもあった。ゆえに建築王でもあった「ラメセス2世」は、王宮から離れたヌビアの人々にも、自身の権力を示すために、この壮大なる神殿を建立したとされる。
砂岩でできた巨大な岩山を掘って造られた岩窟神殿。インドのマハラーシュトラ州にあるエローラ石窟群と似たコンセプトだと思われる。エローラ石窟群もまた、巨大な岩山を掘って彫って造られたヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教寺院が3つ並んだ、すさまじくインパクトのある世界遺産だ。
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さて、時は流れて1960年代。ナイル川流域にアスワン・ハイ・ダム建設計画が持ち上がった。ナイル川流域は肥沃な大地だったがゆえ、古代エジプト人が一大文明を築くに至ったが、一方で頻繁に氾濫していた。近代は度重なる洪水で人々の暮らしが脅かされ続けていたため、水量をコントロールするべくダム建設が不可避だった。
しかし、ダム建設によって、その地理的状況からアブ・シンベル大神殿やヌビアの遺跡群が水没は免れないという現実に直面した。そこで立ち上がったのが、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)だった。ユネスコが、ヌビア遺跡救済事業として、世界各国に協力を呼びかけ資金を調達、アブ・シンベル大神殿の「引っ越し」が実現したのだ。
1964年から1968年の間に、アブ・シンベル大神殿は、「正確に分割」されて、ナイル川から210m離れた丘の上、約60m上方に移築された。コンクリート製のドームが基盤となっており、現代の技術と古代文明が融合したダイナミックな遺跡なのだ。
写真にある深く青いナセル湖。かつてはここに立っていた。
この大規模な移築事業の成功が契機となり、歴史的価値のある遺産を全世界共通の遺産として保護・保全しようという試みが具現化し、1972年にユネスコ総会にて「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」が締結されたという。
かくなる歴史的背景を持つアブ・シンベル大神殿。1回の投稿では書ききれないので、2回にわける。
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