2004年5月27日。今からちょうど20年前に、父は他界した。末期の肺がんを宣告されてから4年余り。闘病と復活とを繰り返した果てに66歳で亡くなった。
自分の年齢が、父の晩年のそれに近づくにつれて、「まだ、死んではいられない」と思っていたであろう父の無念が、現実味を帯びて沁みる。
昨日は母と妹と3人で、佐賀県鳥栖市にある霊園へ墓参する予定だった。このお墓は、父が存命中に、父が自分の両親のために用意したものだ。
しかしながら諸事情あって、今は父の遺骨だけが眠っている。父が気に入った場所ではあるが、家族にとっては赴くに不便な場所。わたしも2年前に訪れたきりだ。最後の写真はそのときのもの。
昨日は大雨の予報が出ていたが、曇天程度。鳥栖まで行くに問題はなかったが、車に乗り込んでなお、母もわたしも、鳥栖行きにはあまり気が進まず。最終的には母の一声で「桂川(けいせん)に行こう」ということになった。
嘉穂郡桂川町。ここには母方の祖父母や兄弟の遺骨を納める納骨堂がある。まずはここで、手を合わせる。母も父もいずれは、この納骨堂に入ってもらうのがいいのではないか……とも思う。「墓じまい」が取り沙汰される昨今。数年前に、我が家も検討したが、今は保留中。課題の一つでもあり。
その後、父が好きだったという「すし徳」にてランチ。店内は昭和な雰囲気に満ちているが、出された寿司は「インスタ映え」する盛り付けに変わっている模様。寿司ネタの一つ一つが巨大で、一口では食べられない大きさだ。
父のお墓には詣らなかったものの、父も多分、わたしたちと一緒に過ごしていたと思う。
その後、子供のころ訪れたきりだった飯塚の商店街に立ち寄る。まもなく閉鎖されるというシャッター街。栄枯盛衰を目の当たりにする。帰路、コーヒーでも飲もうとGoogle Mapにて探し見つけた雰囲気のいいブティック&カフェでしばし過ごした。
我が両親は、筑豊の出身。現在の嘉麻市界隈や嘉穂郡(桂川町のみ存在)、飯塚市などが、青春の舞台だ。
母方の祖母が、わたしが小学生のころまで、この界隈に住んでいたこともあり、夏休みにはよく訪れていた。9人兄弟姉妹だった母の、うち何人かは、炭鉱が次々に閉山した時代にここを離れ、愛知県豊田市に引っ越した。
わたしの古い記憶のひとつは夜の飯塚駅。多分2歳のころなので昭和42年、1967年ごろだ。商店の軒先に虫取り網と虫かごが置かれていたから夏だった。わたしは左手にチョコボールを持っている。
伯父や伯母、従兄弟たちが、大荷物を携えて列車に乗り込む。やがて、蒸気機関車の汽笛が闇をつんざき、列車は煙を吹き上げながら、ガタン、ガタンと動き出す。普段は温厚で感情を露わにしなかった祖父が、涙を流しながら手を振り列車を追いかけ走る姿が、あまりにも衝撃的で、忘れ得ぬ記憶だ。
日本の戦後の経済復興を支えた炭鉱。一時は多くの人口を抱え、街は豊かに景気よく、賑わいを見せていた筑豊地方。時は流れて歴史の一ページに刻まれるばかり。炭鉱の象徴だった黒いボタ山が、今では緑に覆われていて、あたかも「普通の山ですよ」という顔をしている。
母親の記憶の問題。わたしの記憶。このごろは、記憶の構造と魂の在りようについて、思いを馳せること多く。エジプト旅を経て、別次元に至る。ナイル川の西が、墳墓の点在する「黄泉の国=彼岸」とされたことや、石に刻まれたヒエログリフ、記憶と記録の証の意味など。
古来から、人間が刻み、残してきたかったものは、結局のところ、なんのためだったか。
今日の日付を忘れて困ることなど、あっただろうか。そもそも、日付などなかった。
自分の誕生日を忘れるのは、よくないことだろうか。そもそも、覚えておく必要はなかった。
忘却しながら死に向かう過程において、わたしたちが「本質的に」取捨選択しておくべきは、なんだったか。
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かつては、自分の故郷を忌避していた母。一方、わたしにとっては、自分が育った福岡市よりも「ふるさと」のように感じていた。しかし、ここ数年、母の故郷に対する見方が徐々に変容。今朝は「子どものころの佳き思い出」を慈しむように語っていた。
自分のルーツ。生まれ育った場所。どんなことがあったにせよ、晩年にそこを受け入れ、懐かしみ、還ろうと願えることは、有り難いことだとも思う。
わたしの終の住処は南天竺バンガロールだが、魂は軽やかに、地球のあちこちを、飛び回りたい。すっかりエジプトに心を奪われている今は、ナイル川の西をうろうろしたい。
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自分が訪れたことのある場所には、魂は自由に飛べるのだということを実感した旅だった。未知なる土地への旅情が沸き立つ。
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