日曜の夜、バンガロール市街東部のホワイトフィールドへ赴いた。目的地は、和食レストラン「Hachi by Tenya」。新規開店前日の試食会に招かれたことから、浴衣姿で参上した。有松絞りのぶどう柄が気に入っている。
「Hachi by Tenya」というからには、日本の「天丼てんや」と関係があるのかしら……と思いネットで調べて驚いた。「天丼てんや」は、ロイヤルホールディングスが運営していたということを知ったからだ。以前も何度か記した通り、福岡生まれのロイヤルは、わたし個人にとっても忘れ得ぬ思い出が詰まった「日本における外食産業の先駆け」だ。高校卒業後の春休み、わたしが初めてアルバイトをしたのは、かつて九州大学近くにあったロイヤルホストだった。
さて、複数の飲食店を擁するコンプレックスに到着。開放的で、何とも心地よい空間だ。ここの「BLR Brewing Co.」というブリューパブと「天丼てんや」がコラボレーションにより誕生したのが「Hachi by Tenya」だという。招待された時刻の7時30分から、わずか5分ほどしか遅れていないのに、すでに日本人ゲストで満席。わたしの席は、友人の志乃さんと伊藤夫妻と同じテーブルでうれしい。
今回、招待してくれた双日(2021年、ロイヤルホールディングスと資本業務提携)のK氏は、わたしのInstagramをご覧になり、わたしのロイヤル愛をご存知のうえで、招待してくださったとのこと。聞けば、伊藤氏もロイヤルホストでのアルバイト経験があるとのこと。なんという偶然! 諸々、青春時代の思い出が蘇るが、ひとまずは現在に集中。
前菜をはじめ、寿司や天ぷら、麺類が供されたが、さすが「てんや」だけあり、天ぷらが特においしい! ドリンクはBLR Brewing Co.のメニューから選べる。規模感といい、ロケーションといい、展開方法といい……さすがだ。
インドでは、業種を問わず「新規開店」はハードルが高い。中でも飲食店は、インフラストラクチャーの整備や内外装工事、リカーライセンスの取得、従業員教育に食材調達網の確保など、諸々の段取りが、超絶たいへん。予定通り動かないのが普通なので、当初の予算を大幅に上回ってしまいがち。ゆえに、なるたけ小さめに余白重視でスタートし、体力を温存しつつの柔軟な展開は、切り札のひとつだといえる。
K氏曰く、当面は、この店をインドのトライアル店舗としてマーケティングしつつ、メニュー開発はじめ今後の展開を試みるとのこと。我が家の近くにもぜひオープンしてほしいものだ。さて、宴もたけなわ、2杯目のグラスが届いた矢先に、閉会のご挨拶。え? もうおしまい?? 早っ……と思いつつも、聞けば、9時半からはインド人ゲストが招待されているという二部制だとのこと。
……さすがだ😅
自宅に戻り、ロイヤルホールディングスのサイトで沿革を読み、創業者である江頭匡一氏の「私の履歴書」(日経新聞/1999年)を再読する。タタ・グループの元会長であるラタン・タタと並んで、記憶に残っている連載だ。江頭氏もラタン・タタも、空に憧れ、パイロットであった共通項がある。わたし自身の空への憧れが、二人をより一層、魅力的にみせているのかもしれない。
江頭匡一氏は、我が父とも面識があった。二人は同じ、嘉穂高校の出身でもある。どのような関わりがあったのかは知る術がない。戦後の高度経済成長期からバブル経済に突入するまでの日本の食文化の変遷は、わたし自身が体験してことでもあり、文字を目で追いながら、映像が脳裏に思い浮かぶ。
1951年。日本航空の東京発、大阪経由、福岡着が、わずか1日1便しか飛んでいなかった時代に、彼は米軍基地での経験を生かして、機内食と空港レストランをはじめた。それがロイヤルの原点だ。1960年代、飲食業は「水商売」とみなされ、銀行からの融資を受けにくかった時代に、しかし松下幸之助をして「日本で最高の経営理念を持っているのは松下電器とロイヤルだ」と言わしめた。
1968年、江頭氏は45歳で初渡航、約1カ月かけて欧米20都市を巡り飲食業界を視察。洗練された雰囲気とサーヴィスは欧州に、合理的な経営は米国に学んだ彼は、1969年、日本で初めてのセントラルキッチンを導入。1971年、モータリゼーションを見込んで北九州にロイヤルホスト1号店をオープンした。「外食産業」という言葉を日本に定着させ、1978年には外食産業として初めて株式上場を果たす……。
店づくりに大切な哲学(フィロソフィー)に思い至るまでの経緯もまた面白く、だめだ、紹介したい話題が多すぎて尽きない。
最後の写真は、今回の一時帰国を終えて、福岡空港から成田へ飛ぶ前に立ち寄った空港内のロイヤルホストの朝食。
【長くなるが、2022年に書いたブログの記事を加筆修正して転載する】
◎高度経済成長期の昭和40年、福岡に生まれた我。外食産業も急成長の時期。ハイカラを好んだ両親に連れられ、新天町「ロイヤル」(ロイヤルホスト前身)によく訪れた。
◎わたしが、初めて「ナイフとフォーク」を使ってパンケーキを食べたのはロイヤル。ハンバーグステーキ、グラタンにドリア……。5歳か6歳のころ、生まれて初めて「イタリアン・ピザ」を食したのも新天町ロイヤル2階だった。
◎オレンジジュースといえばバヤリースの時代。米国直輸入の果汁100%のオレンジジュースは父の好物。母はショッキングピンクのゼリーがたっぷり入ったサンデーを。私と妹は、ストロベリーパフェやプリンアラモード、くり抜いたオレンジや、メロンの皮が器のシャーベットをよく食べた。
◎我が初のアルバイトはロイヤルホスト。1984年高校卒業後の春休み時給430円。面接日「明後日までに暗記してきてください」と渡された分厚いメニュー、百を超える料理名と値段、添えるカトラリーや調味料もすべて暗記して初日に挑んだ。
◎バイト初日は、左手にグラス3つ手首におしぼり、右手にグラス2つ「トレーを使わず」供する訓練。ディナープレートも左手に3枚。右手に1枚。複数テーブルを一人で担当。3秒以上の停止は禁止。常に動いてコーヒーやお冷の補充。サンデーやパフェは自分で作る。
◎店長曰く「ロイヤルホストには和食がありません。家庭の味には敵わないから。これは江頭の方針です」「スパゲティが硬か。茹でが足りんばい、と言うお客様がいらしたら、これが本場の味だと伝えてください」。「アルデンテ」というコンセプトを日本の大衆にもたらしたのも江頭氏。
◎別のロイヤルホストのキッチンでバイトをしていた高校時代の男友達。当時、料理の多くはセントラルキッチンで作られた冷凍物を再加熱し盛り付けるだけだから、調理はさほど難しくなかったという。そんな中「キッチンで、腕前が試されるメニューが2つあるっちゃん。何と思う?」
◎考えるも結局わからず、彼が種明かし。「一番難しいのはパンケーキ。あれは、注文受けてから、自分で焼かないかんとよ。均等に焼くの、難しいっちゃん」「あと、サラダの盛り付け。立体的にせないかんと」「俺はどっちも、うまくできるようになったけどね」
◎「俺、時給が決まっとうけんって手抜く奴、好かんっちゃん!」「私も! わかる〜。同じ時給でも、私たち、一生懸命働くよね」「仕事って、お金のためだけじゃないと思わん?」ロイヤルホストでの初バイトで学んだことは多い。自らの労働で糧を得るということ。
◎初めてお給料を手にした18歳の春から幾星霜。仕事に対する姿勢や熱意は、あのころと、今もさほど変わらない。
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