本日、カリフォルニアのシリコンヴァレーから送っていた荷物(段ボール43箱)が、2カ月を経て、ようやく届いた。ストレージルームに預けていたワシントンDCの荷物(段ボール73箱)は、年末に発送したので、きっと2月末から3月にかけて到着するのだろう。
米国西海岸からの荷物は、太平洋を通ってチェンナイの港に到着した。東海岸からの荷物は、どういう経路で来るのだろう。
それはさておき、米国の引っ越し会社から委託されているインドの引っ越し業者(Writer)が、こちらの窓口だ。船から荷物を引き取る際の税関手続きの際、夫のオリジナルのパスポートが必要とのことで、過去3年間の記録のあるパスポートをスタッフに託していた。それを持ったスタッフがチェンナイ港に飛び、手続きをしてくれるのだ。
本当なら、我が家に月曜日の午後、荷物が到着する予定だったが、「予想通り」に税関手続きの遅れたのに加え、引っ越し業者が荷物の計算を間違えて「小さめのトラック」を用意していたゆえ、出直すことになり、結局水曜日の今日、配達となった次第。
まあ、2日の遅れくらいは、許せる範囲だ。
予告されていた時間通り、彼らは正午過ぎに到着した。マネージャーが一人に、作業員が4名。今回もまた、家具屋と同様、なぜかマネージャーが長身で、以下作業員はみな小柄である。南インドは小柄な人が多いようだが、それにしたって「絵に描いたような」一団に、またしても、ちょっと笑える。
しかし彼らは、小柄ながら、当然だが腕力があり、重たい箱もひょいひょい抱え、わたしの指示する通り、あの部屋、この部屋へと、荷物を運び入れてくれる。家政夫モハンも一緒に手伝う。
(ああ、またこれらを開封して片付けねばならないのか……)
次々に運び込まれる箱を見ながら、気が重い。さらには2カ月後、より多い荷物が届くのだと思うと、早くもいやになる。ここ数年、「身軽に」をテーマに暮らして来て、極力、かさばらないように努めて来たのだが、なんだかんだと荷物は増えてゆく。
更にはインドで、「欲しくなるもの」に次々と出くわして、よりいっそう増えていく。
2カ月以上、なくてもよかった荷物なんだから、これから先、なくても大丈夫なものばかり。更にはDCから届く荷物なんて、半年以上の不在。大半が書物や書類の類い。あとはキッチン用品、食器、衣類にインテリアの雑貨類。しかし具体的な内容物がいったい何だったのか、思い巡らすことさえ困難だ。
そもそもわたしは、ストイック <禁欲的> な性格ではなく、部屋を素敵に飾りたい、おしゃれをしたい、ジュエリーだって好き……と、物欲はしっかりあるのだが、その反面に於いて、身軽に、遊牧民みたいにいつでも駆け出したいという願望がある。
その矛盾は、このインドに来て、一層拡大したように思う。
あらゆる価値観の両極が、渾然一体と具現化している国。「有」と「無」の錯綜が、あからさまで、一目瞭然の国。
あってもなくてもいいものを手にすることが、豊かさの象徴なのか。などと、真剣に発想してしまうから、自分でも驚く。
経済的に可能であれば、欲しいと思う物は、買いたくなる。しかしながら、積み上げられる段ボールを見ていると、「なんなの、これは?」と思う。これらが、わたしたちの軌跡の、一つの象徴でもあるのか?
人生の折り返し地点に立つ今。「幸福の定義」というものについて、これから先、真摯に考えて行くべきだな、などと、現実逃避を兼ねて気が遠くなっているところで作業は完了。
マネージャー氏曰く、「マダム、開封を手伝いましょうか?」とのこと。
「追加料金はいくらです?」
「いくらでも。お支払いいただける金額で」
つまり、ある程度のチップを払えば、手伝ってくれるという訳だ。書類の箱などは自分で整理するとして、キッチン用品や衣類の箱を開けてもらい、半分ほどの開封とゴミの片付けを手伝ってもらった。みな手際よく、作業してくれる。こういうところは、インドの「極楽」部分である。
彼らが手伝ってくれた甲斐もあり、衣類を除いては、今日、片付けを終えた。明日にはすべて、片付け終わることだろう。家政夫モハンが手伝ってくれることもあり、予想以上に捗った。
自分に慣れ親しんだ品々が、身近に戻って来た感覚は、とてもやさしげだ。特に、今日は、久しぶりの「音楽」がうれしかった。
しかし、価値の所在が覚束ない、43箱の荷物に心が乱れたのは、インドのせいだろう。