今日を遡ることちょうど十年。1996年7月7日に、我々は出会った。
出会った瞬間に、「ビビッ」とも「ブブッ」とも来なかったが、七夕に出会うとは、当事者のムードに似合わず、非常にロマンティックではある。
あのときは、まさか自分がインドに住むことになろうとは予想だにしていなかったが、こんなことになってしまい、人生とは予測不可能であるからこそ面白い。
記念日な今日の夕餉は、先日スジャータの誕生日で訪れた近所のメリディアンホテルにある"Qi"にて。またしても、エビ天やらスパイダーロール(ソフトシェルクラブの巻き寿司)など、東アジアの料理を味わう。
食事のあとは、夫が「今日は記念日ですので」と予約時に頼んでいた故、ケーキが届けられた。先日とは異なり、パイナップルのスポンジケーキである。先日のチョコレートケーキがうれしかったのだが、店からのサーヴィスなのだ。贅沢は言うまい。ケーキには、
Happy Anniversary, MIHO & ARVIND
と書かれている。ん? いや、違うぞ。MIHOではなく、MIGOとなっている。GO GOと前進する迫力のある人のようで、それはそれでいいではないか。
しかし、アルヴィンドは許さない。GをHに直したいと言う。不器用なのに。そんなわけで、二人して、なんとか文字を直して、ちょっと汚くなったけれど、出来上がり。
ところで、夏期はこれからしばらく、我々の記念日誕生日関係が続く。そもそも、すでに6月末から始まっているのだ。
6月30日 米国での結婚記念日(ドキュメントをファイルした)
7月7日 出会い記念日
7月18日 インドでの結婚記念日
8月9日 アルヴィンドの誕生日
8月31日 ミホの誕生日
これら記念日をすべて Qiで行い、その都度ケーキのサーヴィスを受けていたら、なにか、怪しまれそうだよね、などとくだらないことを話し合いつつ、生クリーム過剰なケーキを味わう。やっぱり、この間のチョコレートの方がよかった。
そんなわけで、先日、マルハン夫妻の、思い出の映画に於いても抜粋した、例の手記より、出会いのあたりについてを転載したいと思う。
思い返すだに、よく、十年も付き合って来られたものだ。
あ、ちなみに、義父ロメイシュと義継母ウマが出会ったのも、ちょうど十年前。7月12日である。今朝、彼らは欧州一カ月旅から戻って来たらしく(相当楽しかったらしい)、電話がかかってきた。
我々の十周年記念を祝ってくれ、自分たちも12日はどこかへ出かけるのだと言っていた。
ちなみに、彼らが結婚したのは、我々の半年前。出会って約5年後である。ウマ曰く、マルハン家の男は決断に時間がかかる。「マルハン家の男は五年がかり」などと、かつて皮肉をいっていた。
するとダディマ(祖母)も一緒になって、「わたしの夫もそうだったわよ! まったくのろのろしてるんだから!」と声高に叫んでいた。親子三代に亘って受け継がれる性格……。
アルヴィンドもロメイシュみたいになるんだろうか。ううむ。今はいろいろ、考えまい。
【以下、『スパイス』(長編エッセイ:坂田マルハン美穂著)より抜粋】
……わたしが初めてニューヨークを訪れ、そして暮らし始めたのは1996年の春、30歳のときだった。それまでは、東京でフリーランスのライター兼編集者をしていた。海外取材に出る機会が多い上、休暇でも海外旅行をすることが多かったわたしは、自分のつたない英語力に不満だった。
少しでも上達して、海外の人々とも深みのある会話をしたいと思った。その前年に、英国で3カ月間、語学留学をしたが、思うように上達しなかった。せめて1年間の勉強は必要だろう。そう思ったわたしは、生活する上でも刺激のありそうなニューヨークを留学先に決めたのだった。
渡米直後の1カ月は、語学学校が手配してくれた郊外の家庭にホームステイしていたが、翌月からは、学校で知り合った日本人の男の子とマンハッタンにアパートメントを借り、ルームメイトとして部屋をシェアすることにした。
そのころ、夕食後の数時間を、アパートメントにほど近いブロードウェイ沿い、リンカーンセンター前にある大型書店、バーンズ&ノーブル内のスターバックス・カフェで過ごすのが、当時のわたしの日課になっていた。
アパートメントのリヴィングルームでは、たいていルームメイトがテレビを見ているし、そうでなくても音が筒抜けの狭い部屋で、他人と生活をするのは神経を使う。
だから、この状態を逆手にとって、わたしはできるだけ外出しようと心がけていた。滞在予定の1年間に、できる限りの英語力を身に付けたいから、語学学校の授業がある午前中以外にも、英語を話す機会を見つけるに越したことはないのだ。
その点、このスターバックスはなかなか便利な場所だった。いつも込み合っている分、相席になることが多く、その相手と会話が始まることが少なくなかったからだ。
米国人は、日本人に比べると、ずいぶん気軽に見知らぬ他人に声をかける。相席になった人同士が世間話に興じるのは決して珍しい光景ではない。わたしはすでに3カ月の間で、数人の常連客と顔なじみになっていた。
映画監督のホンコン出身青年、脚本家志望のトリニダード・ドバゴ人の青年、グラフィックデザイナーのコリアン女性、かつてジャーナリストだった老齢の米国人男性など。みな、このバーンズ&ノーブルのあるアッパーウエストサイド周辺に暮らしている。
彼らと話すことは、英会話の機会をもてること以上に、会話そのものが刺激的で新鮮だった。
1996年7月7日、日曜日。その日は米国の祝日の中でも最も盛大に祝される独立記念日(7月4日)の連休最終日で、その夜のスターバックスはいつもに増して込み合っていた。
語学学校のテキストやノートブックが入った重いバッグを肩から提げ、片手にカプチーノのカップを持ったわたしは、どこか空いている席はないかと店内を見回す。
奥の方に、二人がけのテーブルで、書き物をしている男性の後ろ姿と、その向かいに空いた椅子が見えた。誰かに先を越されぬよう、わたしは急ぎ足でテーブルに近づく。
「失礼ですが……ここに座ってもいいかしら?」
テーブル一杯に資料を広げ、熱心に仕事をしていた男性が、ハッとしたように顔を上げた。
「もちろん。どうぞ」
彼は、にっこりと微笑んだあと、テーブルに散らばった書類を自分の方にかき集め、わたしに座るよう促したあと、再び仕事を始めた。
浅黒く肌理の細かい肌、筆でなぞったような濃く太い眉、丸みを帯びた大きな瞳、それに覆い被さるようにぎっしりと並ぶ睫毛、ぷっくりと厚い唇、耳朶が大きめの福々しい耳……。
(インド人? それともアラブ系かな? 日曜なのに、ずいぶん真面目に仕事してるのね)
相席となった彼の様子を、相手に気付かれないよう瞬時に観察した後、わたしもまた、バッグからテキストを取り出し、明日の授業の予習を始める。
20分ほどもたったころだろうか。仕事の区切りがついたのか、彼はコーヒーをもう一杯買ってくるから、荷物を見ておいてほしいと言って席を立った。
コーヒーを片手に席に戻ってきた彼は、人なつっこい笑顔で礼を言ったあと、わたしの手元を見て興味深そうに尋ねた。
「それは何ですか?」
「あ、これ? これは電子辞書。わたし英語の勉強をしているから、これが手放せないのよ」
それをきっかけに、二人は互いの簡単な自己紹介をした。彼はインドのニューデリー出身で、現在はミッドタウンにあるコンサルティング会社に勤めているという。
当時わたしは、ルームメートと共用の電話を使っていたせいか、わたしはあまり警戒することなく、出会った人たちと電話番号を交換していた。
その日も別れ際、彼から名刺をもらったわたしは、特にためらうこともなく、文具店の自動販売機で作ったばかりの、自分の名刺を渡した。
それまでも、何人かの人たちと連絡先を交換したが、出会った翌日に電話をかけてきたのは彼が初めてだった。
そのころわたしは付き合っている人もおらず、気軽な身の上ではあったが、米国での滞在予定は一年間だったし、何よりの目的は英語力強化だったから、ボーイフレンド云々を積極的に考えてはいなかった。
だから彼、アルヴィンド・マルハンから食事に誘われたときも、一度くらいならといいだろうと、ごく軽い気持ちで承諾した。
とまあ、こんな感じで出会ったのである。
当時彼は、23歳であった。てへ〜。若かったのね〜!