アルヴィンドと、スジャータと、ランジット伯父と4人で、夕暮れの公園を散歩した。
ランジットは、今は亡きアルヴィンドとスジャータの母親の、唯一の兄弟、兄である。
数少ない、しかし身内を巡って、多分世界中のどの家庭にもあるように、彼らのところにも、朗らかに話すことのできない過去がある。そのことは、アルヴィンドと出会った当初から、聞いていた。しかし歳月を経るごとに、彼の心が氷解してゆくさまも、また、見て来た。
今回、アルヴィンドがランジットに、泊まりに来てもらおう、と言ったとき、わたしは一瞬躊躇した。「親戚を泊めるなんて面倒だ」という気持ちも、もちろんなかったわけではないが、彼らの過去の軋轢が、心を過ったのだ。
しかし夫が「ランジットは、数少ない僕の肉親だから」と言う。彼なりの、「思うところ」が察せられ、快く伯父を迎えよう、と思った。
公園の散歩を終えて、仕事をすませたラグヴァンと合流して、わたしたちは、メリディアンのQiで夕食をとった。
「ミホ、Qi(気)とは、どういう意味なの? 日本語と中国語とは違うの?」
ランジットが尋ねるので、バッグからペンとノートを取り出して、漢字の説明などをする。ランジットはビジネスで、日本へも中国にも行ったことがある。日本企業もクライアントに持っている。
最初は各々の国々の、文化の話、当たり障りのない話題だったが、やがては、スジャータやアルヴィンドの子供時代の話、祖父母、曽祖父母、親類の話題に話が及ぶ。
彼らの子供時代を、まるで昨日のことのように懐かしげに話すランジット。
「アルヴィンド、君の名前は、僕がつけたんだよ」
「え? モニママ(ランジットの愛称)が付けたの? 僕はお父さんかと思ってたよ。じゃ、アルヴィンドの意味、知ってる?」
「確か、太陽、だよね」
「違うよ! ロータスだよ!」
サンスクリット語の「アルヴィンド」の、その意味を間違えて命名したのは、てっきり呑気な義父ロメイシュかと思っていたのだが、なんと伯父さんだった。そのことを、今更知るというのもまた呑気ね。
アルヴィンドの両親と、ランジット伯父夫妻との間には、いくたびもの、問題があった。しかし、それは同時に、深い関わり合いと長い付き合いがあったことを意味している。
誰しも、人生で「取り乱す時期」はあるだろう。自分が取り乱しているとき、人を傷つけることをするだろう。誰かが取り乱しているとき、誰かに傷つけられたりもするだろう。
わたしたちは、各々が完璧なわけではない。人を評価するのは簡単だが、果たして自分はどうなのか。どうだったのか。そのことを考えると、無闇に人を責めることは、できなくなる。
そんなことを、改めて考えさせられた夜だった。
わたしは、スジャータやアルヴィンドが、身内を大切にしようとつとめている、あるいは、自然と、そうしていることが、とてもすばらしいことに思える。
彼らは、人を責めないことで、自らが安寧でいられる術を知っている。それは天性のものかもしれないし、努力をしているのかもしれない。
憎むことはたやすい。しかし、憎しみは、何の喜びも生まない。きれいごとであり、難しいことではあるが、わたしは、「許すことができる人」であり、「許されることのできる人」で、ありたいと思う。それは何より、自分が後悔すべき行いを重ねて来た所為でもある。
さて、今日はまた、過去の記事を転載しようと思う。まずは、ニューヨーク時代、『muse new york』の「わたしの母、わたしのふるさと」という連載で、アルヴィンドを取材したときの記事。手っ取り早く身内から、取材したのだ。
次いで、ワシントンDC時代、メールマガジンに書いた記事。アルヴィンドの亡母アンジナの手記を翻訳したものだ。久しぶりに読み返してみて、その文章の重みに改めて感じ入った。
アンジナの手記は、非常に私的なことではあるけれど、同時に普遍的なことでもある。長い長い文章ではあるが、端折るに難いので、そのまま転載している。時間のあるときに、読んでいただければと思う。
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"muse new york" Vol.1/ 1999年 秋号
My Mother, My Motherland(わたしの母、わたしのふるさと)より転載
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■叱られてぶたれたこともあったけど、たいていは穏やかで温かい母でした
[今回のニューヨーカー]
インド・ニューデリー出身 アルヴィンド・マルハンさん
1972年、インドの首都、ニューデリーに生まれる。18歳の時、大学入学を契機に渡米。ボストンで大学生活を送った後、ニューヨークの企業に就職。現在はMBAの学生。 (※99年当時)
僕の名前 「Arvind アルヴィンド」は、梵語(サンスクリット語)で「蓮の花」という意味です。インドでは一般に、梵語や伝説の登場人物から名前を取って命名します。本当は、「太陽」という意味の名前を付けたかったそうですが、父が勘違いして命名したようです。
僕はニューデリーの比較的裕福な家庭に生まれました。ニューデリーは英国植民地時代、20世紀に入ってから、インドの首都として英国によって築かれた新しい街で、中心部には美しい建物や公園があります。
父と母はお見合いを通して出会い、お互いのことがとても気に入って結婚したようです。母はインドの大学を出た後、イギリスで修士号を取得、その後、帰国して国連の保健機関で仕事をしていましたが、結婚してからは仕事をやめ、家庭に入りました。
僕が両親と姉の家族4人で暮らしたのは8歳までです。父が転勤の多い仕事についていたことで、母は僕と姉の学校のことで頭を悩ませていました。
インドは州によって教育制度や言語が異なりますから、転校を重ねることは僕たちにとって重荷になると考えたのでしょう。結局、僕らは母の父、つまり僕の祖父の家に預けられることになったのです。
僕たちの教育については、おっとりとした性格の父よりも、母の方に絶対的な裁量がありました。
祖父は、当時、大きな砂糖工場を経営していた事もあり、金銭的には恵まれた生活をしていました。そのころすでに妻を亡くしていたので、広い邸宅には使用人が暮らすばかりでした。僕たちの食事や身の回りの世話も、使用人たちがしてくれました。
夕食はいつも祖父と姉と3人で食べましたが、祖父とは当然、話が合わないし、厳格な人だったからくつろげませんでした。なんだかいつも寂しかったのを覚えています。だから尚更、母が来ているときは、本当にうれしかった。
母は、1ヶ月ごとに僕たちのところへ来てくれて、1ヶ月間一緒に暮らしていたのです。叱られてぶたれたこともあったけれど、たいていは穏やかで温かく、ユーモアのある明るい女性でした。
母が父との生活、そして僕たちとの生活をきっちりと半分に分けて両立していたことは、今思えば大変なことだったと思います。
母は好奇心が旺盛な人でしたから、僕たちのために洋菓子の作り方を勉強してくれたりもしました。自分で味噌を醸造して味噌汁を作ってくれたこともありましたよ。
当時、母と姉と3人でよく外出したものです。書店で本を買ってもらったり、市場に出かけてスナックを買ってもらったり。
たとえば、サモサやチャートなどは、こちらのインド料理店では前菜として出されますが、本場インドでは、これらはレストランで食べる料理ではありません。市場やストリートの屋台で食べるスナックなのです。決して衛生的ではないけれど、屋台の食べ物はおいしくて大好きでした。
両親は特に勉強をしろと言うタイプではありませんでした。ただ、どうしても僕自身、二番になることが許せなくて、テスト前には一生懸命勉強しました。だから、成績はたいてい一番でした。でも試験の時期以外はクリケットを観戦したり、本を読んだり、気ままに好きなことをやっていました。
インドの学校では一般に、同級生がグループになる「クラス」のほかに、「ハウス」というカテゴリーがあります。7歳から18歳までの生徒が入り交じって、いくつかのグループになるのです。学芸会やスポーツ大会などの行事のときには、ハウス単位で行動します。ですから、同じハウスの生徒たちと遊ぶことも多かったですね。
子供の頃は、将来についてあれこれと思い描いてました。クリケットの選手や天文学者、政治家になりたいとか…。クリケットはずいぶん攻略法を研究したから、本を書けるくらいです。でも、実践の方は…全然ダメでしたね(笑)。
母が白血病に冒されているとわかったのは僕が15歳のときでした。
母は成功する確率の低い手術を受けることを拒み、さまざまな情報を集めた結果、食事療法などで病気と闘う決意をしました。
精神的にも、前向きであろうと努力する人でしたから、それから約5年、がんばって生きていてくれました。母が亡くなったのは、姉が結婚式を終えた直後、僕がアメリカの大学に進んで1年目のことです。僕は、誰よりも、母のことが大好きだった。だから、すっかり痩せてしまって死の床についていた母の姿を見たときは、心が張り裂けそうでした。
母が亡くなってから、姉が遺品の中から日記を見つけました。それは、発病して以来、毎日、書きためていたものです。
僕と姉、そして父のことを、どんなに思ってくれていたかが痛いほど伝わってきました。
母が亡くなってすでに6年の歳月が流れますが、今でも時々夢に現れます。母の死は、僕の中でまだ折り合いのついていない事実として横たわっているのです。
(写真右上)旅行先のスイスにて、12歳のころ。母と姉とともに
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NY&DC通信:Vol. 112 (March,12, 2004)より転載
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■人生の「量」と「質」について、考える。
わたしにとって、とても大切な二人が、今、がんと闘っている。
父、坂田泰弘と、友、小畑澄子だ。彼らのことは、以前、このメールマガジンで書き記した。父は2000年の春、小畑さんは2001年の夏に発病し、以来数年間、病と共に生きている。(※小畑さんは同年4月、父は5月に他界した)
わたしは身近な彼らを通して、自分自身の生き方をも、さまざまに考えさせられる。特に、同じ年齢の小畑さんから受ける影響は、計り知れない。彼女は、わたしが以前から敬意を抱いていた大切な友人だったが、彼女が発病して以来の、その生き方や考え方は「敬意」という言葉を超えるものだ。
彼女のことは、いつか改めてきちんと、書きたいと思っている。
今日は、重い病と闘った末に他界した、アルヴィンドの母、アンジナのことを紹介したい。
彼女が亡くなって10周年の昨年(2002年)、アルヴィンドの姉、スジャータが、アンジナのメモワールを出版した。その71ページにわたる冊子には、スジャータによる母の回想や写真を中心に、家族や親戚、アンジナと親しかった人々の手記、またアンジナがメディアに取り上げられた際の記事のなどが掲載されている。
いずれの文章も、心が引き込まれる、純粋で温かいものだ。
昨年末、インドに行ったとき、その冊子を受け取った。アルヴィンドの母アンジナは、1986年、43歳のとき、慢性骨髄性白血病と診断された。アルヴィンドが12歳、姉のスジャータが14歳のときだ。
アンジナは、診断された直後より、医師の薦めに従ってキモセラピー(抗がん剤)による化学治療を受けたが、その苦しく激しい副作用に、心身とも痛めつけられる。
西洋医学の療法に疑問を持った彼女は、残された歳月を「自分らしく」生きるため、命の「長さ」よりも、命の「質」を選び取る決意をした。
自分に適した治療法を模索し、最終的にたどりついた食事療法で、キモセラピーに頼らず、その後7年間、生きた。その間、彼女は自分と同じように病んだ人々を助けるためのクリニックを開き、多くの人たちの心の寄る辺となってきた。また、有機野菜を育てる農場を自ら経営し、その収穫物を患者たちへ供給した。
メモワールの中でも、アンジナ自身の手記が雑誌に紹介されたその記事が、わたしにとって、とても印象深かった。重い病を抱えている人、いや、病を抱えていない人に対しても、訴えかける力を持っている。わたしの家族を始め、多くの人に読んでもらえればと思い、記事を日本語訳した。
“わたしは生きたい”アンジナの手記 (1992)
夫のロメイシュ、いとこのアマルジット、そしてわたしの子供たち、スジャータとアルヴィンド、そして友人たち。彼らの支えなくして、わたしは今日まで生き続けることはできなかった。深い感謝をこめて、お礼をいいたい。
* * *
今から6年前、わたしは、家庭を切り盛りし、二人の子供たちを育てることに夢中の、ごく普通のありふれた暮らしをしていた。わたしの人生は、転勤の多い夫と、二人の子供たちの学業を軸にして、ぐるぐると振り回されているようでもあった。
そんなあるとき、わたしたち家族の安泰と、わたし自身の存在が、混乱の中に陥れられた。それは、わたしが定期検診で血液検査を受けた翌日、ボンベイにあるタタ記念病院に再検査を受けに行くよう、言い渡されたときから始まった。
一連の検査のあと、ドクターはわたしが「慢性骨髄性白血病」であると診断した。そして彼は、わたしの命は数年だろうと告げた。その瞬間から、わたしの「生」に対するあがきが始まった。
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※訳者注:慢性骨髄性白血病の概略
白血病は急性骨髄性白血病、急性リンパ性白血病、慢性骨髄性白血病、慢性リンパ性白血病の大きく4つにわけられる。
慢性骨髄性白血病は、初期段階の自覚症状がなく、健康診断などで明らかになることが多い。発症後、「数カ月から3、4年」の間、「慢性期」と呼ばれる時期が続き、疲労、虚弱、食欲不振、体重減少などの症状が現れる。延命のために化学療法やインターフェロンの投与などが行われる。
やがて「移行期」に入ると、治療による白血球数のコントロールが困難になり、脾臓の腫大が進行する。それに伴い、貧血、出血傾向、発熱などの症状が現れる。
さらに「急性転化期」に入ると、慢性期と同様の化学療法では白血球数をコントロールできなくなる。脾臓の腫大が顕著になり、貧血、出血傾向、発熱などが悪化する。
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タタ記念病院で、わたしは1コースのキモセラピー(抗がん剤による化学治療)を受けた。わたしは、病院がわたしに施せる治療は、定期的な血液検査と、キモセラピーによる治療だけだと言うことを悟った。
キモセラピーは不必要な細胞(がん細胞)だけでなく、血小板や他の必要な細胞をも破壊してしまう。キモセラピーが病気を緩和するかどうかは、まるで気まぐれや思いつきのように、人それぞれによって結果が異なる。ドクターは経過を見守る以外、何をすることもできない。
骨髄移植ができるかどうかを探るため米国のUCLAを訪れたとき、わたしはドクターから説明を受けた。骨髄移植をしなかった場合、キモセラピーを受け続けたとしても、「慢性期」は3年から5年で、「急性転化期」に陥った場合、更に強いキモセラピーを施す以外、ほとんど手だてがないとのことだった。
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※注:アンジナは骨髄移植の可能性を知るために渡米したが、当時、適合するドナーを見つけることが非常に困難で、血縁者にも適合者が見つからないなどの不運もあり、最終的に諦めたようである。
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統計的に言えば、現在の医療の進歩により延命率は伸びているとのことだった。では、わたしはどちらのカテゴリーに該当するのか(延命率の伸びている方か、それとも伸びていない従来の方か)をドクターに尋ねても、彼らは何も答えられなかった。
ともかく、さまざまなことが、明らかになった。卓越した薬や、知的な医者たちに頼ろうが、頼るまいが、わたしに残された平穏でいられる時間、つまり「慢性期」から「急性転化期」に陥るまでの限られた時間は、あくまでも、わたしの身体の状態次第であり、誰も予測したり、統計に当てはめることはできないということ。
ともあれ当面は、わたしは普通通りの生活を送ることができるとドクターに言われた。
米国に滞在中、わたしは慢性骨髄性白血病に関する統計を調査した。そして衝撃を受けた。最新の診断法が反映された上での調査結果にも関わらず、米国に於ける急性骨髄性白血病の発生率は上昇しているばかりか、死亡率は減少していないのだ。
生存期間は確かに延びている。だけど、わたしの場合はどうなのか? どれほどの犠牲を強いられるのか? 残された期間、わたしは子供たちに、何をしてやれるのか?
ドクターによって与えられた、わたしの人生の「猶予期間」のその先を、わたしは想像することができなくなっていた。
運がよくて、5年間。その余命に、わたしの命は収束しているかのように思えた。
わたしの残りの人生は、血液検査室の外で不安にさいなまれながら、検査結果を手渡されるのを待つか、あるいは診療所の外で次のキモセラピーの投与を待つか、その二つに支配されるかのように見えた。
わたしは人生の岐路に立っていた。一つの道は、よく利用される道で、理にかなっている。多くの統計はこの道に基づいたもので、多くの人々がこの道を選ぶ。ドクターたちは、これが唯一の道だと主張する。もう一つの道は、人に知られていない、怖ろしい道だ。先が見えない。
わたしに、「正しい道」を選べる確信はあるのか?
病に対する姿勢について、いくつかの著書を持つノーマン・カズンズが、自らの「選択」についてを記した本『The Healing Heart』がある。同書の中で、彼は自分がどれほど強烈な心臓発作を経験し、その後、回復に向けて歩んできたかを描写している。
彼の心臓は、広範囲に亘って損傷しており、ドクターは彼が、よほど注意深く生活しない限り、18カ月以上、存命することはないだろうと予測した。カズンズ氏は同書の中でこう記述している。
“わたしは二つの道を見下ろしていた。一つは「心臓病患者の道」。自分の大切なことをすべて諦め、無為で沈鬱な18カ月を過ごす道だ。もう一つの道は、今日までわたしが歩んできた道だ。なじみのある、愛すべき、わたしにとって、唯一の道。
わたしに残されてるのは、18カ月かもしれないし、18週間かもしれないし、18分かもしれなかった。しかしそれは、紛れもなく「わたしの道」だった。そんな単純なひらめきによって、わたしは自分がどの道を選び取るかを決めた。”
ノーマン・カズンズは、最初の心臓発作から10年以上(訳者注:25年)生き、数々の本を著し、講演なども行った。病を持つ人の考え方や生きる姿勢、また充実した生活を送ろうという意欲こそが、身体的な障害を克服するのだという彼の説は、多くの人々の救いとなった。
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※訳者注:ノーマン・カズンズ氏
ノーマン・カズンズ(1990年に75歳で死去)は日本人にとって、二つの偉業でその存在を知られている米国人だ。
彼は笑うことによって難病を克服した自身の体験に基づいた本を何冊か著しており、日本でも「笑いの治癒力」「私は自力で心臓病を治した」といった翻訳書が販売されている。
1964年、米国の「サタデー・レビュ」ー誌の編集長だった彼は、ユネスコ代表国の一員として旧ソ連を訪れるが、帰国途中に強直性脊髄炎という難病を発病する。彼が50歳のときだ。以降、全身の強い痛みやしこりに悩まされるようになり、ドクターから全快の可能性はわずか500分の1だと宣告された。
過酷な仕事によるストレスが病気の原因だと知った彼は、愛や希望、信仰、笑いなど、「生への意欲」が身体にいいのではないかと考え、喜劇映画やユーモアのある本に接し、笑う機会を増やした。喜劇映画を観て大笑いしたあと、熟睡できた彼は、それを継続したところ、症状が改善し、半年後には元の職場に復帰できたという。
ノーマン・カズンズのもう一つの偉業は広島が舞台だ。カズンズ氏は1949年、やはり「サタデー・レビュー」の記者として被爆後の広島を訪れた。その被害に衝撃を受け、51年に米国と広島に「ピースセンター」を設立。原爆孤児と精神的な養子縁組を結び、資金や手紙を送る「精神養子運動」を展開した。
55年には被爆した女性たちが米国で整形手術を受けられるよう、日米の懸け橋となり、これらの功績で外国人として初めて広島市の特別名誉市民となった。2003年には広島県医師会が募った募金によりカズンズ氏の記念碑が完成。彼の存在は「米国の良心」として、広島で語り継がれているという。
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わたし自身はといえば、どの道を選ぶべきか迷っていた。米国滞在中のある日、書店で1冊の本が目に留まった。バーニー・シーゲル博士 (Dr. Bernie Siegel, M.D.)が記した『Love, Medicine and Miracle』という本だ。
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※訳者注:日本では『奇跡的治癒とはなにか』というタイトルで日本教文社より発行されている。
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何気なく本を開いたわたしの目に、一文が飛び込んできた。
「人は、自らの限られた命を悟ったとき、残された日々をいかに生きるべきか、考え直さねばならない」
わたしは家にじっとして、ただ死をも待つこともできた。或いは、己の耐え難い悲しみや怒りをばねにして、外に出ることもできた。わたしは自分に問うた。もしも、わたしの人生があと1カ月で終わるとしたら、わたしは自分が生きたいように、今、生きているだろうか?
シーゲル博士は、続ける。
「わたしは、死を「失敗」だとは思わない。むしろ恐怖にさいなまれながら生きることこそが「失敗」だと思う。わたしは、多くの患者たちと向き合う仕事を通して、前向きに生きるか、悲観的に生きるかは、あくまでも本人の在り方に拠るということを悟った。我々が、病や人生に、果敢に挑戦するとき、すでに我々は「成功」しているのである」
わたしの心は決まった。わたしはこの本を買い、持ち帰った。以来この本は、わたしの座右の書となった。先日行われた、シーゲル博士の指揮するがん患者向けの研究会にもわたしは参加した。
わたしは、自分の人生が、家族との楽しい思い出に満たされる道を、選び取ることを決めた。そして同時に、アロパシー(逆症療法)に取って代わる治療法を探し始めた。
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※訳者注:現代医学は、基本的にアロパシー(逆症療法)に基づいている。例えば、高血圧に対して血圧を下げる効果のある薬を用いるなど、今ある症状とは逆の症状を引き起こす薬を投与する治療法だ。
一方、ホメオパシー(同種療法・類似療法)は、「似たものが似たものを癒す」という原理に基づくもので、心身に入り込んだ病的エネルギーを押し出し「病気を終わらせる」療法で、近年、日本でも注目を集めている。
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調査の結果、米国のボストンに在住するアン・ウィグモア博士( Dr. Ann Wigmore)の食事療法が見つかった。がんを含むさまざまな疾患に、極めて効果的な成果を上げている。
彼女のプログラムは「リビング・フード・プログラム」と呼ばれていた。この治療法を選ぶことで、わたしの栄養学者、看護士としてのキャリアが活かされるに違いないと思った。
わたしは彼女の組織「ヒポクラテス健康協会」(Hippocrates Health Institute) を訪れた。そこはアットホームな雰囲気で、わたしはすぐさま、場の空気になじんだ。そこには愛と信頼を感じさせるなにかがあった。わたしの不安や恐怖心は鎮まり、わたしは初めて、希望を見いだした気持ちにさせられた。
ウィグモア博士は、わたしが持参していたカルテなどの資料を見なかった。彼女が行う治療に、病院のカルテは必要ないとのことだった。彼女は、わたしがライフスタイルを完全に修正するには、まず彼女の療法を理解する必要があり、そのためには協会に何度か通う必要があると主張した。
わたしは彼女の治療法を実践する前、本当にわたし自身、やる気があるかどうかをはっきりとさせておく必要があった。わたしは、もしも身体がよくなるのなら、何でもやるべきだと思っていた。わたしは彼女が、彼女の治療法をわたしに許可してくれるまで、2週間かけて彼女の協会に通った。
そのときの経験は、わたしに新しい世界観を与えてくれた。プログラム全体の基本は、健康的な免疫システムを構築することだった。十分に強い免疫力があれば、がんを含む、ほとんどの健康障害が改善されるとのことだった。
協会での一日は、軽いエクササイズから始まり、続いて祈りのセッションが行われた。わたしたちは、自分たちのためではなく、むしろ他の人々のために祈るよう言われた。
わたしは「望むならば、与えよ」ということを、学んだ。
失ったものについて、くよくよと思い悩むよりも、今自分が持っているものに対して感謝することの大切さを学んだ。
楽観的な気持ちや、希望、信頼、愛、生への意欲、朗らかさ、独創力、遊びを楽しむ心、自信、そして可能性や期待という感情が持つ治癒力の重要性についてを学んだ。
そして、ストレスや悲観的な感情が、どれほど免疫力を衰えさせ、病の原因となるかを知った。
わたしは、自分の病に対し、無力な傍観者ではなく、支配者になれるのだと悟った。
ウィグモア博士の患者たちは、「自分のことは、自分でできるのだ」と勇気づけられた。ウィグモア博士の治療法をより深く学ぶための講義のほか、台所で野菜を発芽させる方法を学ぶアクティビティなども行われた。
協会で学ぶことは、何らわたしたちのライフスタイルを規制するものではなかった。わたしはそこに生きる智恵というものを見いだした。わたしの健康と快適な暮らしは、わたしの責任のもとにある。
わたしがもし元気になりたいのなら、「正しい食事」を摂るために努力せねばならない。実践するかしないかは、わたし自身の判断にかかっていた。
わたしは、化学肥料や農薬が、いかに人体や環境に悪影響を及ぼすかを学んだ。さらには野菜の有機栽培についても学んだ。
ウィグモア博士の肥料用のゴミ箱は、台所とダイニングルームの間の仕切りのあたりにおかれていた。その下にはトレイが置かれていて、こぼれたゴミは毎日掃除された。それらは全く臭いがなく、だからわたしたちはゴミ箱の中がどうなっているのか、わからなかった。
実はゴミ箱の中には、土と、たっぷりのミミズが入っていたのだった。わたしたちが消費する果物や野菜の皮などは、すべてこのゴミ箱に捨てられ、それらは1週間もすると肥料となった。わたしは自然の力に目を向けることを学んだ。
わたしは病気が発覚して以来初めて、楽観的な気持ちでインドの自宅に戻った。生きることに対する強い意欲と願望が沸き上がっていた。わたしはまず最初、自分と家族のためにオーガニックの野菜を育てることから始めようと思った。
ウィグモア博士の推奨する「麦の若葉ジュース」のための葉野菜を育てる土地は、父が提供してくれた。わたしはやがて、家で消費するための無農薬野菜を次々に栽培し始めた。
同時にわたしは、ホリスティック療法についての勉強も始めた。ある研究者によれば、「身体」と「精神」と「心」の三つの要素が調和しているとき、それは「よい健康状態」と見なされるとのことだった。
このことはまた、わたしに新たな自己治癒への道を開いてくれた。わたしは、病気を癒そうとする精神を利用した、重要で力のあるテクニックを学んだ。(ポジティブな事柄や状況の)イメージ化、視覚化はわたしの日々の生活に組み込まれていった。
わたしがまだ、自分自身の治癒のためだけに日々を過ごしていたころ、他の病を持つ人々が、わたしからアドバイスを受けようと、我が家を訪れ始めた。わたしはウィグモア博士のプログラムについて彼らと話し合い、持っていた本などを貸した。
わたしはまた、自分で育てた野菜をわけてあげた。彼らは、更なる本や情報を望むようになったので、わたしはウィグモア博士に手紙を書き、現状を報告した。彼女の組織は全面的に協力してくれることとなり、出版物や資料を送ってくれた。こうしてわたしは、感謝すべき仕事を行う機会を得たのである。
わたしの仕事は徐々に進展した。わたしは、自分を癒すことに成功しているのか、それとも失敗しているかは、病院の検査結果に拠るものではなく、いかに一日一日をしっかりとやり遂げるかにかかっているということを、身を以て感じ始めていた。
毎朝、期待や喜びを感じながら目覚めたかどうか。
そして今日一日を、精一杯、楽しんで過ごしたか。
わたしは6年前、「死なない」と決めたとき、義務感からではなく、自らの選択として、毎日を精一杯生きようと誓ったのだ。
わたしの人生は、学びの過程にある。何が大切で、何がそうではないのか。わたしにとって意味のある行動や関係とは何なのか。
わたしの仕事は、病んだ人々の身体から薬物を取り除き、解毒する手助けをすることだが、ただそれだけで、彼らの病状がすっかり緩和する場合がある。わたしの旅は、宣告された死を恐れながら、痛みの中で生きている人たちと共に続いて行く。
わたしはわたしの道を見つけた。愛の役割を見いだすための道。自分が生まれたときから備えて持っているはずの智恵に耳を傾け、真の癒しは自然の内にあると言うことを認識する道。
わたしは、病気になって初めて、人生についてを学びはじめたのだ。
アンジナは、この手記を著した翌年、スジャータの結婚式に立ち会った数カ月後に他界した。アルヴィンドによれば、彼女の体調が急変したのは、ファミリービジネスのいざこざ巻き込まれたせいだという。
責任感の強い彼女は、実父と実兄の板挟みとなり、過度のストレスを与えられた。だからアルヴィンドは今でも、トラブルの元凶となった伯父のことを許せずにいる。
そのころ、スジャータとアルヴィンドは、米国の大学に進み、勉強に追われていた。子供たちにいい教育を受けさせることはアンジナの願いでもあったから、たとえ離れて暮らしていても、それは彼女にとっては喜ばしいことだった。
彼女の病が急変したのは、確かにファミリービジネスの件もあったかもしれないが、一方、子供たちが成長した安堵感から肩の荷が下り、もしかすると気が抜けてしまったのかも知れない。
スジャータはインドの大学を卒業したあと、生物学の博士号を取得するため、米国のニューヘヴンにあるイエール大学の大学院に進んだ。アルヴィンドがボストンの大学に進学したのと同時期だった。スジャータはラグヴァンは、イエール大学で出会った。ラグヴァンは研究室に勤務していたのだった。
そのころ、アンジナの体調は芳しくなく、休暇のたび、スジャータはインドに帰省し、母との時間を過ごしていた。しかし、いよいよ、アンジナの未来が、限りあるものと察知したスジャータは、在学中で、まだ若かったにも関わらず、ラグヴァンとの結婚を決める。多分、母親に、結婚式を見て欲しかったのだろう。
結婚式を終えたのち、再びスジャータは大学に戻り、怒濤のように多忙な数カ月を送る。博士号取得のためには、それでなくても相当の勉強が必要だというのに、彼女はインドの母を気遣いながら、インドと行き来を繰り返しながら、勉強していた。
次の休暇でインドに戻ったとき、アンジナは、もう、とても衰弱していた。ロメイシュとスジャータは、アルヴィンドに帰国するよう連絡をする。家族みんなに見守られ、アンジナは、数日後に息をひきとった。
この時期の一連の出来事は、スジャータとアルヴィンドの心に深い影を落とした。
初めてのアメリカ生活。一人暮らしの不安と寂しさ。競争相手の多い大学。気が遠くなるほど、せねばならぬ勉強。そして最愛の母を案じる気持ち。
アンジナは、米国の大学に進もうとしているわが子たちの相談に乗り、背中を押し、励ました。たとえ、二人が自分から遠く離れたところに住むことになったとしても、子供たちが羽ばたいていくことは、アンジナにとっての誇りであり、喜びであった。
2003年の夏、スジャータが我が家に訪れた折、アルヴィンドに言ったという。最近になって、ようやく、あのころの痛みから、脱皮でき出来たように思う、と。アルヴィンドにしても、わたしと出会った当初は、よく母親の夢を見て、夜中にうなされ、目を覚ましていた。
"Mother is dying..."
ロメイシュが、アルヴィンドに帰国を促すため、大学の寮にかけてきた電話。「お母さんが、あぶない」という一言が、鮮明な記憶として、いつまでも心に刻印されていた。
さらには、インドに帰国して、見る影もなくやせ細った母をベッドで見たときの衝撃。一連のシーンが、何度となく夢に現れる。肉親との別れは、誰にでもあることであり、多分誰もが、長い間、その痛みにさいなまれる。
二人がその痛みから解放されるまでには、長い歳月が必要だった。
(March,12, 2004)