あの日からまもない、マンハッタンの写真を、と思って、自分のホームページを探した。しかし、わずか2枚しか、見つからない。
そのうちの1枚が、上の写真だ。
あの日から一週間後の9月18日。夫の住むワシントンDCから、一人でニューヨークの自宅に戻ったのだった。その日の夕暮れ時。カメラを持って、アパートメントビルディングの屋上に出た。夕映えの摩天楼が、あれほど悲しく見えたことは、なかった。
「あそこにほら、小さくワールドトレードセンターが見えるでしょ?」
来訪者を屋上へ連れ出しては、マンハッタンを鳥瞰しながら案内したものだった。いつも見えていた、その二棟があった場所からは、ただ、ゆらゆらと煙が立ち上っているのが見えるばかりだった。
* * *
翌日。茫漠とした心持ちのまま、あてどもなく、マンハッタンを歩いた。アッパーウエストサイドの自宅から、歩いて、歩いて、歩いて、それより以南は立ち入り禁止区域になっていた、チャイナタウンのキャナルストリートまで、歩いた。
あちこちで、写真を撮ったはずだった。けれど、そのときの写真が、ホームページのどこにも載せられていない。
古いコンピュータから移植していた写真保存用のファイルを開き、'2001'と名付けられたものをクリックする。SEPTEMBER。
あのとき撮影した写真が、あった。そのなかの幾つかを、今日5年ぶりに、ここに載せる。
翌月の10月6日には、まだ傷跡の残るグラウンドゼロにも、足を運んだ。このとき、わたしは、あの場にカメラを向けることができなかった。わたしは、ライターではあるけれど、決してジャーナリストにはなれない、と、実感させられた。
2001年に記したメールマガジンを、ここに残している。あの日の前後のことは、ここにたっぷりと書き残している。
ちょうど、『街の灯』の原稿を書いているころだった。
翌日の9月12日に記した一編「ダイヤモンド」は、『街の灯』の一章になった。校正しないままの、もとの原稿を、ここに転載する。
◆ダイヤモンド◆
わたしが会社員を辞め、フリーランスの編集者兼ライターとして独立した27歳の春、母が記念に指輪をくれた。それは、かつて父が母に贈った指輪だった。両親の知人のジュエリーデザイナーが手がけたという、世界で一つしかないその大振りの指輪は、以来、毎日、私の左手の中指に収められている。
まるで流れる川のように、滑らかな筋が幾重にも入った金色の輪。その中心には、中小、数粒のダイヤモンドが、流れに沿って細長く横たわっている。個性的でいて、上品なその指輪を、わたしは母が身につけていたころから気に入っていて、ことあるごとに、「これはいつかわたしにちょうだいね」と言っていた。
母がわたしにくれるのは、もっと先のことだろうと思っていたから、プレゼントされたときは、喜びよりもむしろ驚きの方が強かった。
それから3年後の春、わたしはマンハッタンにいた。この街で1年間、語学の勉強をするつもりで渡米したのだ。しかし、暮らしはじめてまもないころから(もしかすると、わたしは本当に、ここから離れられなくなるかもしれない)と直感していた。
マンハッタンには、わたしが今まで、どの街に暮らしたときにも感じ得なかった心地よさがあった。言葉も通じず、不自由なこともごまんとあったが、不思議にしっくりときた。まるで街そのものに磁力があって、わたしは吸い寄せられたかのようだった。
人と人の間に相性があるように、人と街の間にも、多分相性がある。わたしは大学を卒業して上京し、30歳になるまで東京で仕事をしていた。少なくとも、東京とわたしの相性はよかったとはいえない。それは単に、「人生における時期のよしあし」といった問題もあるのだろうが、それだけとも言い切れない。
あのころを思うと、当時の自分が痛々しくて、胸が苦しくなる。自分がどこへ向かっているのか、何を目指して走っているのか、ちっともわからなかった。季節が変わったことすら気づかずに、追い立てられるように、急き立てられるように仕事をし、それでも行く先が見えず、不安や焦りに包まれていた。がんばっても、がんばっても、満たされない歳月を重ねた。
今でも時々思い出す。日曜日の夕暮れどき、スーパーマーケットから古びたアパートへの帰り道。両手にビニール袋をぶら下げ、息も詰まりそうなほどに美しく、西の空を染め抜く晩秋の夕陽を眺めながら、滑り落ちていくような寂しさに襲われたことを。
わたしはどこへ行けばいいのだろう。東京が嫌いだとか好きだとか、仕事がいやだとかいいとかいうことではない。ただ、世界のどこかに、自分にしっくりくる場所があるに違いないと感じていた。でも、それがどこなのか、わからなかったから、休暇を取っては旅を重ねた。
ヨーロッパを数カ月さまよったこともある。アジア各地を巡ったこともある。でも、その場所はなかなか見つからなかった。
そして29歳の春、(ここかもしれない)という期待を持って、イギリスで3カ月間、留学した。しかし、イギリスにも、自分の居場所を見い出ずにいた。そんなある日、突如、ひらめいたのだ。(ニューヨークかもしれない)と。それまで、特に興味もなく、訪れたこともなかったニューヨークなのに、そのひらめきは日増しに現実味を帯び始めた。
多分、自分でも気が付かない、さまざまな因果関係がそこにはあったのかもしれない。いずれにせよ、わたしはイギリスから帰国する時点で、「来年はニューヨークへ、しかもできるだけ長期間行こう」と決めていた。
マンハッタンに来てまもない、ある日のこと。わたしはカフェでコーヒーを飲みながら、窓越しにぼんやりと、行き交う人々の姿を眺めていた。すると突然、隣の席に座っていた、白髪を美しくまとめた老婦人が、カップを握るわたしの手を見つめて声をあげた。
「まあ、なんてすてきな指輪なのかしら。まるでマンハッタンみたい!」
彼女に言われて、ハッとした。本当だ。流れるような指輪はハドソン川。細長くあしらわれたダイヤモンドは、まさにマンハッタン島のような形をしている。今までちっとも気が付かなかったけれど、本当に、彼女の言うとおりだ。
一度そう思うと、それはもう、マンハッタンをイメージして作ったとしか思えないデザインだった。
わたしはマンハッタンの夕暮れ時が大好きだ。交差点から西を望めば、沈み行く朱色の大きな太陽が見える。摩天楼にキラキラと黄金色の光を反射させ、まさに街全体がダイヤモンドのようにきらめく。そんな、まばゆい光に包まれるとき、わたしは「あしたも、がんばろう」思う。
この街で見る夕陽は、わたしに力を与えてくれるのだ。
世界中から集まった人たちの夢や、情熱や、喜びや、悲しみや、辛さや、もう本当にたくさんの思いを、この小さな島は諸手で包み込み、裕福な人も、貧乏な人も、そこそこの人も、笑顔で一生懸命に生きている人たちに満ちたこの小さな島は、まさにダイヤモンドのような輝きを放っている。
マンハッタンは、わたしにとって、世界で一番、愛すべき場所なのだ。
(September 12, 2001)