ランチを終え、コラマンガラを離れ、目指すはバンガロール大学の外国語学科の校舎。
本日、デリー大学客員教授・国学院大学教授の池内輝雄先生による「文学に見る日本の家庭・家族」という講義が行われるという案内を、バンガロール日本人会を通して受け取っていた。
日本文学科出身とはいえ、文学に触れる機会は激減のここ20年の我が人生だが、題目を見るや否や、「行かねば!」と思っていた。
バンガロールには、日本語教育のクラスがあり、基本的にはそこで日本語を学ぶインド人学生を対象とした講義である。
しかし、バンガロール在住の日本人の方々(主には女性)も加え、数十名の参加者だ。
題目、要旨をここに抜粋させていただく。
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「文学に見る日本の家庭・家族」
日本は、経済の高度成長のピークを迎えた1970年ころから家庭・家族の解体が目立つようになった。現在はその傾向がさらに顕著である。家族団らんの場が失われてしまったのである。というのは、サラリーマンは残業で疲れ果て、子供は塾通いでいそがしく、携帯電話・パソコンに向かう時間も異常に多いからである。また、原因は多様であるが、子供を持たない(持てない)家庭が増え、巷には子殺し、親殺しといった事件が頻発する。
家庭・家族の実態をとらえることは、日本の社会・文化を理解することにつながる。日本の近代文学のいくつかの作品を読みながら、そこに表された家庭・家族の問題を考える。
[取り上げる作品]
島崎藤村「おくめ」 <1896> (『若菜集』より)、志賀直哉『和解』<1917>、吉本ばなな『キッチン』<1988>、村上春樹『海辺のカフカ』<2002>など。
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わたしがインドの男性と結婚をし、その家族や親戚との関わりを通して、自分の考えを徐々に改めていったことは、これまでにもこのブログやホームページ上で、何度か言葉にして来た。
米国時代、インド家族が1カ月、我が家に滞在したときには、どうしてくれようか! というくらいにいやがっていたが、今となっては「1カ月、たいした長さじゃなかったかも」とさえ思える。
インドの家族を通して、またインドの人々の、家族との関わり合いの姿勢を通して、「適度な距離感を維持した上での交流の大切さ」を実感している。
わたしたち夫婦には子供がいないため、問題が生じると二人だけの間で煮詰まってしまう。そこに義父ロメイシュや義姉スジャータ、その夫ラグヴァンが存在してくれていることで、この移住後の一年あまり、わたしはどれだけ助けられているかわからない。
デリーに行って実家に泊まり、朝食や夕食を共にすることを当然と思えるようになったし、スジャータたちと週に一度は食事をするということも、とても自然な行いになった。
日本とインド、双方の家族を含め、距離感はさておき、その大切さを認識している。その一方、インドでも、核家族化が進み、インドならではのリレーションシップが薄れかけているさまを、人々との会話や、世間の様子を通して見知る日々。
講義を聴きながら、さまざまに思いめぐらすひとときであった。
先進諸国から流入する「最先端の文明」と、各々の国が遥か長い歳月をかけて育んで来た「独自の文化」とが、調和し、共存することは、不可能なことであろうか。
この国もまた、自由や個人主義が尊重される社会へと、変貌していくのだろうか。