新しいものには手を出さない、頑固親父みたいな姿勢はいかんな。と、自らを反省しつつも主には感激していた本日のMacBookに向かうわたし。
マニュアルと向かい合いつつ、しかしいつものごとく途中からは面倒になり、しかしあれこれと試行錯誤しつつ、MacBookに最初からくっついているホームページ作りのソフトウエアiWebを使ってみる。それから写真整理のためのiPhotoも。
慣れさえすれば、今まで使っていたものより格段に簡単かも! と思わせる手応え。試しにこんなものも作ってみた。かつて綴ってきた「片隅の風景」の復活版。まだ、練習中だから、きちんと公開しないけれど。どんなブラウザからも、ちゃんと見られてるのかな。
そもそもアナログ志向かつ思考かつ嗜好であるわたしは、ワープロを使い始めたのがフリーランスライターになった27歳のとき、そして初めてのコンピュータ(Windows95)を購入したのが1996年の渡米時、つまり30歳になってからと、かような業界に身を置いているわりに、世間より遅れ気味である。
1997年の夏、ニューヨークの某日系出版社に勤務する傍ら、わたしは独立を目指してMuse Publishing, Inc.を起業した。当時のことは一部『街の灯』にも記しているが、起業にあたっての準備として、最低限のオフィス器具を購入した中に、アップルのマッキントッシュ・コンピュータがあった。
マンハッタンで、日本の出版社からの取材コーディネーションなどをやるほか、日本語による出版物を作ったり、広告関係の仕事をやろうと思った。日本語の出版物を自力で作るには、ともかくマックを購入し、デザインや編集のスキルを身につけねばならない。
ライターとして、また編集者としてのスキルはあったが、デザインは別だ。その善し悪しを理解できても、自分で作れるかどうかは次元が異なる話である。それを、自分で作るつもりでいたから、たいへんだった。
コンピュータがわからん、わたしはアナログタイプだ、などとぐちゃぐちゃ言い訳する暇は、1分たりともなかったあのころ。
そもそもは、米国での就労ヴィザ(査証)を取得するのが目的だった。外国人は、しかるべきステイタスなしに、海外で働くことはできない。わたしはニューヨークを離れたくなかったが、同時にフリーランスでもありたかった。
だいたい、現地企業の給料は安すぎた。貯金はみるみるうちに減っていった。日本時代もそうだったから、独立した方が絶対に稼げると信じていた。いや、そう思い込もうとしていたと言った方が正しいだろう。
そこで、自分で起業をし、自分の会社を就労ヴィザのスポンサーにしようという荒技に出たのだ。移民法弁護士や会計士を訪ね、Muse Publishing, Inc. (ミューズ・パブリッシング)を起こし、同時にヴィザの申請手続きを開始する。会社を作るのは、ヴィザをとることに比べたら著しく簡単だ。
だが、その会社が自分をバックアップできるだけの許容量があるかどうかを、移民局に提示せねばならない。その証拠作りのために、向こう3年間のビジネスプランを作成したり、あたかもすでにクライアントがいると仮定して、Museの会社案内を作ったり、"muse new york"の前身となった季刊誌のダミーを作ったりした。
そのために、「付け刃」でクオークエクスプレスやフォトショップやイラストレータといったソフトウエアの使い方を独学したのだった。それも数日間という恐るべき短期間に。もちろん、完璧に使いこなせるようになったわけではない。基本的なコツ、ポイントをつかみ、最低限の機能を利用しただけだ。
だから、今みれば、文章はともかく、その制作物はひどいレイアウトだ。しかし、コンピュータがあったからこそ、わたしは自分の作った会社の技量を移民局に示すことができ、就労ヴィザを得て独立できた。その後もマックなしでは、Museは存在し得なかった。
……今、懐かしく思いつつ、1997年のジャーナル(スケジュールノート)を十年ぶりに紐解いてみた。出版社に勤務する傍ら、会社を設立したのが7月1日。それから移民法弁護士を求める旅が続いていた。ろくでもない弁護士に引っかかり、無駄に大枚をはたいてしまったのも、今や懐かしい思い出だ。
日系のコンピュータの専門店に、どのコンピュータを買えばいいか相談に出かけたのが9月初旬で、下旬にはすべての機器の購入を完了している。当時にしては、かなりよいスペックの機種を買った。
非常に懐が痛かったが、素人こそ、よい機械を使うべきだと、まるで宗教のように信じていたのだ。万事に当てはまることではないが、この件について、わたしの選択は間違っていなかったと、以降の仕事を通して実感した。
ところで驚いたのは、マックを手に入れたその週だ。25日に不良品だったモニターの代替品が届いているが、その日から作業を開始したのかと思いきや、27日に、日本から母と妹夫婦が遊びに来ている! あの怒濤の日々の最中に、1週間以上、日本家族と遊んでいたとは、当時の自分に脱帽だ。
ちなみに勤めていた会社を休んで遊びほうけている。さらに言えば、会社は厳しく、忘れもしない「無給休暇」であった。世知辛かった。
しかも、母たちが帰国した1週間後には、さらにロサンゼルスへ1週間の出張に出ている。どうやら、正味10日足らずで、コンピュータの操作を把握し、会社案内やmuseのダミーを作り、ビジネスプランを作りあげていた。
そして、10月27日月曜日のページには、すべての資料を弁護士事務所に送ったのだろう、縦書きの文字で、
「人事を尽くして天命を待つ!!」とある。
数日後、弁護士事務所はわたしの資料を移民局に送付。11月14日に、弁護士から幸福の電話がかかってきた。移民局は我が資料を受理し、ヴィザが発給されたのだ。その日のページにはスマイルマークが5つも飛び交っている。
自画自賛のようだが、いや、自画自賛そのものだが、十年前の自分に感嘆だ。人間、必要に迫られると、忙しかろうがなんだろうが、盛大な力を発揮するものなのだということを、自分の過去を通して知らされる。
新しいことを始めるときには、それなりの気合いとパワーが動いている。
奇しくも、十年前のジャーナルは、今年買ったジャーナルと同じブランドのもの。EXACOMPTA de PARISというフランス製だ。紙質がよく、今年のジャーナルと並べても、ほとんどかわらぬ様子をしており、だから十年前の筆跡から、当時の自分の息づかいが、すぐそこに蘇るようだ。
走り書き、殴り書きが多い日々は、同時に一日一日が濃厚だった。すべては、経験、蓄積なのだ。と、漠然と思う。
コンピュータを巡って、十年前を遡るひととき。
あのころの自分に負けぬよう、がんばらんとな。
さて、今日のテーマは、コンピュータではなかったのに、長々と書いてしまった。今日の午後、The Grand Ashokの例のスパへ、しかしアーユルヴェーダではなく、フェイシャルに行ったのだった。その帰り、ホテルで行われているカンファレンスの多さに驚いた。
バンガロールでは、日々、カンファレンスの類いも増えている。上の写真は、コーヒーのイヴェントが準備されている様子。Cafe Coffee Day(インド版スターバックス)主催の、インド産コーヒーのイヴェントらしい。フランチャイズに関する説明なども行われるようである。
Cafe Coffee Dayはバンガロール発の会社で、近年の成長は目覚ましい。デリー発、TATA GroupのBaristaがわたしのお気に入りだが、Cafe Coffee Dayの、若干大衆的なムードは若者にも大いに受けているのだ。
ところで新しいソファーが届いた。左が古いもの。脚の部分が前に出ているので、ここに引っかかりやすいのだ。そして右が新しいもの。こちらのほうが、ゴージャスで、座り心地もよい。アルヴィンドも気に入っていた。
インドに来て以来、目的のものを見つけるには、なかなかに苦労しているが、しかし「なじみの店」がいくつもできて、「店の人と知り合いになる」ことが多いことに気づく。
それは、東京時代も米国時代にもなかったことで、そこはかとなく、温かい心持ちにさせられることでもある。この一年余のうちに、多くの人と知り合ったものだ。
それにしても、新しい商品と交換してもらえたことに、改めて感謝である。