日本人は、世界でも最も「几帳面人口」が多い国だと思う。国民の約8割は「ピシッとしている」のではないかと思う。「わたしは、そんなでもないわ」とお思いのあなた。インドに来れば、自分が「几帳面かも!」「きれい好きかも!」と思えること請け合いだ。
インドでなくても、米国その他、ドイツやスイスなど欧州の一部を除く他国に1カ月でも住んでみれば、わかるというものだ。
さて、わたしは、そんな日本人の中でも上位10%、いや5%と言っても過言ではないだろう、几帳面な性格であると自覚していた。スケジュールを守る、きれいずき、水平、垂直、平行の精度を重んじる、細部の存在感にこだわる……と、その善し悪しは別として、そんな人間であったはずである。
無論、十年間の米国生活において、その個性は徐々に崩壊していき、現在に至ってはいる。
とはいえ、わたしはどうして、国民の約8割、いや9割以上が「ピシッとしていない」インドになど、敢えて来てしまったのだろう。更には、どうして「ピシッとしてない」現状を、受け入れたりなんかしているのだろう。
人間の運命とは、実に謎めいているものである。
多分、無意識のうちにも、「全方向に向かって」いちいち細かく指示を発しているに違いない。
最早、我が周囲のインド人には、わたしがいくつもの腕を伸ばした「阿修羅のごとく」見えているかもしれん。
ちなみにサンスクリット語で、阿修羅はアスラ(asura)である。
そんなことはさておき、日々、たいそうなエネルギーの発散である。
無論、わたしは「エネルギー循環の法則」に則って生きているので、エネルギーが出て行ってくれるのは、悪いことだとは思っていない。
新居関係、その他諸々、書きたいことは相変わらず山積だが、もう、何もかもを割愛だ。
ただ、確かに大変だが、いい経験をしているな、とも思う。昨日も、
「ミホ、引っ越しはたいへんだけどさ〜、結構楽しんでない?」
と、マイハニーに言われた。
あなたにだけは、言われたくないわ。と思いつつも、よくご存知で、とも思う。
(注意→:五右衛門風呂ではありません)
●荷造り開始だ。久々に、段ボールの山
なんだか、「人生の恒例行事」みたいに、荷造りをしている気がする。ウエストポーチにガムテープとカッターナイフと油性マジックを携え、箱こそモハンに作ってもらうものの、詰め込んで、封をして、表書きをして……。最早「職人並み」の手際である。
やはり思い出すのは2年前。ワシントンDCを離れたときが、史上最高に、大変だった。けれど、花々が、美しく、救われたものだ。
そのくせ、ティーパーティーなどを開いて、菓子作りなどに励んでいる。我ながら、なんというか、精力的である。
そして、ぎりぎりで荷造りを終え、大陸横断の旅に出たのだった。あの夕暮れ時の大きな大きな虹は、わたしたちの門出を祝福してくれていたのだ。
と、自分の過去を振り返って、目頭を熱くしている。我々は、なかなかに、頑張っているではないか。
と、毎度、自画自賛をしつつ、自らを鼓舞する。
●顔が丸くて大きい……って?
2度目のケララ州への帰郷から戻って来たドライヴァーのラヴィ。今回は、例の19歳の彼女との「ミニ・エンゲージメント」の儀式だったらしい。
「どうだった?」
と尋ねると、またしても、後部座席からわかるくらいに、にこにこと照れ笑いをしつつ、わたしに封筒を手渡す。思い切り振り返って渡すので、ハンドルがぶれている。危ないというものである。
封筒の中には、婚約者の写真。一瞬、言葉に詰まる。
か、かわいくない……。
ごめんなさい。わたしは人の顔のことを云々言える立場では絶対になく、だからこそ人間、顔じゃないよ、とわかってはいるし、いい加減大人だし、そんな顔のことをどうこう言いたくないのだが、ともかく、その、最初の16歳が不細工だったというのは、いったいどれだけ不細工だったんだ、というくらいに、この19歳は「あららら」な感じなのである。
インド人は美人が多いと先入観のある方もあろうが、そうとも限らん。当たり前だが。
でもまあ、彼女は、ピンク色のかわいらしいサルワールカミーズを着て、新品のサンダルを履いて、写真館で撮影してもらったのであろう、ともかくは、「いい感じ」であった。
で、彼女。どことなく、ラヴィ自身に似ている。ラヴィは結構、かわいい顔をしているのだけれどね。で、うまく褒め言葉が見つからず、
「彼女、ラヴィに似てるね! 兄弟みたいで。かわいいね!」
と言ったところ、
「ほかの人にも、そういわれたんです。でも彼女、顔が大きくて、丸いでしょ……?」
まるでそれが、いけないことのように言う。
常日頃、マイハニーより、「フルムーンフェイス!」だの「ビッグフェイス!」だのと言われているわたしとしては、なんだか自分を責められているようで、聞き捨てならない。
「大丈夫! わたしだって、顔が丸くて、大きいんだから!」
と、咄嗟に返したものの、いったい何が大丈夫なんだか、自分でもよくわからない。
ま、そんなわけで、ラヴィには幸せになっていただきたいものである。
●翼の折れたエンジェル
家政夫モハンは相変わらず英語が話せず、1年もたてば意思疎通度も向上するかと思ったが、だめだ。しかし、これは意思疎通の問題ではないかもしれぬ。
モハンによるインド家庭料理を珍しがって喜んで食べていた時期が過ぎ、わたしだけでなくアルヴィンドも「モハンのインド料理には飽きた」「ダルはもういい」と言い始め、このごろはまったくチャパティも食べず、わたしの貴重な日本米を食べる始末。
従ってはここしばらくは、彼には素材の準備だけをやってもらい、わたしが調理をする、という日々である。彼に教えればいいではないか、と思われそうだが、わたしはたいてい、人には教えることが不可能な、その日の気分に応じた「独創料理」に走りがちなので、教えるのが困難なのだ。
また、彼の「インド家庭料理一筋25年」の経歴が邪魔をして、他の応用が利かないのも事実だ。「軽く炒めて」と言っても、じっくりと炒められてしまう。
ズッキーニは歯ごたえが損なわれてぐったりとなり、しかしナスには火が通っておらず生々しく、一方、茹でなくていいスナップ豆を、「茹でなくていいから」と言っているのにも関わらず「俺流」とばかりに茹でてしまってさらに炒めるものだから、中から豆がはみ出して、ぼろぼろになってしまう。
インド料理以外を食べたことのない人に、それ以外の料理を作れというのはなかなかに難しいことである。むしろ時間をかける「煮込み料理」の方がいいのかもしれない。
それはそうと、夕べは久しぶりに、脱力の夕餉であった。
わたしも夫もランチが重かったので、夜は軽くすませようとスパゲッティを茹で、サンドライドトマトやガーリックをオリーヴオイルで炒めてさっと絡め、あとはズッキーニの炒め物とホウレンソウのおひたし、コーンスープというメニューだった。
わたしは昨日から荷造りを始めていたため、下ごしらえをしたあと、モハンに
「この湯が沸騰したら、このパスタをいれる。8分経ったら、このざるにあげる。そしてわたしを呼んで」
と言ってその場を去った。上の説明は、最低でも3回は繰り返す。全身のゼスチャー込みである。
で、8分後。キッチンへ行ったらば、パスタの様子がなんだかおかしい。4、5本が固まっていて、しかも醜い。なぜ? どうしてこんなことになるの? とよくよく見てみたらばあなた。
ああっ。
パスタが「半分に折られて」茹でられていたのだ!
誰がパスタを半分に折れと言った?!
と叫びたい言葉を抑え、うううううぅぅぅ。半分に折られてなんだか不思議に「だまになった」パスタを、無口に炒めつつ、仕方ない、たかがスパゲティじゃないか、と自分を慰めるも虚し。
わかっているの。折りたくなる気持ちはわかるの。でもね、なんのために、大鍋に、なみなみと湯を入れているのか、そのあたりを察してほしい。わかってる。「察する文化」が、この国にはないってこと。わかっちゃいるけどね〜。やれやれ。
なにしろ一昔前までは、アメリカ人だって、パスタは半分に折って茹でてたしね。今でも折る人、多そうだしね。そうして茹ですぎてやわやわのパスタにミートボールたっぷりのソースをどっさりかけて、ナイフとフォークで切りながら食べたりするしね。
でも、わたしは、すんなりとしなやかに、自由にのびたスパゲティが食べたかった。
フォークの上でアンバランスに揺れる、無闇にアルデンテな、’針金みたいにピンとした、短いスパゲティ。
それはまるで、翼の折れたエンジェルのようである。
懐かしいのである。
●土曜日、ですか?
今日はお隣のマダムと対面した。工事中の隣家に「ちょっと見せてね」とばかり、ずかずかと入り込んでいったら、マダムがいたのである。
マダムと呼ぶには初々しい、まだ20代前半とおぼしき、かわいらしいCEO夫人である。彼女、ラクシュミによれば、まだまだ工事の真っ最中にも関わらず、なんと今週の土曜日には引っ越すらしい。
我が家も真っ青の、ハイスピードな工事である。しかし彼らの場合、家具などはすべて運んでくるようで、「改築」が主らしく従っては「外回り」はまだまだ未完ながらも、引っ越せるとのこと。
インド。「やれば、かなりできるインド」。ということを、痛感する日々である。
●トムとジェリーのように。
先週末から、毎日チャイと菓子を差し入れしている。大工衆はメタルワークチームも含めて十名余。従っては毎日、キャンディーやポテトチップス、ビスケットやチョコレート類を見繕って、台所に置いている。
「仕事? 責任もってやります」タイプと、
「仕事? ま、適当にね」
というタイプがもう、歴然と、わかる。
大工衆の中でもリーダー格の兄さんは、本当によく働く。わたしが「チャイ!」と叫んでも、仕事を離れない。
一方、普段からチンタラちんたら働いている小僧らは、わたしが登場した段階から視線が「菓子袋」に走っている。
わからないでもない。そんな菓子など、彼らはほとんど食べたこともないような境遇にあるに違いないから。
さて、わたしが「チャイ!」と言い、菓子を指差し「食べていいよ」とジェスチャーをすると、わたしのいる前では遠慮がちなのだが、わたしがちょっと2階に行って、戻って来たらもう、数分もたっていないのに、菓子袋はすべて、見事に、「からっぽ」になっているのだ。
それはあたかも、トムとジェリーに出てくる料理を、アリやなんかが一瞬にして食べ尽くす、あんな感じである。
効果音をいれたくなるほどの、見事さである。
工事が完了するまで、多分あと1週間もない。そんなに喜んで食べてくれるのならば、と、大量に菓子を買い込んで、毎日差し入れている次第だ。
本当は、働き者の兄さんにこそ、食べてほしいのだが、彼は黙々と、仕事に精を出している。
なんと言うか、胸が詰まる。
いろいろ、学ぶ日々である。