先ほど、デリーからバンガロールへ戻って来た。3泊4日の間、ダディマを弔ういくつかの儀式を経験した。
滞在中の時間を縫って、記録を残したので、冗長かつ散漫ではあるけれど、ここに残したいと思う。
【訃報】
90歳を過ぎた頃から、身体の不調が増え始めたアルヴィンドの父方の祖母、ダディマは、昨年末の91歳の誕生日を前にして、入退院を繰り返していた。
血糖値が上がったり、心臓が弱ったりと、さまざまな身体の不都合がおこりはじめ、ある症状を抑えるためにある薬を服用し、その薬を服用することで、他の疾病を併発するという状況に陥っていた。
ここしばらく、入退院のサイクルが狭くなっていたこともあり、米国行きの前に一度はデリーに訪れるべきだろうと14日朝のチケットを購入しておいた。が、それまで調子がよく、おしゃべりもし、食事もし、自宅で療養していたダディマは12日の午後から、急激に血糖値が上がり始め、その夜、入院。
翌13日の朝、症状は治まったものの、午後になって容態が急変し、他界した。
引っ越しの片付けが一段落し、近所のアーユルヴェーダのクリニックを体験しようとアポイントメントを入れ、出かけている最中に訃報の電話を受けたのだった。
アルヴィンドに連絡を入れ、今夜の便で立つべきかを相談したが、結局、航空券の手配もつかず、明日の火葬に間に合えばいいということで、明朝の出発時間を早めるにとどまった。
【デリーへ】
7時45分にバンガロールを発った飛行機は、2時間半後の10時半あたりにデリーに到着。機内から外へ出るやいなや、ムッとした、暑い熱気に包まれる。4月のデリーはすでに夏。バンガロールの暑さとは比較にならない。
空港から実家へ直行する。
ダディマの遺体は、今朝、病院から自宅に届いていた。彼女の部屋だった場所は、ベッドや家具がすべて取り払われ、大理石の床の上に巨大な氷の塊が置かれ、その上に、白い布にくるまれた、小さなダディマが横たわっていた。
枕元には彼女の元気だった頃の写真と、マリーゴールドのオレンジ色の花々や、赤いバラの花びら。そして線香の煙が絶え間なく燻っている。
傍らでは、彼女の面倒を見ていた使用人の女性二人が、泣きはらし、憔悴しきった様子で座り込んでいる。
その様子を見た瞬間は、アルヴィンドもわたしも言葉を失い、涙を抑えることができなかった。
が、生涯を全うし、家族や友人らに温かく見守られて他界した彼女の死は決して悲しいばかりではないと、アルヴィンドも感じたようで、あまり感情的になるのはよして、パパを元気づけなくちゃね、ということになった。
居間には近い親戚や友人が集まっている。
しばらく彼らと話をしたあと、軽くランチをすませる。午後の火葬場行きを控え、わたしは、唯一の白っぽいサリーに着替えた。他の女性たちは、白やアイヴォリーのサルワールカミーズを着用しているか、ブルーやグリーンなど寒色系の衣類を着ている。
「わたし、時間のあるときに服を買いに行かないと、これ以外に白っぽい服がないの」
と義継母ウマに耳打ちすると、
「実はわたしも、白っぽい服ってあんまり持ってないのよ」
とのこと。聞けば彼女の故郷(コルカタ)では、葬儀とはいえ白い服を着る必要はないとのこと。更には女性が火葬場に赴くことはなく、自宅で待機するのだとか。
彼女にとっても、だから数年前にロメイシュのいとこが他界したとき以来、今回が二度目の火葬場なのだという。
火葬場へ行く前に、ダディマの身体は清められ、火葬場の人、祭司によって身体に赤い布を巻き付けられ、木製の担架のようなものに載せられる。
遺体の上に、祭司は「ガンジスの聖水」だというボトル水を撒き散らす。
唱和が流れる中、彼女の遺体が載った担架は、ロメイシュやアルヴィンド、そして長年の使用人であるティージビールによって外に運び出される。
一旦、ガレージに止められたインド版の霊柩車の前に置かれる。それは、古びた白いバンに、小さな赤十字のマークがついているもので、霊柩車というよりは救急車の趣だ。
家族らは祭司の指示に従って、マリーゴールドの花輪を手に手に、遺体の上に花を載せ、黙祷する。
バラの花びらも、そして聖水もまた、撒き散らされる。
やがて遺体は、車に載せられ、使用人の女性たちが、次々に乗り込む。
(いくら乗り心地が悪い車だからって、それは使用人が乗るではなく、身近な家族が乗る車なのでは?)
と訝しく思っていると、さすがにロメイシュも車に乗り、アルヴィンドもパパに付き添うと乗り込み、2、3人の使用人は下ろされて別の車に乗り込んだ。
【火葬場】
火葬場は、実家から車で20分ほどの市街にあった。
ここでは、昔ながらの火葬と、現代的な電気式の火葬の両方ができるという。ロメイシュは、伝統的な火葬法を選んでいた。
それにしても、暑い。
どこで火が焚かれている訳でもないのに、まるで炎をくぐりぬけてきたような熱い風があたりに充満している。デリーは摂氏40度を超え、夏本番を迎えているのだ。
広々とした、「露店のない市場」のような場所。トタン屋根が葺かれただけの、がらんとしたその一画に設けられた東屋のような場所に、ダディマの遺体が置かれた。
祭司が簡単な儀礼を行う。素焼きの水瓶を持たされたロメイシュは、水を撒き散らしながら遺体の周囲を歩き、最後に、遺体の枕元に、水瓶を叩き付けて割る。
それから参列者が一人一人、花びらを遺体の足下に捧げ、黙祷する。
それにしても、暑い。
身近な人ばかり、数十名の黙祷がすんだあと、遺体は隣接する火葬場へと運ばれる。
奥には電気式、つまり日本と同じような火葬法で遺体を焼く設備があるとのこと。手前には伝統的な火葬場がある。ここでダディマは火葬される。
黒く煤けたトタン屋根があるばかりの、広々としたコンクリートの空間に、一辺が5メートルほどの、いくつかの大きな四角い穴(四方が数段の階段状になっている)がある。
ダディマの遺体はその四角い穴の中央に置かれた。
穴の周囲には、マリーゴールドの花々が飾られているが、それ以外は、大量の薪、ギー(精製バター)などが雑然と置かれ、あまり神聖なムードはない。
ダディマの遺体に、改めて聖水が撒かれ、ギーに浸したがいくつもの木片が置かれ、更には木屑とハーブを混ぜたものだという、香りのよい粉が振りかけられる。
やがて男たち(二人の祭司と、ロメイシュ、アルヴィンド、そして使用人のティージビール)は、大きな薪を手に手にダディマの遺体の周囲に櫓をくみ始める。みんなもう、汗だくだ。
このような一連の儀式は、あくまでも「いくつもある方法のなかのひとつ」に過ぎないようだ。参列している親戚たちは、インドの火葬を初めて体験するわたしに、
「うちの場合は、電気式でやったわよ。あっという間に焼けるし、簡単だし」とか、
「普通、家族は薪をくべたりする必要はないはずなんだけど。祭司の仕事だと思うのよ」
などと、耳打ちしてくれる。
櫓が完成したあと、更に聖水を撒き、ギーを撒き、サンダルウッド(白檀)の粉を撒き、木屑とハーブを混ぜた粉が撒かれる。
参列者もまた、木屑とハーブの粉を自ら撒くよう促される。手に取って匂いを嗅いで見れば、確かに薬草のような、爽やかで甘い香りがする。
それを、穴の上から遺体に向かって散りばめる。
そしてついには、点火である。
遺体への点火は、息子の仕事。アルヴィンドも彼の実母が他界したとき、自分が点火せねばならなかった。それがどれほど辛いことであったかは、これまでも何度か聞かされて来た。
確かに、これは、あまりにも生々しい。
遺体は薪に覆われて見えないとはいえ。
枕元から点火された火は、ギーの助けがあるせいか、あっというまに広がり、燃え盛る。
熱を帯びた空気の、更に温度が上がる。まさに、サウナ状態だ。それでも、燃え盛る炎を、わたしはしばらく見ていたかった。
なんというか、あまりにも生々しく露骨なこの火葬法が、しかし、とても自然なやり方に思えて、強く感銘を受けたのだ。聖なるギーの力を借りて、自然の木々と共に、焼かれる。
遺体が灰と化するまでは、何時間もかかるらしく、参列者は燃え盛る炎を背にして引き上げる。祭司による簡単な儀礼の後、家族は参列者一人一人と挨拶を交わして、解散となった。
【ダディマとロメイシュ】
ロメイシュは一人息子だ。
政府の役人だったロメイシュの父、つまりアルヴィンドの祖父は、当時重要な役職と広大な家を与えられてはいたものの、収入はさほど多くなく、しかしながら「蓄える」という発想のない人だったらしく、毎晩のようにパーティーをし、踊り、高級な車を買うという「浪費の人」だったらしい。
だから祖父が50代にして病に倒れたときには、薬を買うお金さえに困り、ダディマが自分の宝石を売るなどして家計を工面していたときがあったという。
英国の大学を卒業したロメイシュはインドに戻り、外資系の企業に就職し、海外赴任を含め、各地を転々としながら、異例の早さで昇進して行く。
現在のおっとりとしたロメイシュからは想像できないのだが、たいへんな意気込みで働いていたという。
ロメイシュの妻、つまり他界したアルヴィンドの母は裕福な家庭の出身だが、同時にキャリアを持っており、ロメイシュの秘書として、彼を支えてもいたのだという。
今、デリーの一等地にあるこの実家も、そもそもは1960年代、ロメイシュが両親のために購入した土地の上に立っている。てっきり親の土地を受け継いだものだと思い込んでいたわたしは、すっかりロメイシュに一目置いてしまう。
夫に先立たれたダディマは久しく一人暮らしだったが、古い家を取り壊し、現在の家に立て替えた十数年前から、息子ロメイシュと暮らし始めた。
以来、毎日、彼らはともにあった。
詩を書くのが趣味で、歌が好き、おしゃべりで陽気で、お酒もたしなむダディマの前で、ロメイシュはいくつになっても「手のかかる息子」のように見えた。
自分のポケットの携帯電話が鳴っているにも関わらず、「アルヴィンドの電話が鳴ってるよ」と言うロメイシュに、「おまえはまったく、ロバみたいに間抜けなんだから!」と叱責してみたり。
甘いインド菓子、「グラブジャムン」を2つも3つも食べようとするロメイシュに、「おまえはまた、そんなにおやつばかり食べて! 一つで十分だよ!」と言ってみたり。
「まったく、わたしの夫を含めて、マルハン家の男たちは優柔不断だね! ロメイシュも、アルヴィンドも!」と、ばっさり言い捨てたり。
ダディマは、わたしに対しては、本当に、よくしてくれた。ヒンディー語をマスターしなかった自分が悔やまれるが、しかし彼女は、
「言葉が通じなくても、ミホとは目で会話ができるから大丈夫」
と言ってくれたこともあった。
楽なことばかりあったはずではないだろうに、しかし最後にダディマに会ったとき、彼女は
「わたしの人生は、本当に楽しいこと、いいことばかりだった」
と、にこやかに話していた。
【Fab India】
火葬場から自宅へ引き上げ、みなシャワーを浴び、服を着替える。
わたしとアルヴィンドは、白、もしくは浅い色合いの服を求めに、GK-1と呼ばれる商店街にある一大テキスタイルショップ、Fab Indiaへ赴いた。
訪れるたびに新しい店が開店しているこの界隈。が、あちこちに立ち寄る余裕もなく、Fab Indiaへ直行。わたしは白とアイヴォリーのサルワール、それから薄いブルーとベージュのパンツ、スカーフを購入した。
アルヴィンドも同じく白とアイヴォリーのクルタ(シャツ)を購入。
金曜の夜とあってか、店内は普段にも増してたいへんな込みようで、レジの前も長蛇の列。店を出る頃にはすっかり日が暮れていた。
傷心のロメイシュが、しかし火葬場からの帰りに「アイスクリーム、買って帰ろうか」と言って、スジャータに一蹴されたのを思い出し、
「パパにアイスクリームを買って帰ろうよ」
と言うと、アルヴィンドも賛成。近所にあったジェラートショップで、毎度綿密な味見の末、ストロベリーと、キャラメルクリームのアイスクリームを買う。
「パパ、喜ぶよね! パパを励ますのは僕たちの役目だからね。明るい雰囲気にしなくちゃね!」
と、いいながら、喜んでいるのは自分やろ。とも思う。
【酒宴とケサールの夕食】
数名の来客があったのち、8時を過ぎて、ようやく家族だけになった。
ロメイシュがいつものように、
「ミホ、ワインは赤と白、どっちがいい?」
と尋ねる。さすがにダディマを火葬した日に酒は飲まんだろうと思っていたのだが、このいい加減さがマルハン家。わたしでも嫁げたインドの家だけある。
みなが口々に、
「飲んでいいのかな?」
「いいんじゃない?」
「ダディマはお酒好きだったし」
「じゃあ、ダディマの好物のブラックレーベル(ジョニ黒)飲まなきゃ」
「それは明日にしようよ」
「じゃ、暑いから白にしようか」
「冷蔵庫に何本か冷やしてるから選んで」
「じゃ、僕が選ぶ」
そんなわけで白ワインで乾杯をし、ほんの少し、ダディマの話をしただけで、あとはクリケットやらなんやらの、関係のない話題や、我が家の新居の話などで盛り上がる。
そして夕食。
マルハン実家の料理は、我が家の使用人モハンの遠縁にあたるケサールが手がけている。彼の料理は、実においしい。彼の料理のことは、かつて何度か書いたが、やはり、おいしい。
移住当初は、モハンの料理もずいぶんおいしいと思っていたのだが、そして今でもおいしいに違いないのだが、インドに暮らし始めて毎日のように口にしていると、微妙な違いがわかるようになってくる。
同じ素材、同じ調理法でも、何かが違うのだ。
ケサールは神経質で機転が利かず、とっさの対応ができないらしいが、あらかじめメニューを伝えておくと、毎度「完璧な味」に仕上げるのだと言う。
モハンの場合は、対応は早いが、味にむらがある。日によって味付けがかわることもある。それはそれで、わたしはよいと思っていたのだが、完成された味を前にすると、考えが変わるというものだ。
料理に厳しいスジャータも、ケサールの料理には一目置いている。
たとえばダル。豆の煮込み一つにしても、素材はシンプルなのに、なぜか、「おかわり」がとまらない。
じっくりと煮込まれているのに、その小さな豆が全く崩れておらず、美しい形状を保っている。そしてほどよい歯ごたえ。時間をかけて丁寧に煮込んでいることがわかる。
オクラが嫌いな夫も、こんがりと炒められたオクラを積極的に食べている。
インド家庭料理の奥深さを思い知るというものだ。
インド家庭料理に飽きていたはずなのに、たいそうな量を食べ、チャパティをあまり食べないわたしが3枚も食べ、スジャータも「ミホ、チャパティ、よく食べてるね」と、驚いていた。
食後はみなで、
「おいしいね」「おいしい」
と口々にいいながら、アイスクリームを食べた。
こうしてにぎやかなうちは悲しみもまぎれてはいるけれど、このフロアはダディマの面影に満ちていて、わたしたちが去った後は使用人たちも減らすことになり、ロメイシュとウマが二人となり、きっと物寂しくなるのだろう。
【儀礼の朝】
翌朝、日曜日。夕べはあまりの暑さと蚊の襲撃によって、安眠できなかった。エアコンを入れて寝るのが苦手なので、ファンを回して就寝したのだが、あまりの暑さに深夜目が覚めた。
ベッドの寝心地も悪い。アルヴィンドと二人して悪態をつきながら、やむなくエアコンを入れて寝た。疲労感とともに起床。バンガロールの平和な気温がしのばれる。
さて、午前中。二人の祭司を招いての、プージャー(儀礼)が執り行われた。数名の親戚や友人らも訪れての、小さな儀礼である。
ダディマの部屋だった場所の中央に、結婚式で使うのと同じ鉄釜のようなものが置かれ、そこに薪がくべられる。
祭司らは、唱和を唱えながら、遺体に見立てているのであろうヤシの実を赤い布でくるみ、花で飾り、ガンジスの聖水をかけ、バナナを備える。
室内にも関わらず、薪に火がつけられ、炎に向かってギーがかけられ、昨日と同じ木屑とハーブの粉がかけられ、煙がもうもうと立ちこめ、暑いは煙たいはで、6年前の激暑結婚式を思い出す。
昨日の火葬場にも増して高温サウナ状態の中、各自が遺影にバナナを供えたり、炎に向かって木屑を撒いたり、ビンディー(額の赤い印)を塗られたり、甘い菓子を与えられたりと、さまざまな儀式をさせられる。
結婚式のときと同様、まったく神聖な気持ちになれないのが玉に瑕。
プージャーのあとは、ケサールの作った料理でランチ。暑くて食欲がないはずなのに、なぜだかまたしても、食が進む。たっぷりとランチを食べ、人々が帰った後、睡魔に襲われて、アルヴィンドともども昼寝。
夕方にはディリハートにでも出かけようと思っていたのだが、結局は、次々に訪れる来訪者とおしゃべりをしつつ、なんだかんだで夜になる。
夜7時を過ぎ、もう、来客もないだろうと、今夜もまた、祈りの杯を交わすことに。
「今日はまず、ダディマの好きなブラックレベルを飲もう」
「わたしはロックで」
「ぼくはソーダで割る」
と、それぞれのグラスを片手に乾杯。1杯目を飲み終えて、じゃ、わたしは赤ワインにしようかな、僕はもう1杯、ソーダ割りにするよ、などと言っているところにドアのベルがピンポーン。
ダディマの遠縁の親戚が訪れたようだ。
みな、大慌てでワイングラスやらボトルやらをキッチンに運び込んで隠す。いったい何をやっているのだか。
そうして、何事もなかったように来訪者を迎え、神妙な顔で挨拶をする。
ようやく9時近くになって最後の客が帰った後、再びグラスを取り出してワインを注ぎ、乾杯。
わたしたちが米国から戻ったら、ロメイシュとウマにはバンガロールへ遊びにくるように言う。
今夜もまた、ケサールのおいしい手料理を味わい、デリーならではのアイスクリームショップ、マザーデイリーのチョコレートチップアイスクリーム(濃厚で美味!)を食べ、一日をしめくくる。
さて、明日、月曜日の夕方の「偲ぶ会」が最後のイヴェントだ。
米国行きは目前で、その前に仕上げねばならない原稿もあり、少々落ち着かない気分だが、仕方がない。
火曜と水曜は、忙しくなりそうである。
それにしても、新居の諸々が一段落していて、よかった。
【灰を、ヤムナ川に】
早朝、ロメイシュとアルヴィンド、ラグヴァンの3人は、火葬場へ骨と灰を受け取りに行った。本来なら翌日に受け取れるのだが、昨日は日曜だったため、月曜の今日となった次第。
受け取った灰を、ヤムナ川に流して、彼らは帰宅した。骨は後日、ロメイシュが寺院へ持って行くのだという。
午前中、わたしはこうして、ここ数日の記録をコンピュータに記録している。
スジャータは、ダディマの遺品を片付けている。
アルヴィンドは、シャワーを浴びてヨガをしている。
ラグヴァンはIITの研究室へ仕事へ行った。
そしてランチの前、出て来た古いアルバムを、みなで見る。
蝶ネクタイ姿でグラスを片手に、ロメイシュの父がパーティーの席で微笑んでいる。ダディマもまた、きらびやかなサリーを着て、笑顔だ。
踊っている写真、飲んでいる写真、楽しい時期も多かった二人の人生の断片が、モノクロ写真の一枚一枚からにじんでいる。
死した人の送り方を見て、父の葬儀を思い出す。
なぜ、日本の葬儀はあそこまで、マテリアリスティックなのだろう。予算を抑えようとしたはずなのに、百万円を軽く超えたあの葬儀。
棺の種類、骨壺の種類、花の種類、祭壇の種類、料理の種類、種類種類。
日本の葬儀の様子を尋ねられるたびに、説明するたびに、目を丸くされてしまう。
こうして、自然に近い形で弔われる様子を目の当たりにして、何もかもが先進していればいいというわけではないのだと、改めて思う。
【偲ぶ会】
夕方、実家のすぐそばにあるパンチシール・クラブの庭で、「偲ぶ会」が開かれた。案内は新聞広告に載せていたので、近所の人々なども次々に訪れた。
白い幕に囲まれ、白い布が敷かれた場所に、演台がもうけられ、インドの伝統音楽を奏でるミュージシャンが、歌う。
サンスクリット語やヒンディー語の、宗教的な歌、弔いの歌が、次々に披露される。人々は、ただ、1時間ほど、その演奏を聞きながら、死者を悼む。
最後に、祭司が読経をあげ、昨日の朝と同じような、しかし簡単な儀礼を行った後、参列者一人一人と家族が挨拶を交わし、解散。
参列者にはチャイと菓子が出され、しばらくはそこで過ごしたが、とても簡素かつ、温かな会だった。
皆が引き上げる頃、空はクリーム色に染まり、太陽が今まさに沈まんとしていた。
ダディマの死を通して、生死、家族、命、物事の価値、さまざまに思いを馳せる機会を得た。
また、使用人と雇用主との、あまりにも深いつながりにもまた、思うところあった。
次々と、出来事が怒濤のように押し寄せて来て、うまく書き留めたり、消化したりする余裕のない日々ではあるが、こうして走り書きでも、書かずにはいられない、少なくともわたしにとっては意義の深い出来事が起こる、インドの暮らしである。
ダディマの死を通してまた、インド人に嫁いだ自分の有様についてを、噛み締めるように。
ダディマ。安らかにお眠りください。