(●写真上:独立記念日前日の路上にて。国旗を売る人 ●写真右下:同じく独立記念日の車窓から。ピャ〜ピャ〜なる指人形的な変なぬいぐるみを売る人)
インドに暮らし始めて、そして新しい住まいを得て、よりいっそう、ソーシャルライフが充実している。
幾度も綴って来たことだが、わたしは一人の時間も好きだし、大切にしたいと思っているので、常に誰かと会わねば、という衝動はない。
米国時代も、自分から能動的に働きかけるのは仕事に関する場合が主で、定期的にパーティーなどを開いたりしていたものの、プライヴェートでは極めて受け身の社交だった。
バンガロールに居を移して、出会いが著しく増えた。比較的積極的に、イヴェントごとには顔を出しているし、数日おきに、友人知人が我が家を訪れる。さまざまな会話が持たれる。
仕事のスケジュールも、だから社交の頻度に応じて、日々のノルマを決めている。かつてのように、プロジェクトが込んでいるときは朝から晩までびっしりとデスクワーク、という事態を避けるようになった。これはこれで、充実した日々なのかもしれない。
今日は午前中にまた来客があった。それから午後は、BEC(Bangalore Expatriate Club)の集いでThe Taj West Endへ赴いた。アフタヌーンティーを楽しみながら、ビジネスの情報交換をする、という企画。十数名の各国駐在員&NRIたちが集まり、自分たちの経験を交換し合う。
しかし、少々生真面目なテーマを語るときの、自分の英語力の乏しさにがっくりとくる。
日本語だったら、(当たり前だが)もっと的確に流暢に話せるのに。
どんなに意義深いことを話そうとしていても、へたくそな英語だと、信憑性に欠ける。
帰りの車の中でアルヴィンドが言う。
「ミホの言おうとしていることは、的を射てるし、興味深い話だと思うけど、でも、やっぱり英語力が弱いよ。発音も悪いし。勉強し直した方がいいと思う。英語圏にもう十年以上も住んでいるのだから。家庭教師をつけたら?」
英語圏にたとえ5年住もうが10年住もうが、心して英語に取り組まなければ、英語力はつかない。子供は別として、脳みそが硬化している大人は、然るべき努力をしなければ、決して上達しないのだ。
話すことはまだしも、英文を書くことがまた、わたしは苦手だ。もちろん、相手に意図が伝わる程度には書けているが、美しくない。美しくないことは自分でもわかっている。日本語で「ライター」なのに、英語だと子供じみた表現しかできない自分が腹立たしい。
腹立たしがっているくせに、なんら努力をしていない自分がまた、腹立たしい。
忘れもしない2003年の夏。理由は忘れたが、アルヴィンドと大げんかをしたときに、彼から我が英語力のひどさを指摘された。勉強しろとけしかけられた。それがきっかけでジョージタウン大学の英語集中コースに入学し、3カ月間フルタイムで勉強したのだった。
そのときの研究論文のテーマに「インドの新経済(頭脳流出と頭脳循環)」を選んだことで、わたしがインドに関心を持つところとなり、そこからインド移住に至る物語が始まったのだった。
あれから4年。あのときあんなに学んだことも、すっかりと忘れてしまい、ヴォキャビュラリーが増えるどころか減るばかり。
ヒンディー語の勉強をするべきだと思っていたが、やはり英語だろうか。二兎追う者一兎も得ず。という言い方は言い訳めいているが、どちらか一つをやるだけでも、今のわたしには精一杯だ。
書斎の書棚に並んでいる英語のテキストの数々。改めて開いてみよう。「今更」と思ったら、成長はない。「今から」と思い直して、ええい、努力するべきなのだ。
と、ここに宣言する。