緑薫りたつ朝の庭
木の実をついばむ鳥らを眺め
自由に宙舞う蝶らを眺め
木枝のそよぎの彼方に青空
貴石のようにきらめく果実
かみしめるゆたかなひととき
先日、福岡の妹から連絡が来た。なんでも実家に高校時代の同窓会関係の郵便物が届いていたらしい。
内容物を確認してもらって、遠い記憶が蘇る。書類を画像におとしてメールで送ってもらい、確認する。
まずい。まずすぎる。
我が母校、香椎高校36回生における各学年男女1名ずつ選出されるところの同窓会評議員を、わたしは引き受けていたのである。
記憶をたどれば、クラスの幹事に選ばれたときは、「仕方ないな」程度で引き受けたことを覚えている。しかしクラス幹事が集まって学年代表の評議員を決める際は違った。わたしも皆と同様、面倒な役を引き受けるのはいやだった。
にもかかわらず、公正な選挙などをすることなく、竹刀が身体の一部になっている体育教師の篠崎省吾先生から、
「おい、坂田! お前やれ!」
と、押し付けられたのである。
「なんで〜? なんでわたしがせないかんと〜!? わたし、大学は下関やし、そのあと福岡に帰って来るかどうかもわからんけん、できません!」
(無論、当時は福岡で高校の国語教師になることを目標としていたのだが……なぜか帰って来ないかもと叫んだのだった)
「うるさい。お前、高校に世話になったやろうが! お前がやれ!」
「世話になったのは、わたしだけやなかろうもん! すか〜ん、もう先生! なんでわたし〜!?」
「うるさい! お前がやれ!」
とまあ、これに類似した会話が展開されたことを、まるで昨日のことのように覚えているが、かれこれ24年前の出来事。
あの日、篠崎先生は言った。
お前らが44歳になったら、全卒業生を対象にした同窓会の総会ばやらないかん。そのときの責任者がお前らやからな。忘れるな。
当時のわたしたちにとって、44歳と言えば、まるで来世の話のことのようであった。あまりに遠い未来で、むしろどうでもいいやと思ったことを覚えている。
そんな来世のイヴェントを告げる手紙が、つい先日、届いたのである。
「香綾会」と呼ばれる香椎高校卒業生からなる同窓会。
わたしたちの担当年となる2年後を控え、今年10月に開かれる同窓会にまずは参加して、様子をつかみ、自分たちの実施年の参考にするよう、とのことである。
チケットも同封されているようである。
名簿に名が明記されている以上、いくらインドに住んでいるからって、知らん顔はできんだろう。引き受けた経緯はさておき、選ばれている以上は責任もある。
とはいえ、どうしたらいいのだ。同じく評議員になっている男子の名前。同じクラスになった人ではなく、覚えていない。
近々同窓会本部に連絡をしようと思っていた矢先、昨年末、20余年ぶりに再会した高校時代の友人からも、電子メールが届いた。なんでも彼女の友達がクラス幹事を引き受けていて、今回の香稜会へ一緒にいってくれと誘われたらしい。
その際に、わたしが評議員であることを知ったとか。二人の間で以下のような会話が繰り広げられたらしい。
(勝手ながらメールを抜粋させていただきますY子さん)
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「評議委員って、たぶん一番偉い人は、**って人と坂田美穂さんだよ。坂田さんって、インドよね? 新聞、読んでるもん。インドから来るとかいな??」
「え〜〜? 坂田美穂〜〜? 一番えらい役?」
「たぶん、学年の取りまとめ役だよ。来年の総会後からは、毎月一回、会議があるとよ。来るとかいな?」
「えっ....(爆笑)そりゃ、ないやろぉ! おぼえとうとかいなぁ〜〜?! まさかそんなことのために(そんなって...)毎月、帰ってこんやろうもん。でも、再来年の総会には、出席せないかんよね。えらい役なら....(笑)」
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なにが偉い人なのか、という話だ。
それはさておき、いくら責任感のあるわたしでも、毎月日本には帰れんぞ。まずいな。
かくなる次第で、このまま気づかぬふりをするわけにも行かず、早速今朝、事務局へ電話をしたのだった。元気のよい声の、女性が電話に出た。
「わたくし卒業生の坂田美穂と申します。同窓会のことでお伺いしたいことがありまして……」
と言い終わらぬうちに、
「坂田美穂さん?! 評議員になられてますよね!」
と、わたしをご存知の様子。なんでも西日本新聞を読んでくださっているようで、ホームページも、そして多分このブログも読んでくださっているようだ。
わたしより一回り上の卒業生とのことで、直接の面識はないのだが、こんなこともあろうかと、実は西日本新聞の「激変するインド」のプロフィール欄に、2回目から大学に加え、卒業高校の名前もいれてもらっていたのだ。
そこをみて、ホームページも検索してくださったらしい。記事に関して、直接反響を得る機会は少ないが、卒業生が気に留めて読んでくれていると思うと、なんだかうれしくなった。
それはさておき、評議員の責務。
わたしがインドに住んでいることももちろんご存知で、今後も日本に住むつもりはないのだと告げたところ、
「2009年10月の総会に参加してくださればいいですよ」
とのこと。本当に、参加するだけでいいのか。
それだけではあまりにも申し訳ないので、遠隔地からでもなにかできることがあれば手伝いますと、やる気だけは告げておいた。その前に帰国することがあったら、香椎高校に立ち寄ることも約束した。
その後、香綾会のホームページを見た。コラムを篠崎先生が書いていた。そうだ、篠崎先生も香椎高校の卒業生で、評議員でもあったのだ。
主には竹刀を振り回された記憶ばかりだが、篠崎先生の言葉で忘れられないひとことがある。
あれは卒業間際の、石油ストーヴで暖まった体育教官室。何の用事でそこを訪れたのかは覚えていない。先生は、鉛筆を研いでいた。先生の机には、芯の部分が過剰に露出して研がれた黄色い鉛筆が数本、いつもきちんと並んでいた。
紆余曲折の中高時代を経て、歪んでいた根性も少しまっすぐになり、梅光女学院大学に合格し、国語教師になることを目標としていたわたしは、先生に告げた。
「わたし、絶対高校の先生になるけん。そして香椎高校に戻ってくるけん」
すると先生は、言ったのだ。
「坂田。今のうちから、決めんでいい。学校の先生もいいが、ほかにもいろいろある。今のうちから決めるな」
「おう、教師になるのか、がんばれよ」という言葉を期待していたわたしは、なんだか拍子抜けした。せっかく高校に戻ってきたいと目標を語っているのに。どうして、先生は賛同してくれないんだろう。
そのとき、篠崎先生は、決してうまく諭してくれはしなかった。しかし、先生の言葉は心にいつも、ひっかかっていた。
ただ、今になって、本当によくわかる。先生がわたしに、何を言いたかったのか。
20歳の夏、初めて日本を飛び立ち、米国へ1カ月留学したとき、それまでのあらゆる価値観が砕かれ、自分が新しく生まれ変わったような気がした。あの夏を境に、学校の先生になるよりも違う道を、自分にはあるような気がした。
そのときに篠崎先生の言葉が思い出された。方向を変える自分を否定されない気がした。確かに、学校の先生のほかにも、いろいろあるということが、少し見えて来た。
あの日から幾星霜。
実は未だに試行錯誤で、ライターであり編集者であり、しかしまだまだ「いろいろある」ような気がして、寄り道ばかりの人生だ。
どこにたどりついていなくても、元気に歩ける道があるだけでも、幸せなことかもしれない。
ともあれ、2009年10月の同窓会に向けて。高校時代のネットワークは無いに等しいわたしだが、何らかの形で同窓生がたくさん集まるよう、考えたいと思う。