マンハッタンに住んでいた頃。ストリートを歩いていて、ふと、マンホールの蓋に目がとまったことがあった。そこには、MADE IN INDIAの文字があった。
へえ。ニューヨークのマンホールの蓋は、インドで作られているんだ。と、感じ入ったものだ。
しかし、まさか、この新聞記事の写真のような環境のもとで、無数のマンホールの蓋が作られているとは思いもよらなかった。
まるで中世の、奴隷たちの労働現場のようである。ドロドロと溶けた高温の鉄を、裸にルンギ(インドの男性が着用する腰巻き)を巻いただけの姿で、運んでいる。
この写真を撮影したカメラマンは、しかし工場主に歓迎され、写真撮影を許可をされて、つまりこの工場側は、この作業工程に問題があるとすら、思っていなかったようである。
タージマハルを作った頃から、いや、それ以前から、同じような環境での工事が続けられている。すでに「見慣れて」しまったけれど、この国の工事現場の安全管理の「なさ」といったら、ない。
この人たちに、誰か安全靴を、ヘルメットを、作業服を、手袋を、与えてくれと、何度思ったことだろう。女性はまた、サリー姿で、頭の上に石やコンクリートやセメントを載せて運ぶ。
この工場だけではない。あらゆる工事現場で働く人々が、無防備なまでに、「素」なのだ。
インドにマンホール蓋を発注しているCON EDISONの関係者は、この写真を見て衝撃を受け、工場に労働環境の改善を求めているという。
現在の、インドにおける、すさまじい勢いで行われている各種建設作業。安価で請け負っているとはいえ、利益率は決して低くないはずだ。大いに搾取している中間業者の存在が透けて見える。
「仕上がったもの」を購入する側も「安ければいい」という姿勢ではなく、土木建設関係に従事している労働者たちの、恐るべき賃金の安さや労働環境の悪さに目を向けるべきだろう。
以前も記したが、綿農家の人々が毒をあおって自殺している現状もある。
安さの裏にある悲劇を、無視することはできない。
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今、インドにおける某産業の市場調査を行っている。インドで仕事を開始したこの1年半あまり、さまざまな場面においてリサーチをすることで、「目に見えていることの向こう側」にある社会の仕組みを、垣間みる機会が少なくない。
その最たるものは、陰陽。光と陰。
著しすぎる貧富の差。経済成長に取り残され、蹴落とされ、息も絶え絶えに働く人々の多さに、混乱する。
その一方で。
「工場側は、この作業工程に問題があるとすら、思っていなかった」という心理。この国ほど、他の国々のように「画一化された近代化ができそうにない」国も珍しいだろう。
尤も、「画一化された近代化」が正しいとも魅力的だとも、思わないが。
文明と文化の相違。この国には、偉大なる文化がある。
やれやれ、何を書きたいのだかさえ、わからなくなってきた。
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一昨日、毎日アイロンを頼んでいるドビー(洗濯屋)が、1000ルピーの前借りを頼んで来た。大家族を支える、今日はもう、米も、豆も尽きていて、お金がないという。
どうして、そうなるのか。彼の仕事の状況を聞けば、少なくとも、月に15000ルピーは稼げていると思うのだが。いや、それだけでは、家族を養うのに、足りないのだろう。
子供たちも、学校に行かずに、働いている。それで、どうして、米や豆さえも、買えないのか。そうだ先日、妻が病気になったといっていた。病院の費用がかかったのかもしれない。
「だまされている?」
と、一瞬疑う自分もある。しかし、まじめに働いている彼を見て、だまされているとは信じたくない。第一、わたしをだまして、なにかいいことがあるとも思えない。多分、前借りに応じてくれそうなのはわたしだ、という思いがあるのだろう。
認めたくないが、「外国人だから」だろう。
メイド、庭師、ドライヴァー、ドビー……。我が家を取り巻く使用人には、と、折りに触れて言っている。
「わたしは日本人だけれど、インド人に嫁ぎ、インド人を家族や親戚に持っています。この家は、インド人の家庭なのです」
そういわなければならない事態が、しばしば訪れるのだ。海外駐在員によって、インド国内の「使用人給与ボーナスその他」の基準もまた、「乱されている」現状。不動産その他、あらゆる物価も混乱、混乱。
お金の有る無し、の問題ではない。
吝嗇家であるとか、そうでないとかの、問題でもない。
この件に関しても、書きたいことがごまんとあるのだが、長くなるので、またいつか。
ともあれ、半分の、500ルピーを、ドビーに前払いとして、渡した。
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昨日は、隣のアパートメントコンプレックスに暮らす10歳くらいの少女が突然、やってきた。
「学校で、貧しい子供たちにお金を渡すから、募金を募ってます」
と、彼女は言う。聞けば、近所の私立学校に通っていて、年に何度か、学校を通して皆でお金を集め「貧しい人にお金をあげる」というのだ。
「貧しい人にお金をあげる」
そのために、富裕層の子どもが、何の疑いもなく、誇り高く近所を巡り、「お金を払ってくれて当然」の態度で、接して来る。自分は正しいことをやっているのだ、と、疑いの余地のない表情で。
小さなノートには、寄附をくれた人たちの名前と金額が記されている。
20ルピー。30ルピー。小さな額ではあるけれど、子どもが集めて回るには、どんな額でも、重い。
どうしていいのかわからない。ただ、わたしは、盲目的に寄附をしたくはないし、彼女にお金を集めることをだけを、誇りに思って欲しくはない。
ならば、どうすればいいのか?
ともかくは、根掘り葉掘り、彼女に聞いた。彼女の学校の名前、それから彼女の名前も、紙に書かせた。そうして、いくらかの寄附を渡した。渡したながらしかし、
「お金を渡すことだけが、貧しい人たちを助ける方法ではないと思うの」
と、じゃあ、どうすればいいのか、と自分にも問いかけるような思いで、彼女に言いながら、自分が正しいことをしているのか間違っていることをしているのか、わからないままに。
「マダムは、クリスチャンですか?」
「いいえ。どうして?」
「だって、そこにきれいなクリスマスツリーがあるでしょ? クリスチャンじゃないのに、どうしてクリスマスツリーを飾るの?」
「……わたしたちはね、一つの神様だけじゃなくて、いろいろな神様を信じているの。だからほら、ここにはガネイシャがいるでしょ?」
自分でも自分が情けなくなるような返答の仕方で、考えてみれば、突っ込まれどころ満載の、どこかしら「耐えられない軽さ」の人生である。
インドの日々。しばしばこんなことが起こっている。
どうすればいいのかわからないと思うことが、毎日のように、起こっている。