平穏な、土曜日の午後。心地の良い風がカーテンを揺らしながら、部屋へ入って来る。
パリから戻ったら、バンガロールの浅く短い冬が終わっていた。わずか一週間にも満たない不在の間に、朝晩の冷え込みがなくなっていた。
昼間の日差しが強く、通りへ出れば、夏の匂いがする。埃っぽさに溶け込んだ、何とも形容しがたいインドの土臭く雑多な匂い。
今日は、インドのRepublic Day。共和国記念日だ。加えてフランスからは、サルコジ大統領が訪れており、新聞の記事は賑やかだ。
「僕が子供の頃、テレビといえばDD(Doordarshan: 国営放送)しかなくて、本当につまらなかったよ。農業の様子とか、地方の踊りとか、そんなのばっかりの退屈な番組でさ。まるで共産主義国みたいだったよ」
アルヴィンドが子供時代を語るときに必ず出て来るエピソードの一つである。それが今や、一般家庭で簡単に衛星放送を受信することができ、海外の映画やドラマを含め、地方言語の番組も豊富に、何百ものチャネルの選択肢を得られるようになった。
今朝、彼はクリケット観戦の合間に、DDで放映されていた建国記念日式典の様子を見ているようだった。
わたしは2階で仕事をしていたのだが、インド国歌が流れて来たので、国歌を覚えたいと思っているわたしは一緒に聞こうと階下へおりた。と、寝間着姿で寛いでいたはずのアルヴィンドがしかし、テレビの前で屹立して、国歌に聞き入っている。
「国歌を聞くときには、起立して、敬意を表さなければね」
やや驚きの目で見つめるわたしに気づいて、彼はそう言った。
あれだけインドに対して愛憎入り乱れる思いで、愛国心などないと言い切っていた彼が、この2年のうちにまるで冷えきった氷が溶けるように、変わりはじめている。我が日本に対する愛国心についてはさておき、インドを母国とする彼をうらやましいとさえ、なぜか思う。
* * *
そういえば、昨年の大晦日に、ちょっとした事件があった。もう1カ月も前の話となってしまったが、記録しておこうと思う。
大晦日の夜の過ごし方を、特に計画立てていなかったわたしたちは、30日になってようやく、「明日、どうしようか」と考えるに至った。
日本のように紅白歌合戦があるわけでも、年越しそばを食べねばならないわけでも、寒くて外出が億劫というわけでもない。できれば外出して、賑やかに年を越したい。
去年は友人夫妻らを誘ってバンガロールクラブのNEW YEAR'S EVE BALLに参加し、「踊りながら」年を越した。とても楽しい年越しであったが、今年は別の場所にも行ってみたい。
新聞には、バンガロール内の高級ホテルで企画されるパーティーの記事や広告が出ている。いずれのホテルも、食事はブッフェスタイルだ。カップルで7000ルピーから10000ルピー(日本円は約2.8倍)という、インドにしてはかなりの値段。
アルコール類も含まれるため、この値段になるのだろうが、アルコールをたしなまない人にとっては不公平な価格設定ともいえる。
さて、あれこれと見比べた結果、Taj West EndのBlue Gingerに予約をいれることにした。パリからダンサーを招いてのショーも行なわれるとのことで、主にはアルヴィンドが積極的だったのだ。
ところが、予約の電話をいれたところ、なにかと手続きが厄介だ。予約を確実なものにするためには、あらかじめホテルに赴いて支払いをすませるか、クレジットカードをスキャンして電子メールで送れという。
予約をしておきながら訪れない客も少なくなさそうなインドで、それは自衛策だろうと察しはつくが、面倒だ。
あくまでも受付女性の個人的な問題なのだが、カード番号を告げるだけではだめだと言う、その応対ぶりが感じ悪く、お気に入りのホテルであるだけに幻滅した気分で、もう結構ですと電話を切ってしまった。
やっぱり去年と同じくバンガロールクラブに行こう、そして食事はクラブに近いSunny'sにでも行こう、ということになった。バンガロールクラブは会員であれば予約はいらない。その場でドリンクやスナックを購入できるし、去年のようにダンスフロアで踊りながら、打ち上げ花火を見上げながら、年を越すのもいいだろう。
バンガロールクラブとは、英国統治時代の1868年に誕生した社交クラブだ。植民地時代の面影を残すこのクラブは、施設自体も年季が入っていて、歴史を感じさせる重厚感はあるものの、決して豪奢ではない。
しかし、インド上流社会に身を置く人たちにとっては、それなりのステイタスを感じさせるクラブとして知られている。資産家だからといって、すぐに会員になれるわけではない。入会を申請した後、10年待ち、20年待ちでようやく会員になれるとの話も聞く。
今でこそ高級ホテルやレストランなどの増加に伴い、富裕層の社交場も増えているが、かつてのインドでは、各主要都市に存在するこのような社交クラブが、公私に亘るネットワークづくりに大切な役割を果たしていたのである。
各クラブ同士のつながりもあり、たとえばバンガロールクラブの会員であれば、ムンバイのジムカーナクラブも利用できるといった利点がある。
ところで新参者の我々夫婦がなぜ会員になれたかと言えば(無論、義父ロメイシュを筆頭とした家族会員ではあるが)、それはかつてバンガロールに暮らしていたロメイシュの尽力によるものだった。
家族会員になるためにも、他の会員5名からの推薦状が必要だという。各会員は1年に一人しか推薦できないとのルールもあるため、5人分を集めるのは決して簡単ではない。
インド在住の友人だけでは足らず、フランスやスイスに暮らす会員たちにも声をかけ、ロメイシュは推薦状を集めてくれていたのだった。そんな次第で、わたしたちが移住したときには、仮の会員カードがすでに用意されていた。
時折開かれるイヴェントに参加したり、あるいはプールへ泳ぎにいったり、最初の1年はしばしば足を運んでいたが、2年目に入ってからは数カ月に一度、訪れる程度になっていた。
「植民地時代の慣習を残している」との悪しき評判もあり、たとえば女性立ち入り禁止の「メンズバー」の存在もその一つだ。わたしとしては、女性たちから解放されて、男性だけがくつろげるバーがあってもいいではないかと考えるのだが、公平ではないと感じる女性も少なくないようである。
また、男性のドレスコードが厳しく、先日Tシャツ姿で訪れた義兄のラグヴァンが門前払いを受けたという。襟付きのシャツでなければ入られないというのだ。
数年前は、とある老齢のジャーナリストがインドの国民的平服である「クルタパジャマ」を着用してダイニングに入ろうとしたところ、ドレスコードにひっかかるとしてやはり入れてもらえず、彼はその不満を記事に記していた。
その話を聞いたとき、彼は寝間着同様の、よほどよれよれのクルタ・パジャマでも着ていたのだろう。というくらいに思っていた。
ちなみにクルタとは、ゆったりとしたシャツのことで、このように丈の長さやデザインなど、かなり幅広くある。
パジャマとは、世界的に「寝間着」として知られる「パジャマ」の語源となった衣類で、インドでは、クルタの下に履くゆったりとした「パンツ」をさす。
さて、ニューイヤーズ・イヴのそのパーティーには、やはりドレスコードがあった。
女性に関しては特に言及されていないが、男性は「ラウンジスーツ、もしくはナショナル・ドレス」とある。
曰く「ビジネススーツ、もしくは国民服」である。
実は先月デリーを訪れた際、アルヴィンドは今まで一着も持っていなかったインド男性の国民服であるところの「シェルワニ」を購入していた。
シェルワニは、結婚式などでも着られる立て襟のジャケットのようなもので、きらびやかな刺繍やスパンコールが施された派手なものもある。生地も、金、赤と派手な色が多い。アルヴィンドは無難にアイヴォリー地に刺繍が少々施されたものを選んでいた。
アルヴィンドは念のため、バンガロールクラブへドレスコードを問い合せるべく電話をいれた。インドは地方によって服装も若干異なるし、ひょっとすると正装の定義も異なるかもしれない。シェルワニは、主に北インドの方で着られていることから、問い合わせたのだった。
聞けば担当者曰く、上着とパンツの色が異なっていたら入れないという。去年はそれで追い返された人もいたのだとか。
最初は、「電話なんてしなくても、これは間違いなく国民服だから大丈夫でしょ」と笑っていたわたしだが、ちょっと驚いた。尤も、アルヴィンドは上下ともアイヴォリーだから、当然ながら、問題ないと判断した。
さて、大晦日の夜。わたしもアルヴィンドのシェルワニに合わせて、白っぽいサリーを着て、夕食へと出かける。そして、9時近くなった頃、バンガロールクラブへと赴いた。
チケットを購入する段になって、受付にいた男性の一人が、アルヴィンドの服を見るなりドレスコードに沿わないと言う。耳を疑った。
「ちょっと何を言っているの? シェルワニが国民服じゃなかったら、いったい何が国民服なの?」
アルヴィンドとわたしは笑いながら言うのだが、チケットを発券してくれようとしない。担当者を呼ぶという。わたしたちは呆れながらもその担当者氏の登場を待った。
果たして彼は、アルヴィンドを一瞥するなり、
「問題ないです。それは、インドのナショナルドレスですから」
と言った。当然だ。これがインドの国民服でなくて、なんなのだ。インド服かどうかを識別できないなんて、従業員の教育が、なってないのではないか。一言二言、苦情を言った後、チケットを持って入場受付へと赴いたところ、またしても「チケット切り」の従業員に引き止められた。
「サー。その服では、入れません。それは、ドレスコードに反します」
またか。いったいどういうことなのか。またしても、担当者を呼んで来るという。すでに担当者とは話がついている。と告げるや、マネージャーを呼んで来る、という。
だいたい、なんなのだ。たかが大晦日のどんちゃん騒ぎのパーティーではないか。周囲を見渡せば、スーツとは名ばかりの、よれよれのジャケットを着ている人もいる。そんな人たちが入れて、なぜ正装をしている我々が入れない? どういうドレスコードなのだ。
入り口で担当者に文句を言っているわたしたちの様子を見て、他の会員たちが口々に言う。
「それは間違いなく、ナショナルドレスだよ。ネルーカラー(立て襟のジャケットを好んで来ていたネルー元首相に因む)だし」
しかし、マネージャー氏が訪れて、彼ははっきりと言った。
「その服装では、入れません」
わたしと夫はあまりのことに、驚き呆れた。夫は激怒しながら、何がいけないのだとマネージャー氏に詰め寄っている。なにしろ前日問い合わせて、シェルワニは大丈夫だという了解を取り付けているのだ。シェルワニが国民服でなくて、ではいったい、何が国民服だというのだ。
たいそうな剣幕で問いただす夫。わたしも一緒に文句を言いたいところだが、二人揃って騒いでいると、単なるお騒がせ夫婦にしか見えないので我慢する。
マネージャー氏が、ある男性の後ろ姿を指差していった。
「あの服なら、大丈夫なのです」
見れば、普通のスーツジャケットだ。
「あれは、単なるスーツじゃないか! インド服ではないだろう!」
しかし、確かに後ろ姿はスーツであったが、前から見るとネルーカラ−である。それは日本の中高生が来ている「学ラン」に酷似している。ただし、ボタンが表に見えない。つまりは詰め襟の、地味なジャケットである。
インド服を、無理矢理、西欧のスーツに似せて作っていると言えなくもない、ジャケットである。
つまり、アルヴィンドのインド服は、インドらしすぎるのが、いけないのか?
大晦日というこの日。年越しという華やかなひとときを前にして、この人たちは、夫の服装のいったい何を拒絶しているのか。そのドレスコードという不可思議な基準は、誰が決めたのだ。植民地時代の、英国人の、亡霊か?
彼がTシャツにジーンズだった、あるいは奇妙な仮装をしていた、などというのであれば拒否されて然るべきだが、麗しいインド服を着ているのだ。
押し問答を、十分ほども繰り返しただろうか。「馬の耳に念仏」と、すでにわたしは諦めの境地で、しかし他の人々の服装を眺めていた。
男性は、ほとんどがスーツ姿。たまにタキシードの人も見られるが、確かにシェルワニ姿の人はいない。一方の女性。サリー姿は年配の女性だけで、若者はほとんどいない。中年女性は欧米のカクテルドレス風の人も入れば、とてもパーティードレスといえない普段着のような人もいる。
若い女性に至っては、普段町中で着られないとあってか、ここぞとばかりに「マイクロミニ」のスカートだ。タンクトップ、ストラップレス、もしくは背中全体を露出した、皆が揃いも揃って、ともかく露出度の高い服装で、数年前のインドでは考えられないファッションである。
まるでバービー人形のごとく、みなスタイルもよく、とても似合っている。しかし、だ。過剰に露出している彼女たちのファッションがOKで、なぜアルヴィンドがだめなのだ?
理解の域を超えている。
怒り心頭のアルヴィンドは、最後にいやみたっぷりの笑顔でマネージャー氏に握手を求めた。そして「よいお年を」と言ったあと、
「来年は、君がインド人としての自覚を高めることを祈るよ」と、捨て台詞を吐いた。
わたしは、なにしろ、複雑な心境だ。このバンガロールクラブという、インド的なものを拒否する不思議なクラブの存在感。
そして、夫の心境。
やさしげな見かけによらず、受け入れがたい事態に遭遇すると相手構わず、ときには高圧的な態度で苦情を言う夫。そんな彼を、意外にもわたしの方がたしなめる、というケースが少なくないのだが、今回は彼をたしなめる気にならなかった。どうしても、クラブ側の対応に、納得がいかなかった。
わたしがサリーを着るのを、インド的な服装をするのを嫌っていた彼が、この数年のうちにサリーのよさを理解するようになり、そして自分さえも、インド服を着るようになった。
その彼の心の変遷を思うと、今日、ここで初めて着たシェルワニを拒絶されたことが、不憫でならない。
「僕は金輪際、このクラブを利用しない!
なにがチャーチルだ!(チャーチルはバンガロールクラブの会員だった)
なにがドレスコードだ!」
と、車を待つ間も、彼の怒りは冷めない。
やれやれ、これからどうしようか。時計は9時半を回っている。すでに夕食をすませているから、これからディナーパーティーというのは非現実的だ。
ふと、ひらめいた。ウィンザーホテルのバーなら、大晦日でも開放しているかもしれない。そこでカクテルでも飲んで、もしもダンススペースなどがあれば、そこで踊ってもいいし、それがだめなら、家に帰って、二人でゆっくりと年を越そう。
果たしてウィンザーホテルのバーは、平常通りの営業だった。ダイニングとそこから連なる庭は、ディナーを楽しむ人々でたいへんな賑わいである。ダンスステージもある。
「やっぱり、踊って賑やかに年を越したいよね」
と、一応レストランのマネージャーに確認をしたが、席はあいているものの、やはり食事込みで二人7000ルピーとのこと。
ただ、庭のステージで踊るだけで7000ルピーはないよね。やっぱりバーで軽く飲んで帰ろうか。とバーに入ろうとしたところ、マネージャーが、
「バーで何かを飲まれるのでしたら、ダンスステージに入っていただいても構いませんよ。特別に」
と言ってくれるではないか。アルヴィンド、たちまち笑顔で大喜び。バンガロールクラブでひどい目にあったせいか、過剰に喜んで、過剰にお礼を言いながら、マネージャーと握手さえしている。よっぽど踊りたかったらしいな、と思われたに違いない。
そんな次第で、大晦日。マルハン家におけるバンガロールクラブの株は急落し、ウィンザーホテルの株は急上昇したのであった。
長々と書いてしまった。
この出来事を巡っての、夫やわたしの心境の変化についてを、実は記したかったのだが、事実を書いただけで、たいそうなヴォリュームだ。
世界の流れを取り込んで、日々移り変わるインド。世の中の価値観も、わたしたちの価値観も、たいへんな勢いで、移り変わってゆく。
あらゆる局面において、揺らがぬ自分であるためには、どうすればいいのだろう。
価値観や判断基準さえも、ときにはフレキシブルに移動させる必要があるのかもしれない。
筋を通せる「芯」を、しっかりと持っていたいものだと、改めて思わされた2007年の終わりであった。