披露宴の翌日は、午前中、ホテルでゆっくりとくつろいだ。結婚式にまつわる一連のイヴェントを終え、肩の荷が少々下りた。なぜ「少々」かといえば、まだほかにイヴェントが残っているからだ。それは、「タージ・マハル」へのドライヴ旅行である。
もう、観光はいい。しかし、タージ・マハル、見ておくべきかもしれない。そんな葛藤が、日本勢の脳裏をよぎる。それはともかく、午後、日本勢は、日本の親戚らへのお土産を買いに出かけた。
銀製品やシルク製品、精緻な伝統絵画などを購入。なにしろ、町中の人混みは、想像を絶するものがあるため、「ふらふらと散歩」できないのが難。相当に旅行慣れしているわたしだが、両親を保護せねばならぬ。という気負いもあり、疲労の色濃く。明日の観光は、どうなるのだろうと一抹の不安を抱きつつ、眠りにつく夜。
◉苦行のタージ・マハル観光。そして日本勢、無事、帰国。
両家そろってアグラという街にあるタージ・マハル日帰り観光に行った。そのドライブルートたるや、片道わずか200キロにも関わらず、それはそれはひどい道路だった。
※注/当時、米国に暮らしていたわたしは、200キロ、300キロを日常的に軽く走っていたことから、「わずか200キロ」と表現している(20年後のコメント)
想像を絶する悪路、交通ルール、観光用ミニバスの乗り心地の悪さ。あゆみ妹はぐったりし、両親も疲労の色を隠せない。しかし、乗りかかった船。どうすることもできない。わたしとて相当に疲れている。
しかしながら、マックス、スジャータ、アルヴィンド3人のまあ、元気なこと。道中はひたすら、しゃべり続けている。ウマとロメイシュは別の車で移動だから、我々の観光用ミニバスよりは、はるかに乗り心地がよかったはずだ。
だいたい、インドのドライヴァーは四六時中、ホーンを鳴らしている。あれはいったいなんなんだ。トラックのうしろにも「ホーン・プリーズ」とか書いてある。もう、全然、意味がわからない。
ともかく、周辺からは、常時、ホーンの響きが溢れている。わけがわからない。
※注/当時に比べると現在は、ホーンを鳴らす人は激減している。はず。(20年後のコメント)
しかもハイウエイとは名ばかりで、道路はボコボコガタガタ、たまに逆送してくる車がいたりして度肝を抜かれる。
ともかく、片道に5時間以上もかかった。たった200キロなのに5時間。いったいどういうことなんだ。
タージ・マハルに到着してからも、蒸し暑さと、物売りのしつこさで、辟易辟易疲労困憊。タージ・マハルがどうした! 世界遺産がどうした! と言うくらいに疲れ切っており、まるで拷問のようだとさえ思った。
日本勢はタージ・マハルを見たあと、精根尽き果てたため、高級ホテルのラウンジで休憩・待機することにする。他の面々は、他の観光地巡りに出かけた。さすがインド人、インドの気候になれていらっしゃる。タフの一言に尽きる。
帰り道は、行きにも増して、辛かった。だいたい、周辺が真っ暗闇なのに、車が際どく抜きつ抜かれつ走っている。見るからに、怖い。
さらには暗闇で、突如大きなトラックが方向変換して道路を塞ぎ、すんでのところで我々の車と激突するところだった。まじで、死ぬかと思った。こんなところで死んでたまるかとも思った。叫び声さえ上がらないほどの、強烈な恐怖だった。
そして、深夜、ニューデリーにたどり着いたときには、安堵感で溶けそうだった。
翌日、日本の家族がいよいよ帰国の途についた。思うところはさまざまあったが、書き連ねればきりがない。ともかく、みな、特に具合が悪くなることもなく(タージ・マハル観光旅行を除き)、日本食を恋しがることもなく、1週間の滞在を終えたことは、ある種「奇跡的」でもあった。
なにより、肺がんを病んでいるはずの父が、全く不調なくすべてのイベントをクリアできたことがよかった。むしろ、母や妹の方を心配したが、帰国後は、速やかに日常生活に復帰した模様だった。
こんな猛烈な国へ、よくもまあ来てくれたものだと、心の底から感謝した。
空港で彼らを見送った直後より、わたしの体調は激変し、トイレへ駆け込む。その日から残り約1週間、胃痛・腹痛との戦いが始まるのである。我がことながら、気の毒。
ついに、日本の家族が帰国する日。ホテルのロビーで全員集合する。みんな真剣な顔をして、さも何か相談しているように見えますがね、わたしが通訳しないと、日印家族、全く会話が成立しないのよね~。カメラ目線、やってる場合じゃないのよね~。
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