GAURAV SARIA(infinitea 経営)JULY, 2007
「僕は、殊更、父親にビジネスを学んだ経験はないけれど、子供のころ、ときどき父のオフィスを訪れては、仕事をしている様子を眺めていました。あるとき、僕は父に尋ねたんです。毎日毎日、同じようなことをやってて、退屈しないの?って。すると父はにっこりと笑いながら言ったんですよ。自分の好きなことを仕事にしたら、毎日がホリデイなんだよ、って。あの一言は、僕に大きな影響を与えました」
[Introduction]
2005年11月、バンガロールへ移住し、住まいとなるアパートメントをカニンガムロード沿いに見つけた我々夫婦は、大家と最終契約をする前に、界隈を散策することにした。
カニンガムロードは、交通量が非常に多く、排気ガスの立ちこめる劣悪な環境だが、それは同時に繁華街であることを意味し、飲食店やオフィスビル、銀行、病院、商店やモールなどが立ち並んでいる。
ほんの数十メートル歩いただけで、精神的に疲労困憊した我々は、ちょうど目の前に見つけたinfiniteaというティールームに入ることにした。目の前、といえど、交通量の多い通りを横切るのは簡単ではなく、怒濤のように流れ去るバスやバイクやオートリクショーの合間を縫って、対岸にたどり着いたのだった。
店に入り、中二階のテーブルに席を取る。インドにしては珍しく、高級茶葉の種類が記されたメニューだ。インドは紅茶産出国でありながら、そのほとんどが輸出向けで、国内で質のいいお茶を口にする機会は非常に少ない。だから、その茶種の充実ぶりに、感銘を受けたのだった。
メニューには、チベット風の餃子「モモ」もある。紅茶とモモの組み合わせはユニークだ。どんなものだろうかと、一皿を注文することにした。
と、我々の傍らに青いTシャツを着た青年が立ち、「いらっしゃいませ」と挨拶をする。聞けば彼は、この店のオーナーだという。彼の父親はコルカタで茶の貿易を、叔父はダージリンで茶農園を経営しているらしい。そして彼は、「良質の紅茶を出すインドで初めてのティールーム」を、このバンガロールに開いたとのこと。
夫は彼の話に興味を持ち、売り上げや利益率など、込み入ったことまであれこれと話題にのせ、しばらくの間、話をしていた。
さて先日、久しぶりに、今度はわたし一人でinfiniteaを訪れ、ダージリンティーを頼み、モモを注文した。テーブルに届いたモモの写真を撮っていたら、"May I help you?" といいながら、例のオーナーがやってきた。メニューを食い入るように見ていたかと思えば、急に写真を撮り出したりするものだから、ちょっと気になったのかもしれない。
彼はわたしのことを覚えてはいなかったので、改めて挨拶を交わし、少々の世間話などをする。そのうち、彼をインタヴューしたいと閃いた。
わたしはライターで、プライヴェートのホームページを持っている。先日より、インド人インタヴューの連載記事を書き始めた。ついては、あなたをインタヴューさせてもらえないだろうか。そう切り出すと、彼は迷いなく快諾してくれた。
とはいえ、彼は明日から長期不在で、バンガロールに戻るのは1カ月以上あとだという。わたしは後日の取材でも構わなかったのだが、むしろ彼が積極的だった。今日、これから所用があるけれど、20分ほど待ってくれるなら、その後30分ほど時間が取れるという。20分待ちではすまないであろうことは覚悟の上で、待つことにした。
さて、ようやく1時間後。
「待たせてごめんなさい」
と言いながら、彼は慌ただしく現れて、わたしの向かいの椅子に座った。
「気にしないで。こちらこそ、忙しいときに時間をいただいて……どうもありがとう。」
わたしは冷たくなった紅茶を一口、飲んだあと、インタヴューをはじめた。
彼、ガウラヴ・サリアは、1979年、コルカタのマルワリ(marwari)の家庭に生まれた。マルワリとは、北インドを拠点とする商人のコミュニティで、ビジネスの才覚に長けた人々を育んでいる。インドには、マルワリ出身の財閥も少なくないようだ。
ガウラヴは幼少期から、家族や親戚の仕事に打ち込む姿を見ながら育ってきた。彼の叔父は、ダージリンに茶園を持ち、茶の生産に携わっている。一方、彼の父はインドの茶ビジネスの中心地であるコルカタで、茶の貿易を生業としてきた。
一族郎党の旺盛なビジネス精神を目の当たりにしながら、しかし高校時代の彼は「音楽」が大好きで、地元のクラブなどでDJをやり、将来は音楽業界に身を置きたいと思っていた。しかし、両親は大反対。ともあれ、将来を確定するにはまだ早い。ひとまずは、オーストラリアのメルボルンにある三年制大学で、コンピュータサイエンスを学ぶことにした。
「音楽業界に入れないとすれば、ITビジネスかな、と思ったんです。それでコンピュータサイエンスを専攻したんですけれどね。学校に行き始めて気づいたんです。ITは僕の"Cup of Tea" (好み)じゃないってことに」
それでも、ともかくは大学を卒業し、2001年、21歳で故郷のコルカタに戻る。ついには大学を卒業したのだから、身の振り方を決めなければならない。IT業界で働くつもりはない一方、「商売」への関心はあった。しかし、音楽の道に進みたいという気持ちは、未だに強い。
親の反対にあいながらも、音楽業界に進むために、ムンバイ行きの手段を考えていた。そんなとき、父親が仕事で、久しぶりにバンガロールを訪れ、この街の急変ぶりに驚くと同時に、ビジネスチャンスがあることを直感した。
「父は言ったんです。僕がムンバイで音楽をやるというのなら、絶対に手を貸さない。けれど、バンガロールで茶のビジネスをやるなら、全面的に支援すると。その話は、僕にとって、とても魅力的なものでした」
彼のサリア一族は、三代に亘って茶のビジネスに携わってきたものの、茶専門の喫茶店を開くという試みは初めてだった。
「海外では、お茶専門のティールームは、決して珍しくありません。でもインドでは、初めてのことだったんですよ。インドは世界最大の紅茶産出国でありながら、高級茶の100%はすべて輸出用でしたからね。今だって、ほんの0.00数パーセントくらいしか、いいお茶は国内に出回っていないんです」
たとえば、我々日本人の多くは、ダージリンのファーストフラッシュがどうの、セカンドフラッシュがこうの、アッサムがどうした、と、茶種を知り、飲み方を知り、英国流ティータイムが模倣し、ときに滑稽なほどのこだわりを見せる。
翻ってインドでは、紅茶が一般的に飲まれるようになったのは1900年以降のこと。厳密には、ここ50年ほどのうちに浸透した新しい「文化」なのだ。
更に言えば、国内流通の紅茶は、高級茶製造過程で生じる「屑」、つまりダストティーを集めたものが主流。無論これは、ミルクと砂糖がたっぷりのインドの国民的飲料「チャイ」を作るのに好適ではある。一方、海外渡航経験があり、お茶の味に一家言を持っている富裕層などは、国内ではなかなか入手できない茶を、海外旅行の際に購入するなど、「個人逆輸入」してきた状態だった。
「バンガロールで新しいビジネスを」という父の提案は、ガウラヴの音楽業界に対する思いを断たせるのに十分だった。
「父は、IIT(インド工科大学)を卒業した後、米国に渡り、ニューヨーク大学へ進み、1980年に茶の仕事を始めました。非常にコスモポリタンなビジネスマンで、尊敬すべき人です。音楽業界に進めないのなら、いったい何をすればいいのかと悩んでいた僕にとって、父のバンガロール進出のアイデアは、新しくてリスクも高い分、エキサイティングだと直感しました。父はまだ55歳ですから、一緒にビジネスをやっていこう、という感覚で接してくれるのが助かります」
そもそも独立心が強いガウラヴ。しかしまだ23歳になったばかりだった彼にとって、新しい業態への試みは、責任の重い仕事でもある。
「もちろん、責任は感じていますよ。でも僕は、ストレスOK!なんです。人の下で言われた通りの仕事をするよりは、責任を持たされる方が遥かにいい。父よりも、いい仕事をやりたいですからね!」
ガウラヴはまず、父のもとで1カ月ほど、茶や茶のビジネスについて学んだ。それからバンガロールに移り、ティールームの物件探しを開始する。2カ月ほどの間に500軒以上の物件を見て回ったが、なかなか思うような店舗が見つからない。
「ちょっと煮詰まっていたある日、この空き店舗を見つけたんです。店に入った瞬間、ここだ!と思いました。大家さんが近くに住んでいるというので早速訪れ、話をしました。家賃は、父と決めていた予算の2倍もしたのですが、もう、ここしかないと思い、父親との相談なしに、即決したんです」
彼が大家と契約を取り決めたわずか2日後、インド有数のコーヒーチェーン店 "Cafe Coffee Day"が、この店舗を借りたいとやってきたという。まさにぎりぎりのタイミングだった。
「ところで、この店、飲食店が何度も入ったらしいんですけれど、1年と持った店はなかったという悪いジンクスがあるんです。でも、僕はそのジンクスを塗り替えてやる! と思いました」
開店にかかわる殆どの段取りを、ガウラヴは一人で始めた。飲食店の経験が全くない彼にとって、全てが試行錯誤である。そんな最中、バンガロールで広告代理店を経営する、やはり若手のインド人男性が現れ、彼のビジネスに共鳴。店内のレイアウトにはじまり、インテリア、メニューの構成、ロゴマークの制作など、採算度外視で関わり始めた。
そして2003年の7月4日、晴れてinfiniteaがオープンする。ガウラヴ、23歳のときだ。
「最初はお茶とスナックだけを出していたんですが、それでは利益が上がらないことがわかったので、半年後には朝食、昼食、夕食と料理を出すことにしました。メニューは主にコンチネンタル。周囲やカスタマーの声を聞きながら、自分で考案してきました。なにしろ決めるのは自分だから、変更はどんどんやっています。この3年間で、実は4回もメニューを変えているんです」
お茶を引き立てるための料理を考案することは、難しいが同時に楽しい仕事でもある。ダージリンでよく食べられているモモは、この店の人気メニューに育った。
新しい時代の、新しいビジネスを始めるのに、マーケティングリサーチは必要ない。実践し、試行錯誤しながらやっていくのが自分に合っていると言い切るガウラヴ。それは一族のバックアップがあってこそできる冒険だとも思えるが、実際、infiniteaは、着実に業績を上げている。
「この店をオープンして8カ月後には収支が均等になりました。あのときは、本当にうれしかったです。それからは、少しずつ利益率が上がっています」
今のところ、利益率は25~30%。利益率の上昇に伴い、彼は新たな試みを始めている。たとえば茶葉やティーバッグの製造、販売。ティーバッグは、茶葉がきれいに開くよう、インド初のナイロン製を採用した。これも「インド初」の試みだ。
消費者の立場から見れば、パッケージなどに再考の余地ありと思われるが、これもまた、試行錯誤を経て変遷していくのだろう。
来年には、やはりインドで初めての、「ボトル入りティー」を発売する予定だ。また、年末から来年にかけては、コルカタに2軒、バンガロールのインディラナガールに1軒、infiniteaをオープンする予定でもある。
「まだまだこの仕事を始めたばかりで、先のヴィジョンは明確に描けていませんが、今、ダイナミックなうねりを見せているインド市場の中で、確実にブランドを定着させるつもりなんです。そのうち道筋が見えてくるでしょう」
インドの人たちに、本当においしい紅茶の味を知ってほしいと、ガウラヴは切望する。ダストティーを紅茶だと信じて、小さなカップにミルクをたっぷ入れ、更には砂糖を、スプーンが立つほどに入れる。それもまた、インドならではのチャイの楽しみではあろうが、しかし、真なる茶葉の味を広めたい。
Infiniteaのメニューには、茶の飲み方も記されている。良質の茶葉の箇所には、「ミルクと砂糖を入れずにお飲みください」とアンダーライン入りで記されているのだ。
「僕は、このinfiniteaを、インド版のスターバックスのように育て上げるのが夢なんです。そして、いつかは、ニューヨークに進出したい。マンハッタンに店を開きたいんです」
今年から、米国の大学を卒業したばかりの妹も、infiniteaのビジネスに参入、コルカタ店開店に向けての準備をしている。彼らには、年齢やキャリアを凌駕したパワーが迸っているようだ。
「僕は、殊更、父親にビジネスを学んだ経験はないけれど、子供のころ、ときどき父のオフィスを訪れては、仕事をしている様子を眺めていました。あるとき、僕は父に尋ねたんです。毎日毎日、同じようなことをやってて、退屈しないの?って。すると父はにっこりと笑いながら言ったんですよ。自分の好きなことを仕事にしたら、毎日がホリデイなんだよ、って。あの一言は、僕に大きな影響を与えました」
茶に関わる仕事をはじめて、今、これが自分にとてもよく合っていると実感している。だから、毎日が充実しているし、やりがいもある。
ところで1カ月前に結婚したばかりだという彼、実はインタヴューの翌日から不在の理由は、新婚旅行でイタリアへ行くからなのだとか。そのあとコルカタに戻り、新規店舗の準備に専念するとのこと。途中に来客が在り、とぎれとぎれの短いインタヴューではあったが、彼の熱意を十分に感じ取ることができた。
マンハッタンの摩天楼のふもとに "infinitea"の看板が掲げられているのを思い描きながら、再び喧噪のカニンガムロードを歩き、家路に就いた。
コメント
コメントフィードを購読すればディスカッションを追いかけることができます。