今年、米国の東海岸にて、17年ぶりに湧き上がっている蝉。「周期ゼミ」もしくは「素数ゼミ」と呼ばれるそのセミは、成虫になるまで17年間、地中に眠り続ける。
2004年。17年前の今ごろ、わたしはワシントンD.C.に住んでいて、17年ぶりに大量発生する蝉らの、うなるような命の叫びの、渦の中にいた。
38歳から39歳になろうとしていた、あのころ。
2001年7月に、夫の故郷ニューデリーで結婚した。10月にはマンハッタンで、披露宴を開く予定だった。しかし2カ月後の9月11日。わたしが住むニューヨークと、夫の住むワシントンD.C.が、世界同時多発テロの標的となり、世界は一変した。
遠距離結婚を続けるつもりだったが、人生の優先準備を見直した。
2002年1月。断腸の思いで、ニューヨークを離れ、ワシントンD.C.で新婚生活を開始した。まだ会社(ミューズ・パブリッシング)は維持していたとはいえ、仕事は激減、半ば専業主婦のような日々だった。
当時、わたしの親しい友、そして父親が、共に末期癌を患っていた。
結婚すれば授かるものと思っていた子どもに、恵まれないことがわかった。
同じころ「ワシントンD.C.エリア連続狙撃(スナイパー)事件」が発生した。
そこそこ、精神がやられた。
2003年。自分の未来が見えなかった。国立大聖堂の斜向かい、大使館通りに面した、瀟洒な住まい。よい環境のもとで暮らせているというのに、楽しくなかった。毎月のようにマンハッタンへ出かけ、最早、経費がかかりすぎて利益がでない仕事を、しかし続けていた。
年々悪化する腰痛。冬ごとの喘息のような咳。思えば体調も、ひどく悪かった。
その秋、英語の勉強をやりなおすべく、ジョージタウン大学の3カ月英語集中コースに通った。その際の研究論文に、インドの頭脳流出を経ての頭脳還流(循環)を背景とした、「インドの新経済」をテーマに選んだ。それを書いているうちに「インドに住みたい」と思った。
2004年。投資関係の仕事をしている夫にも、インド市場投資の話が入ってきた。ここぞとばかり、嫌がる夫を説き伏せて、「インドに移住しよう」ともちかけた。以来、夫のインド出張には尽く同行した。
2004年4月7日、約2年半の闘病の末、友が他界した。その数日後、インドへと飛んだ。インドから戻った翌日、5月1日。日本から、父が危篤との知らせ。今度は福岡へ。数日のうちに、地球をほぼ一周した。
しかし父は持ち越した。ゆえに一旦、ワシントンD.C.に戻った。それが17年前のちょうど今ごろ。D.C.が「蝉時雨」ならぬ、「蝉集中豪雨」に晒されている時だった。
新緑麗しく、ポトマック川畔やロック・クリーク国立公園を歩くのが楽しい時期。17年の眠りから覚め、地中から無数の蝉が這い出して、そこそこで脱皮を始めていた。その数日後から、蝉の大合唱は始まったのだった。
確かに、うるさかった。うるさかったはずなのに、煩わしいとの記憶がない。当時のわたしは、心、ここにあらず、だったのかもしれない。心も耳も、半ば、閉ざされていた。
わたしが福岡からD.C.に戻って10日も経たぬうちに、父が、今度はいよいよ最期になりそうだと連絡があった。17年蝉の合唱に見送られ、再び日本へと飛んだ。
人の死にまつわる一連のあれこれを終えて、6月下旬にD.C.へ戻ったときにはもう、蝉らの姿は消えていた。
ソーシャルメディアはおろか、ブログさえもまだ一般化していなかったころ。
わたしはホームページ上に、シンプルなフォーマットを作り、日々の記録を残していた。その名も「片隅の風景」。ブログとインスタグラムの間のような存在感だ。
「17年前のわたしは、大学4年生だった。17年後のわたしは、何だろう。」
と、記していた17年前の今ごろ。
17年後のあなたは、願い通りバンガロールに移住しています。相変わらず、人生模索中のご様子です。
17年後のわたしは、何だろう。
70代となってなお、スーツケースを携えて、「東西南北の人」でありたい。故に、健康第一。よく食べ、よく寝て、よく笑え。人間万事、塞翁が馬。この先まだまだ、旅路は続く。
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