⬆︎テロから1週間後の9月18日に撮影した一枚。当時、わたしが住んでいたアッパーウエストサイドの高層アパートメントビルディングの屋上からの眺め。彼方に見えていたはずのワールドトレードセンターは失われ、うっすらと煙が立ち上っている。
18th September 2001. The view from the roof of the high-rise apartment building on the Upper West Side where I was living at the time. The World Trade Center, which was supposed to be visible in the distance, is gone, and there is a haze of smoke.
20代のころのわたしは、東京で、海外旅行誌の編集者兼ライターをやっていた。海外取材が多かったにも関わらず、英語はうまく話せなかった。30歳のとき、一念発起して、ニューヨークで1年間の語学留学を決めた。初めてマンハッタンに降り立ったとき、ストリートから湧き上がる目に見えない磁力に引き付けられるような気がした。目に見えぬエネルギーを与えられた。
When I was in my twenties, I was working as an editor and writer for travel publications in Tokyo. Even though I traveled lots of countries, I could not speak English well. At the age of 30, I decided to go to New York to study English for a year. When I landed in Manhattan for the first time, I felt as if I were being drawn by an invisible magnetic force coming from the streets. I was given an invisible energy.
数カ月も暮らすうちに、もう東京へは戻れないと思った。日系の出版社で、現地採用として働きながら、ニューヨークで独立するための準備をした。自分の会社、Muse Publishing, Inc.を起業し、その会社から就労ヴィザ (H1B)を発給、つまり自給自足した。そして1998年から、自営業者として働き始めた。独立の記念に、タイムズスクエアのお土産ショップで買った自由の女神。セントラルパークを見下ろし、摩天楼を見渡す窓際に、お守りのように、置いた。
After living there for a few months, I knew I could never go back to Tokyo. While working as a local employee at a Japanese publishing company, I prepared myself to become independent in New York. I started my own company, Muse Publishing, Inc. and was issued a working visa (H1B) from that company. In 1998, I began working as a self-employed person. I bought the Statue of Liberty at a souvenir store in Times Square to commemorate my independence. I kept it by the window overlooking Central Park and the skyscrapers, as if it were a talisman.
ひたすらに、何百枚も、営業用の会社案内をプリントし、製本し、1社でも、2社でもいい、仕事をくれるクライアントを探して、東奔西走した。やがて大きな仕事も入り、仕事は軌道に乗り始めた。社費出版の日本語フリーペーパー『muse new york』も創刊した。困難辛苦の日々ながらも、自分がマンハッタンで自立して生きていることが、うれしかった。誇らしくもあった。
I printed and bound hundreds of company brochures for sales and marketing, and searched clients who would give me a job. Eventually, I got a big job and my business started to take off. I also launched Japanese language free paper, “muse new york”. Despite the difficulties and hardships of my life, I was happy to be living independently in Manhattan. I was also proud of myself.
渡米した1996年の七夕に出会っていた我々夫婦は、2001年7月、ニューデリーで結婚。10月に、マンハッタンで披露宴パーティを開く予定だった。しかし、あの朝、夫が暮らしていた家の窓から、燃え盛る国防総省の炎を見、テレビの画面で、崩れ落ちるワールドトレードセンターを見た時から、世界は変わった。途轍もない衝撃と、底知れぬ不安。あらゆる予定が白紙になった。当時、ニューヨークとワシントンDC、遠距離結婚だった自分たちのライフスタイルを見直した。夫と一緒に暮らそうと決めた。今まで、自分のことを優先して来た人生から、二人で育む人生を選んだ。
In July 2001, we got married in New Delhi and were planning to have a wedding party in Manhattan in October. But that morning, when I looked out the window of my husband's house and saw the Pentagon ablaze and the World Trade Centre crumbling on the TV screen, the world completely changed. I was struck by a tremendous shock and an unfathomable anxiety. All my plans went out the window. At the time, I was living in New York and my husband was living in Washington DC. I decided to reevaluate our long-distance lifestyle and move in with my husband. I chose a life of nurturing together, instead of a life where I had always put my own needs first.
ニューヨークを離れることは、言葉にし難い悲しみだった。あのときのわたしは、途轍もなく、弱気になっていた。ワールドトレードセンターの跡地から立ち上る煙は、風となってマンハッタンを包み、焦げ臭い匂いは、アッパーウエストサイドの我が家にまでも、届いた。それは、ワールドトレードセンターと、そこで絶命した多くの人たちが、燃える匂いだった。
Leaving New York was a sadness that was hard to put into words. At the time, I was feeling incredibly vulnerable. The smoke rising from the site of the World Trade Center filled Manhattan with wind, and the smell of burning reached my home on the Upper West Side. It was the smell of the burning World Trade Center and the many people who were killed there.
大小の、悲喜交々の、出来事の延長線上に、今、インドで暮らすことを選んだわたしたちがいる。20年前の今日の気持ちを、苦しみと共に、今でも鮮やかに思い出す。生きているからには、一生懸命、生きないと。米国同時多発テロ、そしてムンバイ同時多発テロを身近に経験した者としては、そのことを、よりいっそう、強く思う。私利私欲や、名声に囚われることの無意味。自分だけが得られる幸福など、この世に存在しない。
I still vividly recall the feeling I had 20 years ago today, along with the pain. I am alive, and as long as I am alive, I must live well. As someone who experienced the terrorist attacks in the U.S. and in Mumbai, I feel this even more strongly. It’s pointless to get caught up in selfishness and fame. There is no happiness in this world that can only be found in oneself.
マンハッタンは、わたしに、勇気と、巡り合わせと、希望を与えてくれた、かけがえのない街だ。悲惨な出来事が続く世界で、しっかりと、ぶれないように。生きているからには、一生懸命、生きる。
Manhattan is an irreplaceable city that has given me courage, fortune, and hope. In a world where tragic events continue to unfold, I have to be firm and unshakable. Since I am alive, I will do my best to live.
【2021年8月20日/白黒つけられぬ歴史。米国同時多発テロ20周年を前に、過去の記録を整理】
2001年9月11日を端緒とする出来事は、多くの人々の人生に影響を与えた。わたしにしても然り。
あれから20年後の2021年8月15日。タリバンがアフガニスタン全土を支配下に置いたと宣言して以来、世界のメディアに取り沙汰されているアフガニスタンの情勢。
この混沌の原因を作ったのは一体、誰なのか。
かつて英国やソ連、米国がアフガニスタンでやっていたこと。そして911の直後から、米国がやってきたこと。
我々夫婦は、米国同時多発テロを身近に経験、その後の戦争やプロバガンダをつぶさに見てきた。2008年11月には、ムンバイ同時多発テロを、やはり身近に経験した。その上で思う。「主流となっている情報」を鵜呑みにしてはいけない。過去を紐解き学び直さねば。
同時に、背景の事情をよくしらない、一市民としての「わたし個人の記録」にも、何かしらの示唆があると思う。だから今年もまた、過去の記録を紐解き、転載する。2001年9月11日を契機に何が起こったのか。具体的な出来事や思いが記されている。
まだソーシャルメディアがなかった時代。テロの直後、メールで転送されてきたアフガニスタン人のライターの文章が、20年後の今、突き刺さる。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
【CONTENTS/目次】
①2006年9月11日/米国同時多発テロ「5周年」に際しての記録
②テロの翌日に記したエッセイ「ダイヤモンド」。『街の灯』収録のオリジナル原稿
③2001年9月11日午前11時、テロ発生の直後発行のメールマガジン
・ワシントンD.C.の夫宅からの発信/箇条書き
④2001年9月13日深夜発行のメールマガジン
・現状の報告/箇条書き
⑤2001年9月15日発行のメールマガジン
・A男のインド回想記(1~4):インド国内でのテロや紛争について
・米国在住、アメリカ系アフガニスタン人ライターMir Tamim Ansaryの手記
➡︎https://en.wikipedia.org/wiki/Tamim_Ansary
⑥2001年9月22日発行のメールマガジン
・全米各地で、イスラム教徒を迫害する事件。スィク教徒のインド人射殺事件も
・10日ぶりに戻ったマンハッタン。星条旗が身を守る?
・街に立ち込める匂い。ダウンタウンの様子。
⑦2001年10月20日発行のメールマガジン
・覚めることのない悪夢。グラウンド・ゼロに立ち
・ニューヨークで結婚披露宴を行う予定だった日
・親しい友人が重篤な癌との知らせ
・高層ビルという存在:マンハッタンと似ていたイタリアのサンジミニャーノ
⑧2001年11月6日発行のメールマガジン
・人生の転機を迎える人々。自分も含め。
・Anthrax(炭疽菌)テロに怯える日々。
⑨2001年11月9日発行のメールマガジン
・年内でマンハッタンを離れ、新年にはワシントンD.C.に移ろうと決めて……。
⑩2017年6月12日/911 MEMORIALへ。2001年を回顧する日。
◉『街の灯』坂田マルハン美穂著/2002年9月ポプラ社刊
◉米ソを中心とした核実験の実態。2053回。1954年から1998年の間に行われた核実験の数
◉2003年3月15日/WAR PROTESTERS MARCH 反戦デモ@ワシントンDC
この日、世界各国の主要都市で、米のイラク攻撃に反対するデモが行われた。ワシントンDCでも、ホワイトハウスを取り巻くように、大勢の人々(主催者発表10万人)が集まり、各々の主張を記したプラカードなどを掲げつつ、練り歩いていた。そのときの写真
*文中の「A男」とは、夫(ARVIND)のこと。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
①2006年9月11日/米国同時多発テロ「5周年」に際しての記録
あの日からまもない、マンハッタンの写真を、と思って、自分のホームページを探した。しかし、わずか2枚しか、見つからない。
そのうちの1枚が、上の写真だ。
あの日から一週間後の9月18日。夫の住むワシントンDCから、一人でニューヨークの自宅に戻ったのだった。その日の夕暮れ時。カメラを持って、アパートメントビルディングの屋上に出た。夕映えの摩天楼が、あれほど悲しく見えたことは、なかった。
「あそこにほら、小さくワールドトレードセンターが見えるでしょ?」
来訪者を屋上へ連れ出しては、マンハッタンを鳥瞰しながら案内したものだった。いつも見えていた、その二棟があった場所からは、ただ、ゆらゆらと煙が立ち上っているのが見えるばかりだった。
* * *
翌日。茫漠とした心持ちのまま、あてどもなく、マンハッタンを歩いた。アッパーウエストサイドの自宅から、歩いて、歩いて、歩いて、それより以南は立ち入り禁止区域になっていた、チャイナタウンのキャナルストリートまで、歩いた。
あちこちで、写真を撮ったはずだった。けれど、そのときの写真が、ホームページのどこにも載せられていない。
古いコンピュータから移植していた写真保存用のファイルを開き、「2001」と名付けられたものをクリックする。
SEPTEMBER。
あのとき撮影した写真が、あった。そのなかの幾つかを、今日5年ぶりに、ここに載せる。
②テロの翌日に記したエッセイ「ダイヤモンド」。『街の灯』収録のオリジナル原稿
テロの約1カ月後、10月6日。わたしは、まだ生々しい傷跡が残るグラウンドゼロに、足を運んだ。このとき、わたしは、カメラを構えることができなかった。わたしは、ライターではあるけれど、決してジャーナリストにはなれない、と、実感させられた。
まだブログが普及していない時代。当時のわたしは、メールマガジンを発行し、その記事をホームページにも転載していた。当時の心境はだから、今でもすぐに、ホームページを遡ると手に取るように、蘇る。
あれはちょうど、わたしの著書である『街の灯』(まちのひ)の原稿を書いているころだった。
翌日の9月12日に記した一編「ダイヤモンド」は、その『街の灯』の一章になった。校正しないままの、もとの原稿を、ここに転載する。
わたしが会社員を辞め、フリーランスの編集者兼ライターとして独立した27歳の春、母が記念に指輪をくれた。それは、かつて父が母に贈った指輪だった。両親の知人のジュエリーデザイナーが手がけたという、世界で一つしかないその大振りの指輪は、以来、毎日、私の左手の中指に収められている。
まるで流れる川のように、滑らかな筋が幾重にも入った金色の輪。その中心には、中小、数粒のダイヤモンドが、流れに沿って細長く横たわっている。個性的でいて、上品なその指輪を、わたしは母が身につけていたころから気に入っていて、ことあるごとに、「これはいつかわたしにちょうだいね」と言っていた。
母がわたしにくれるのは、もっと先のことだろうと思っていたから、プレゼントされたときは、喜びよりもむしろ驚きの方が強かった。
それから3年後の春、わたしはマンハッタンにいた。この街で1年間、語学の勉強をするつもりで渡米したのだ。しかし、暮らしはじめてまもないころから(もしかすると、わたしは本当に、ここから離れられなくなるかもしれない)と直感していた。
マンハッタンには、わたしが今まで、どの街に暮らしたときにも感じ得なかった心地よさがあった。言葉も通じず、不自由なこともごまんとあったが、不思議にしっくりときた。まるで街そのものに磁力があって、わたしは吸い寄せられたかのようだった。
人と人の間に相性があるように、人と街の間にも、多分相性がある。わたしは大学を卒業して上京し、30歳になるまで東京で仕事をしていた。少なくとも、東京とわたしの相性はよかったとはいえない。それは単に、「人生における時期のよしあし」といった問題もあるのだろうが、それだけとも言い切れない。
あのころを思うと、当時の自分が痛々しくて、胸が苦しくなる。自分がどこへ向かっているのか、何を目指して走っているのか、ちっともわからなかった。季節が変わったことすら気づかずに、追い立てられるように、急き立てられるように仕事をし、それでも行く先が見えず、不安や焦りに包まれていた。がんばっても、がんばっても、満たされない歳月を重ねた。
今でも時々思い出す。日曜日の夕暮れどき、スーパーマーケットから古びたアパートへの帰り道。両手にビニール袋をぶら下げ、息も詰まりそうなほどに美しく、西の空を染め抜く晩秋の夕陽を眺めながら、滑り落ちていくような寂しさに襲われたことを。
わたしはどこへ行けばいいのだろう。東京が嫌いだとか好きだとか、仕事がいやだとかいいとかいうことではない。ただ、世界のどこかに、自分にしっくりくる場所があるに違いないと感じていた。でも、それがどこなのか、わからなかったから、休暇を取っては旅を重ねた。
ヨーロッパを数カ月さまよったこともある。アジア各地を巡ったこともある。でも、その場所はなかなか見つからなかった。
そして29歳の春、(ここかもしれない)という期待を持って、イギリスで3カ月間、留学した。しかし、イギリスにも、自分の居場所を見い出せずにいた。そんなある日、突如、ひらめいたのだ。(ニューヨークかもしれない)と。それまで、特に興味もなく、訪れたこともなかったニューヨークなのに、そのひらめきは日増しに現実味を帯び始めた。
多分、自分でも気が付かない、さまざまな因果関係がそこにはあったのかもしれない。いずれにせよ、わたしはイギリスから帰国する時点で、「来年はニューヨークへ、しかもできるだけ長期間行こう」と決めていた。
マンハッタンに来てまもない、ある日のこと。わたしはカフェでコーヒーを飲みながら、窓越しにぼんやりと、行き交う人々の姿を眺めていた。すると突然、隣の席に座っていた、白髪を美しくまとめた老婦人が、カップを握るわたしの手を見つめて声をあげた。
「まあ、なんてすてきな指輪なのかしら。まるでマンハッタンみたい!」
彼女に言われて、ハッとした。本当だ。流れるような指輪はハドソン川。細長くあしらわれたダイヤモンドは、まさにマンハッタン島のような形をしている。今までちっとも気が付かなかったけれど、本当に、彼女の言うとおりだ。
一度そう思うと、それはもう、マンハッタンをイメージして作ったとしか思えないデザインだった。
わたしはマンハッタンの夕暮れ時が大好きだ。交差点から西を望めば、沈み行く朱色の大きな太陽が見える。摩天楼にキラキラと黄金色の光を反射させ、まさに街全体がダイヤモンドのようにきらめく。そんな、まばゆい光に包まれるとき、わたしは「あしたも、がんばろう」思う。
この街で見る夕陽は、わたしに力を与えてくれるのだ。
世界中から集まった人たちの夢や、情熱や、喜びや、悲しみや、辛さや、もう本当にたくさんの思いを、この小さな島は諸手で包み込み、裕福な人も、貧乏な人も、そこそこの人も、笑顔で一生懸命に生きている人たちに満ちたこの小さな島は、まさにダイヤモンドのような輝きを放っている。
マンハッタンは、わたしにとって、世界で一番、愛すべき場所なのだ。
(September 12, 2001)
※以下の膨大な記録は、米国在住時に発行していたメールマガジンからの転載だ。テロ直後の記事は、動揺していたせいもあり、冷静さを欠いていたり、意図を掴みにくいところもあるが、手を加えずそのままに、転載する。努めて客観的に書こうとすることで、辛うじて、心の均衡を保てていたようにも思う。
③2001年9月11日午前11時、テロ発生の直後発行のメールマガジン
わたしは今、ワシントンDC郊外(アーリントン)の自宅にいる。夫は勤務先のビルが閉鎖されるため、現在朝の11時だが、今、自宅に戻ってくる途中だ。
窓の向こうで、国防総省(ペンタゴン)が燃える煙が見える。
日本の両親からの電話でニュースを知った。朝食を食べたあと、急ぎの原稿をまとめているときで、インターネットのニュースも、テレビのニュースも見ていなかった。
慌ててテレビをつけると、ワールドトレードセンターが煙に包まれている。
繰り返し映し出される、旅客機がビルに突っ込むシーン。
何人の人たちが、どんなにか……、どんな思いを抱えて……。
マンハッタンの知人たちに電話をしようと試みるが、だれにもつながらない。電話回線がパンクしているようだ。諦めていたころ、友人の一人からの電話がつながった。
彼女はダウンタウンのイーストビレッジに住んでいる。ワールドトレードセンターのあるロウアーマンハッタンとは結構近いエリアで、家の窓からワールドトレードセンターが見えるという。
彼女と二人、ショックのあまり放心状態で、とりとめもない会話を交わす。
いったい、なにが、どうなったというのだ。
彼女と話している途中、ワールドトレードセンターの北棟が、南棟に続いて崩壊した。わたしはCNNの映像で、彼女は窓から、その光景を眺めた。
ワールドトレードセンターが、消滅した。
これは、現実? 映画のシーンではないの?
彼女の電話の向こうでも、そしてこちらでも、消防車やパトカーのサイレンが響きわたり、胸を締め付ける。
世の中の平和と、世の中の戦争。
いつもと変わらぬ日常の、澄み渡る青空の下に、黒々とした死が横たわっていたとは。
亡くなった人々の、いったい誰が、こんな日を想像しただろう。
あのビルの崩壊で、大勢の人々の死によって、これから先、どれほどのひずみが、アメリカだけでなく、全世界に広がるのか。
ワールドトレードセンターは、貿易、金融、経済の、まさに「世界の中心」だったのだ。
たった今、夫も戻ってきた。彼の知人も、ワールドトレードセンター界隈で働く人が多く、いったい、誰がどうなっているのか、今は知る術もない。
今はただ、心が痛む。
世界は美しく、そして悲劇に満ちている。
④2001年9月13日深夜発行のメールマガジン
●今もまだ、DC(アーリントン)にいる。
●来週には、マンハッタンに戻りたいけれど、今日も鉄道は混乱している様子。医療用救援物資がワシントンDCのユニオンステーションからニューヨークに運ばれているニュースを見た。
●夫は当然ながら「しばらくはニューヨークに戻るな」という。
●この三日間、急ぎの仕事をすませた以外、ボーっとしていた。
●正確には、何をやっても、集中が持続しない。10分ずつくらいで、電池が切れる。
●こんなとき、わたしの仕事の「急ぎ」って、少し軽い。
●だけど、もちろん、日々の、自分にできることは、きっちりとやります。それがわたしのやるべきことなので。
●でも、それはやはりきれいごとだな。ちっともきっちりなんて、やる気にならない。
●ニュースを見てはため息をつき、仕事をしてはため息をつき、電話をしてはため息をつく。
●こんなことじゃいけないと思うけれど、だめなときはだめなのだ。
●この三晩、悪夢ばかりを見ている。なので、午後4時頃になると無性に眠たくなり、1時間ほど寝る。するとまた、悪夢を見る。
●窓から見下ろせば、向かいのカフェテラスで食事をする人々。行き交う車。いつもとなんら変わらない光景。
●消防車やパトカーのサイレンが聞こえるたびに鼓動が高まる。飛行機の音も怖い。大の大人がこれだから、子供たちはどれほどの衝撃を受け、恐怖に包まれていることだろう。
●かつてパレスチナ人と付き合っていた友人と電話で話した。その彼女の親友の夫は、パキスタン人だ。「わたしたちは、彼らの底知れぬ強さを知っているから、怖い」と泣きそうな声で言う。相当に悲壮感に包まれている。
●出版物のニューヨークの風景写真は、ことごとく差し替えられるのだろうか、などと思う。
●13日の午後、飛行機の運航が再開され始めたのに、ニューヨーク近辺の空港は今夜また、閉鎖された。計3便に、あやしい人物が発見されたのだ。勘弁してほしい。
●「けんかするなら店の外でやってくれ!」という気持ちに似ている。「けんかするなら、地球の外でやってくれ!!」
●来週中旬くらいまでは、じっとしておいたほうがいいかもしれない。
●ニューヨークで事故にあった関係者を取材して欲しいという依頼があるが、とてもその心境にはなれない。
●DCからNYへ戻る列車の車窓から、ワールドトレードセンターとエンパイアステートビルディングを眺めるのが好きだった。
●その光景を見ると、「やれやれ、ニューヨークに戻ってきた」と思い、ほっとするのだ。
●わが両親と妹は、来月、ニューヨークに来る予定だった。父にとっては初めてのアメリカ、初めてのニューヨークになるはずだった。
●オペラやディナークルーズのチケットもすでに購入し、1泊でベースボールの聖地である「クーパースタウン」にドライブ旅行する予定も立てていた。
●すごく楽しみにしていたのに。
●スケジュール表にも、行く場所や予定を、いっぱい書き込んでいたのに。
●みんなを連れていきたいレストランとか。お店とか。
●その時期、夫の親戚主催で、ウエディングレセプション(披露宴)のニューヨーク版もやる予定だった。
●大きな悲しみに比べれば、ひどくささやかなものだけれど。
●大きな悲しみと、小さな悲しみと、さまざまな種類の悲しみが、あたりを覆っている。
●幸せとか不幸せの度合いが
●夫を亡くしてなお、気丈にテレビカメラに向かって心境を吐露する女性たちの、毅然とした姿に、敬服する。
●なにかに、祈らずには、いられない。
●うちには、このあいだ、インドで買ってきた、神様「ガネーシャ」の像が大小3つもある。頭の部分が「象」の神様だ。白檀のいい香りがする。
●パソコンのよこに、中ぐらいのを一つ置いて、時々、じっと見つめたり、握り締めたりする。わたしとしては、祈っているつもり。
●でも、「ガネーシャ」は商売の神様なのよね。
●9月11日。911。911といえば、アメリカの警察と消防署の電話番号。この間、書いたばかりだけど。
●2年前、財布を盗まれたちょうど1週間後に、うちのビルが火事になり、4人が亡くなった。自分の部屋に燃え移りそうな炎を見ながら、「財布が盗まれたくらい、たいしたことなかった」と思っていた。
●ハンドバッグを盗まれたちょうど1週間後のことだった。「ハンドバッグが盗まれたくらい、たいしたことなかった」と思っている。
●砂山の、砂の一粒一粒を、つまむかのように、クレーンが、残骸を、そっと拾っては、トラックの背中に乗せる。
●ブッシュが声高に「米国民のために」と叫ぶときの、違和感。わたしは米国民ではない。ニューヨークには、「米国人」以外の人間が、ごまんといるのに。
●ニューヨークに住んでいて、仕事もしていて、税金も納めているけれど、わたしは日本人だ。
●星条旗が大量に売れている。
●当日の午後、ジュリアーニ市長は呼びかけた。みんな、平穏にしていよう。ショッピングに行って、レストランで食事をし、「普通通り」にしていようと。そして家族と一緒に過ごそう、とも言った。
●献血の長い列ができた。でも、血液はすでに十分だという。献血に行った友人が何名もいるが、結局、献血できた人の話は聞かない。
●RHプラスは余っているらしい。マイナスがたりないという。
●マンハッタンに住んでいながら、「なくなっちゃったねえ~、ワールドトレードセンター」と笑いながら言う日本人がいる。そういうときに、笑うことって、クールなの? 意味がよくわからない。
●事件の起こった数時間後、知人のもとへ、日本の某大手企業の社長から打ち合わせがしたいと連絡が入った。地下鉄も動かず、身動きがとれない状況だったので、それも、たいして急ぎの打ち合わせではなかったため、断ったところ、「それなら仕方がないな」と続けた後、上記の人物と同様に「なくなっちゃったねえ~、ワールドトレードセンター」と笑いながら彼は言ったらしい。さらには「いやー、写真でも撮ってくればよかったよ」とも。
●救いようがない。
●みなそれぞれに受け止め方が違うから、対応に戸惑う。ときに驚く。
●おなじ日本人でも、将来もこの街に暮らすことを考えている人と、数年間の滞在だとわかっている人とでは、事態の受け止め方が、かなり違う。当たり前のことだが。
●たまらない思いで記した「臨時コメント」を読んで、茶化す知人もいる。平常心ならば、「意に介さず」を決め込むが、こんなときには、その余裕がない。
●今回の一連の出来事について記した、ここ数号のメールマガジンに限って言えば、揚げ足をとったり、茶化したり、批判めいたメールを送ってこないでほしい。気に入らない場合は、これ以上読まないでほしい。
●フランス人の夫との間に二人の子供をもつ友人。今朝、子供が「お母さん、わたし、大きくなったらカナダとか、平和なところに住みたい」と神妙な顔つきで言ったという。
●日本で編集者として仕事をしていたころ。湾岸戦争の最中にドイツとフランスへ取材に行ったことを思い出した。ベルリンの壁が崩壊した翌年のことだ。
●海外渡航は自粛体制に入っているときだったけれど、月刊誌の仕事だったので、延期にはならなかった。
●フランスも、ドイツも、空港は厳戒態勢で、ものものしかった。
●南仏のプロヴァンス地方で、村道に車を停め、撮影をしたのち、カメラマンとライターと3人で車中でランチを取っていたら、私服の、銃を構えた警官にドンドンドンと窓を叩かれ、びっくりした。
●怪しい者がいると通報されたようだ。
●ドイツで日独通訳をしてくれた才媛ハイケさんのボーイフレンドはイラク人だった。
●ハイケさんは、ベルリンの壁崩壊の直前、たいへんな思いをして、東ドイツから西ドイツへ、亡命していたのだった。
●数日間、行動を共にしたけれど、彼女は時折新聞に目を通すなど、当然、戦争の行方に敏感だった。
●彼らと夕食をともにしたとき、レストランに訪れた花売りから、彼は1輪ずつのバラを買い、ハイケさんだけでなく、わたしにも、くれた。紳士だった。
●ダウンタウンの友人(R子)宅は14丁目以南に位置するため進入禁止区域になっている。夫のオフィスはミッドタウンだが、彼は今週いっぱい仕事を休んで家にいるという。
●窓を閉めていても、冷房の排気口などからきな臭いようなほこりっぽいような匂いが入ってきて、辛いという。
●マスクはもう、売り切れているという。
●R子に、次号のmuse new yorkの一部記事執筆を依頼している。ニューヨークにある幼児向け学習施設の体験取材だ。
●いくつかの情報が必要だったらしく、事件から3日目の今日、仕事を始めようとオフィスに電話したらしい。
●「あなた、どこから電話してるの? えっ、ニューヨーク?(信じられない、といった深いため息) テレビを見なさい。今、それどころじゃないでしょ」と怒られたらしい。彼女には、原稿の締切は来週末に延ばすから、無理をしないでね、と伝えた。
●次のmuse new york、どうしよう。発行はやや延期だ。
●日本からの依頼で、数日中に電話取材が必要な仕事が、わたしにもいくつかある。いくらわたしが仕事をしようとしても、相手がどんな状況で、どんな気持ちでいるかがわからないから、とても困る。
●「杞憂」という故事成語。昔、杞の国の人たちは、始終、何かを憂いていた。「あした天が落ちてくるかもしれない」「あした、山が崩れるかもしれない」
●しかし、自然は泰然としていて、彼らの憂いは過剰だと言われる。だから杞憂。
●「飛行機が落ちてくるかもしれない」が、杞憂ではないなんて。
●先週、結婚を知らせるカードを、日本の友人たちに送っていたのが、この事件をはさんで数日のうちに、みなのもとに届いたらしい。
●あまりにも、絶妙の、タイミングだった。
●大半の知人は、カードを受け取るまで、わたしが結婚したことを知らなかった。メールマガジンやホームページを見ている第三者の人たちの方が、友人たちよりも、実は内部事情に遙かに詳しいわけだ。それもまた、妙なものだと思う。
●「おめでとう」と「大丈夫?」が入り交じったメールばかりだった。
●いい加減、テレビを見るのも、辛くなる。
●けれど、一応、ニュースを追っておかなければとも思う。
●考えても仕方ないけれど、考えてしまうのを止められない。わたしは強くありたいと常々願っているけれど、そう、いつも、うまい具合にはいかない。
⑤2001年9月15日発行のメールマガジン
9月15日土曜日。日本は敬老の日ですね。昨日の雨ですっかり気温が下がり、今日は空気が澄み切った秋晴れです。
皆さんからのメールは、それぞれに、誠実に、思うところが綴られているものばかりで、ひとつひとつ、丁寧に、読ませていただきました。
メールマガジンを創刊したのは去年の9月27日。まもなく一年になろうとしています。見知らぬ不特定多数の方々に、個人的な視点からのコメントを発信することに、自分なりの戸惑いもありました。
しかし、今回、もしもこのメールマガジンを発行していなかったら、決して得ることのできなかった言葉の数々を毎日受け取っています。阪神大震災を経験していらっしゃる方からのメールも多く、力のこもったメッセージもいくつかいただきました。さまざまに考えさせられることが多く、本当に感謝しています。
特にこのメールマガジンの読者の方々は、ニューヨークに縁がある方、興味がある方が多いわけで、まったくニューヨークに興味を持たない日本に暮らす日本人に比べれば、ずいぶん身近な出来事に感じていらっしゃる方が多いようです。
旅行や留学の予定をキャンセルされた方も数人いらっしゃいました。それぞれに、時間をかけて計画をたて、楽しみにしていたはずです。誰一人として、無念な思いを綴ることなく、さらっと記していらっしゃいますが、個人的な立場から考えれば、ひどく残念なはずに違いありません。
前回も記しましたが、本当に、このような事態になって初めて、普段は見えることのない、自分自身の性格や考え方が明らかになるものだと思います。
わたしは今回、幸いにも、DCにいました。非常に混沌とした数日間を、身内と共に過ごせたことを、とても幸運だったと思っています。もしも、ひとりでニューヨークにいたとしたら……。ニュースを聞いた瞬間、わたしはビルの屋上に上ったでしょう。事実、ビルにいた人たちの多くは、そうしていたに違いありません。
そして、燃え上がるワールドトレードセンターを、崩れ落ちるワールドトレードセンターを、彼方に眺めて、心が引き裂かれていたに違いありません。電話も通じず、A男のDCでの様子も気がかりで、きっと、今、受けているよりも遙かに強い衝撃を受けていたと思います。だから、ここにいて、幸運だったと思っています。
しかし、読んでみて、はっとするメールもいくつかありました。その一つに、ニューヨークで働いている友人からのメールがありました。
ずっとニューヨークについて書いてきたわたしが、歴史的事件に立ち会えなかったこと、そして交通麻痺によって足止めを食っていることが、どんなに歯がゆいことだろうと察するメール。
メディアに携わっている人間として、きっと現場の様子をルポしたかったに違いないと察するメール。
彼女たちは、もちろん、前向きな気持ちで、わたしがそう感じているに違いないと察して、このようなメールを寄せてくれたのです。
ところが、わたしといえば、これらのメッセージを読んで、ひどく驚きました。なぜなら、わたしがこの数日間というもの、そう言う風には、一度も思わなかったからです。確かにニューヨークが気になって、気になって仕方がありませんでした。でも、あくまでもそれは「個人的な感情」で、本当に正直に言ってしまえば、仕事に結びつけることを、考えられなかったのです。
数日後の今になって、「わたしは何をするべきか」などと、考え始めているくらいですから……。そういう意味では、自分は自分で思っていた以上に、かなり「とろい」気もします。
「ライター」とひとことでいっても、そのジャンルは多岐に亘ります。精神構造も千差万別です。少なくとも、わたしには、公私をきっぱりとわけて、事件に向かおうという気持ちは、ここ数日、少しも起こりませんでした。なんだか情けない気もしますが、本当だから仕方ありません。
とはいえ、来週は、一旦、ニューヨークに戻る予定です。
わたしは、これまで通り、広告や編集や印刷の仕事をし、muse new yorkの最終号を、たとえ遅れても発行し、それに並行して自分の作品を書きため、そしてわたしの言葉で、このメールマガジンを綴っていこうと思っています。
この一連の惨事と、その延長線上にあるかもしれない、戦争。ここ数日、さまざまなサイトや新聞などで、多くの人たちが、自分自身の意見を表現しているのを目にしました。今のわたしには、各国家の方針云々に対し、善し悪しを発言できるほど、考えもまとまっていなければ、知識も十分ではありません。わたしは軍事評論家ではないので。
ただ、一つ言えるのは、この事件は、たった今、始まったばかりの、一過性のものではないということ。だからこそ、短い期間で物事の白黒をつけるような動きをせずに、「話題性」などという概念を一切捨て、自分のペースで、自分の感じることを、文字にしていこうと思います。
ニューヨークを拠点に生活している以上、当面はこの話題について、目を背けるわけにはいかないので。
わたしやA男、そしてわたしたちを取り巻く知人友人から得ることがらなどを、拾っていこうと思います。それが、たとえ、非常に私的なことであれ、誰かに知って欲しいことは、できる限り書きます。
今回も、出だしはやっぱり箇条書き風に。
-------------------------------------------------------
◆土曜日現在。いまだ、DCからニューヨークへ電話をしても、ほとんどつながらない。携帯からだと、時々つながる。でも、ニューヨークからDCへは、たいていつながる。だから、人に電話をかけるのではなく「かかってくるのを待つ」状態。
◆自分の中で、物事の優先順位が、みるみる変わっていく。
◆それにしても、ボランティアに参加する人々の、一生懸命な姿。自分の腕に、マジックで大きく、名前と電話番号、そして血液型を書いている事故現場の作業員をテレビで見た。二次災害で自分が傷ついた時を想定してのことだ。
◆自分の住むビルが火事になったときにも思ったこと。今回も一層痛感する。なぜ、人々は「燃えさかる炎を一瞬で消す」ことができるような、強力な消火器を研究しないのだろうか。それを空から撒くと瞬時に鎮火するような……。そういう化学薬品などは、開発し得ないのだろうか。
◆ものすごい勢いで煙を上げて燃える建物に、ホースで細々と水を撒いている風にしか見えない消火活動は、本当に原始的。じれったい。
◆久しぶりにじっくりと、自分の顔を鏡に写して驚いた。「お肌のつやとはり」が失われている。美容液で、潤いを補給。
◆10分ほど前、カラスの大群が突如やってきて、うちのビルの前にあるショッピングモールのあたりを、かーかーと鳴きながら旋回していた。このあたりでカラスを見るのは初めてだったので、すごく不気味に思った。
◆「カラスは、日本では不吉な出来事の予兆なのよぉ」とすっかり弱気になりA男に言えば、「インドはカラスだらけだよ。ぼく、子供のころ、庭に来るカラスに石をぶつけて遊んだもん」
◆今回の惨事に関して、A男の衝撃はわたしほどではない。戦いの恐怖を、子供のころからつぶさに見てきたからだ。
◆「インドでは、スケールこそ今回ほどではないけれど、こんなは事態は、珍しくないんだよ。ただ、世界に大きく報道されていないだけで。パキスタンとの戦い、イスラム過激派との内戦は、しばしばだから」「毎日のように、誰かが、どこかで、殺されているんだ」
◆今回の件に関して、A男から得るコメントには、興味深いものが多い。
◆数日前、A男の会社内のミーティングの席で、当然のことながら今回の惨劇についての話題が出た。彼のオフィスで働くアメリカ人のスタッフは、みな、国旗を象徴するリボン(赤白青のストライプ)などを身に付け、「愛国」を表現している。
◆アメリカ人以外のスタッフは、彼の同期にパキスタン人がいる。よりによってパキスタン人とインド人(A男)である。わたしも彼に会ったことがあるが、童顔で、やさしい話し方をする、好青年だった。
◆A男は、そのパキスタン人の同僚と仲がいい。母国語も同じだし、そもそもは同じ国だし。ただ、宗教が違う。
◆彼ら夫婦はわたしたちの家の近所に住んでいて、某中国料理店の料理を愛好している。わたしたちには、「?」という味なのだが、彼らは大好き。彼らいわく「ここの料理って、パキスタンで食べる中国料理と一緒の味なんだよ!」
◆上司がA男に向かって聞く。パキスタンに対してどう思うか。もちろん、A男は答える。インドとパキスタンの軋轢は、たいへんなものだと。「ぼくはパキスタンが嫌いだ」と、理由を説明した上で、はっきりとそう言った。
◆A男のコメントに、パキスタン人の同僚は無言だった。「ちょっと、本人の前で言うのは、どうかしら」というわたしに、「僕は国家の話をしているんだ。思っていることは、はっきり言う」とA男。
◆ユダヤ系アメリカ人の同僚は、A男の妻が日本人だと知っていて、わざと声高に言った。「アフガニスタンにも原爆を落とせばいいんだよ。あの「神風・日本」だって、原爆を落としたからこそ正気を取り戻して、今は「アメリカ化」してるしな」
◆物事を、大くくりに捉えて発言すると、結局、こういうことになる。
◆オフィス内が、なんだか、とげとげしそうだ。でも彼らは事件の翌日から平常通り仕事をしているし、勤務時の頭の中は、主に「経済」「取引」「投資」のことで占められている模様。
◆そういえば、以前、muse new yorkの「国際結婚をした日本人女性」で紹介したYさんはどうしているだろう。何を考えているだろう。彼女はイスラム教に改宗して、エジプト人の男性と結婚した。来週にでも、連絡してみよう。
◆A男の母方の家族は、パキスタンのあるエリアが出身地だ。1947年まで、パキスタンは、インド同様、イギリスの統治下だった。
◆インドとパキスタンは、英国支配から「分離独立」した。現在でも、カシミールの領土獲得を巡り、紛争が続いている。
◆カシミールの自然は、本当に美しいという。
◆もちろん、A男の母方の家族は、インドとパキスタンが分離して以来、ふるさとに帰っていない。北朝鮮と大韓民国のような感じだ。
◆この間、わたしたちはインドのデリーで結婚式をしたあと、パンジャブ州にあるウダイプールに新婚旅行へ行った。デリー発の飛行機は、ジャイプール、ジョドプールを経由して、ウダイプールに行く。
◆飛行機に乗るとき、乗り換えるとき、もう、本当に、しつこいほど何度も、荷物と身体の検査をされた。湾岸戦争の時の空港での検査よりも、ずっと多く真剣である。
◆ハンドバッグの、化粧ポーチの中身までも、チェックされる。サリーを着た女性スタッフによる、身体をしっかりさわってのチェックも、1回の搭乗につき、2,3回受けた。
◆わたしはうんざりしながら「なんで、こんな効率悪く、何度も同じことをやるんだ」と、A男に悪態をついたら、ここはパキスタンとの国境に近いから仕方ないんだという。
◆今更ながら、彼らがしつこく検査をする理由がわかった。悪態をついている場合ではなかった。
◆さっき、ランチを食べながら、A男がインドについて語ってくれたことを、以下に紹介する。あくまでも「インド人として、インド人の立場・視点から語っている」ということを念頭に、読み進めてほしい。
●A男のインド回想記(1~4):インド国内でのテロや紛争について。
【その1】1984年、僕が12歳くらいの時。学校で授業を受けていたら、時の首相、インディラ・ガンジーが暗殺されたという噂が飛び込んできたんだ。学校はすぐに閉じられて、僕らは家に帰った。人々の間で、猛烈な勢いで噂が飛び交ってた。彼女のボディガードの一人が、報復のために殺したって言うんだ。ボディガードはシーク教徒だった。
暗殺の数カ月前、首相は、シーク教徒過激派の根城であるゴールデン・テンプルに軍を手配していたこともあって、彼女は危険な状況に追い込まれていたらしい。シーク教徒過激派は、パキスタンと手を組んだりして、インド政権にことごとく反発していた。彼らはカリスタンというシーク教徒の国を作ろうとしていたんだ。彼らによって、ヒンズー教徒の殺害も、しばしば行われていたよ。
(注:以前も記したが、ターバン姿で知られるシーク教徒は、インド人口のわずか2、3%しかいない。ただ、インドの全人口が10億人近いので、人数としては多いけれど)
家に着いてからも、テレビとラジオは、この事件についてまったく触れなかったから、噂だけが頼りだった。ところが突然、ラジオから、ヒンズー教の宗教音楽が流れ始めた。それで僕たちは、本当に、彼女が死んでしまったことを知ったんだ。
その翌日、デリーはまさに地獄だった。首相の暗殺を知ったヒンズー教徒の一部が暴徒化し、街をうろつき、シーク教徒を見つけては、暗殺を始めたんだ。あくまでも、首相を殺したのは「過激派」であって、一般のシーク教徒には、何の罪もないんだよ。なのに、それまで普通に生活していた彼らが、撲たれ、刺され、焼かれ、無茶苦茶なやり方で、次々に殺されていったんだ。
僕らは家の屋上から、シーク教徒たちの家が焼かれる煙が、街の至る所から上がるのを、見ていることしかできなかった。暴徒たちのものすごい叫び声があちこちから聞こえてきた。その日、2000人以上もの市民が、虐殺されたんだ。いや、もっと多かったかもしれない。
あの日、デリーは本当に地獄のようだった。僕にとっては、生まれて初めて体験した、本当に恐ろしい、出来事だった。
【その2】1991年5月、僕がボストンの大学に通っていたころ。休暇にインドに帰省するための準備をしながらラジオを聞いていたら、ニュースキャスターがラジブ・ガンジー(インディラ・ガンジーの息子で首相後継者)が殺されたとアナウンスしていたんだ。
その話に、僕はひどくショックを受けて、恐ろしくなった。ラジブ・ガンジー元首相は、再選を狙って、選挙運動のさなかにいた。選挙演説の際、ある女性が彼に歩み寄り、かがんで、彼の足に触れた。それは、目上の人に敬意を表するゼスチャーなんだ。彼女はその後、自分の身に付けていた爆弾を作動させ、自ら爆発したんだよ。彼女は何ポンドもの鉄片を身に付けていて、「りゅう散弾」状態だった。もちろん、周囲にいる人をできるだけ、たくさん殺戮するのが目的で。結局、支持者らも14人、即死だった。
ラジブ・ガンジーを確認できるものは、彼が履いていたスニーカーだけ。身体も何もかも、粉みじんに炸裂したんだ。そのスイサイド・ボンバー(自爆者)は、スリランカを拠点とするタミール分離派(過激派)の一員だったらしい。
ぼくは、デリーに住む家族のことが心配でたまらなかったよ。結局、インディラ・ガンジーが暗殺されたときのような、ひどい暴動は起きなかったみたいだけど、その直後にインドに帰ってからも、なにかが起こるんじゃないかと思うと、怖かった。
92年には、ヒンズー教過激派が、イスラム教モスクを破壊して、大きな衝突が起こった。全国各地で紛争が起こって、特に、ボンベイやカルカッタでは、爆弾テロ事件が連続して発生した。いったいどれほどの罪のない人たちが殺されたか、ぼくにはわからないよ。
【その3】ぼくがデリーに住んでいたころ(17歳まで)は、毎日のように暴動や死のニュースが新聞紙面を飾っていたのを目にしていたよ。
シーク分離派の拠点であるパンジャブ州で暴動が集中していた。彼らは、州から、そしてインドから、分離・独立しようとしていたんだ。それと、カシミール地方では、やはりイスラムの反乱兵が、州から分離・独立しようとしていた。
彼らが一般市民を攻撃する方法といったら、本当に残忍極まりないものなんだ。しかもその戦略はものすごく洗練されていて確実だから怖いんだよ。いったい彼らはどこでトレーニングをしたんだと思う? いったい誰が、彼らにUBUIQUITOUS AK-47なんていうマシンガンや爆弾を供給したと思う? いったい誰が、彼らに資金を与えたと思う? 彼らは残虐行為をやったあと、いったいどこに避難したと思う?
テロリストたちを鼓舞し、武器を供給しているのは、パキスタンという影武者なんだよ。具体的に言えば、CIAやKGBに相当するISIと呼ばれる組織なんだ。だから、ぼくはどうしたって、パキスタンを許せない。
【その4】テロによる虐殺は、本当にいろいろあるけれど、僕が一番許せないのは「ラジオ爆弾」だった。シーク教徒過激派が、バス停や、公園とかの人目に付きやすい公共の場のあちこちに、爆弾をしかけたラジオを設置したんだ。
何もしらない、貧民層の子供たちは、新しいラジオを見つけて、大喜びでみんな駆け寄るんだよ。彼らにとって、ラジオが唯一の、大切な娯楽であり、情報源でもあるんだ。テレビなんて、買えないしね。
それなのに、スイッチを入れた瞬間、音楽が流れてくるかわりに、ラジオが爆発するんだ。どう思う? 何の罪もない子供たちが、一瞬にして死んだり、身体の一部を失ったりするんだよ。そう言う風に、人は人を殺せるんだよ。
A男とは、これまでこんな話をしたことがなかった。いろいろな経験をしてきたのね、と思う。
◉米国在住、アメリカ系アフガニスタン人ライターMir Tamim Ansaryの手記
以下に紹介するメッセージは、A男の同僚の友達の友達の友達から、電子メールで転送されてきたものだ。アフガニスタン人ライターによるオリジナルの原稿に添えて、彼の友人のコメントも転送されてきた。攻撃の対象とされているアフガニスタンを祖国に持つ人の立場から、今回の事態を捉えた文章だ。日本語訳して紹介したい。
R.Sという、ぼくの80年代からの友人が、今日の午後(9月14日)、一通の電子メールを送ってきた。それには、こんなメモが添えてあった。「ここに添付している手記は、ぼくの友人であるMir Tamim Ansaryの原稿です。Tamimはアフガニスタン系アメリカ人のライターで、ぼくの知る人たちの中でも、最も優秀な人物なんだ。アフガニスタンと、それからぼくらが今、置かれている、混沌の世界について彼が記した文章を送るよ。君はきっと、人脈が豊富だと思うから、できるだけたくさんの人に転送してもらえるだろうと思う。目を通す価値は、きっとあるから、読んでみて」
《Mir Tamim Ansaryの手記》 (坂田マルハン美穂訳)
あれから、わたしはもう、何度聞いただろう。
「アフガニスタンを爆撃して、石器時代に戻してしまえ!」などという台詞。
ロン・オーウェンが今日、ラジオで言ったこの台詞。言い換えれば、「あの凶行にはなんの関わりもない、罪のない人々を殺せ」と言っているようなものだ。「我々は戦争状態にあるんだ。だから二次的なダメージもやむを得ない。今の我々に、それ以外のなにができるっていうんだ」
テレビでは、識者たちがディスカッションしている。誰かが言う。「我々は、何がなされるべきかという、目標、ゴールを持っている」
わたしはアメリカ合衆国に暮らして、35年以上になる。しかしながら、わたしはアフガニスタン出身だ。これまで故国で起こっていることを、常に追いながら生きてきたわたしにとって、今回の出来事は、実に耐え難い。
そんなわたしが、今回の事態をどのように受け止めているか、他の人々にも知ってもらいたく、ここに考えを記したい。
断っておくが、わたしもまた、タリバーンやオサマ・ビン・ラディンを嫌悪する人間の一人だ。今回のニューヨークで起こった惨劇について、彼らに責任があるだろうことは疑いようのない事実だと、わたしも思っている。
わたし自身、あんな怪物のような奴らは、何らかの制裁を受けるべきだと思っている。
でも、これだけは、理解してほしい。タリバーンやビン・ラディンは、イコール、アフガニスタンではない。むろん、アフガニスタンの政府でもない。1997年、アフガニスタンは、タリバーンという、精神異常な狂信者たちによって、乗っ取られたのだ。
タリバーンを思うとき、ナチスを思ってほしい。ビン・ラディンを思うとき、ヒトラーを思ってほしい。そして、「アフガニスタンの人々」を思うとき、どうか「強制収容所に送られたユダヤ人たち」を思ってほしい。
アフガニスタンの一般人は、今回の凶行に際して、何一つ、関わっていないのだ。関わっていないどころか、彼らは、犯人どもの凶行の、いわば最初の被害者である。
アフガニスタンの人々は、もしも誰かが、自国を巣くっている国際的な暴漢どもを一掃し、タリバーンを排除してくれたなら、きっと大喜びするに違いない。
誰かが尋ねる。なぜアフガニスタンの人々は立ち上がって、タリバーン政権を打倒しないのかと。答えよう。彼らは、飢え、傷つき、疲弊し、苦しみのうちにあり、立ち向かう力など、持ち合わせていないのだ。
数年前の国連レポートによれば、経済が破綻し、食糧がないアフガニスタンという国には、50万人もの不具なる子供たちがいるという。そして、数百万人の未亡人がいる。タリバーンたちは、この未亡人たちを、生きたまま、無数の墓に埋葬した。旧ソビエトにより、土地には地雷がばらまかれ、農地はことごとく破壊された。
これらが、なぜアフガニスタンの人たちに、タリバーンを打倒する力がないかという理由の一つだ。
「アフガニスタンを爆撃して、石器時代に戻してしまえ!」との呼びかけに対して言わせてもらうなら、もう、すでに、それはなされているのだ。すでに、旧ソビエトが、やってくれているのだ。
アフガニスタンに苦痛を与えろ? もう、彼らはすでに大いなる苦悩を体験している。彼らの家を潰せ? もう潰されてる。学校を瓦礫の山にしてしまえ? もう瓦礫だ。病院を全滅させろ? すでにない。 彼らのインフラを破壊しろ? 医薬品の供給や医療機関をなくしてしまえ? すべて遅い。もうすでに、誰かが、みんなやってしまったんだ。
新しく落とされる爆弾は、かつての爆弾の破片をかき混ぜるだけだ。
タリバーンだけを捕らえることはできるか? それはあり得ない。現在のアフガニスタンでは、タリバーンだけが「食べる」ことができ、タリバーンだけが「移動」できるからだ。彼らはすでに、逃げて隠れている。
新しく落とされる爆弾は、多分、車椅子もなく、逃げることのできない、不具なる孤児たちの上に降りかかることになるだろう。カブールに飛来し、落とされるであろう爆弾は、決してこの事態の加害者たちに命中することはない。一度タリバーンによって破滅された人々を、改めて破滅させるだけのことだ。
それならば、どうすればいいんだ? わたしは、恐怖に打ちひしがれながらもなお、今、語りたい。ビン・ラディンを捕らえる方法は唯一、地上兵だけしかないということだ。
しっかりと目を見開いてほしい。アメリカ兵の死についても、考えてみよう。アフガニスタンを抜け、ビン・ラディンの隠れ家に到着するまでに、死亡するであろうアメリカ兵の数は、相当数に上ることになるだろう。
なぜなら、軍隊をアフガニスタンに派遣するには、パキスタンを通過しなければならないからだ。彼らは我々を受け入れてくれるだろうか。否、不可能だ。そうなると、まずはパキスタンを打破しなければならない。そうなったとき、ほかのイスラム諸国は、その事態をただ傍観するにとどまるだろうか。
もう、おわかりだろう。我々は、イスラム国家と西側諸国との世界的な戦いのただ中に置かれるのだ。
これこそが、ビン・ラディンの仕組んだ、彼がやりたいことなのだ。だからこそ、彼は今回のテロを遂行した。彼のスピーチや声明を読んでほしい。彼は、イスラムが西側世界をうち負かすと、絶対的に信じているのだ。実に、ばかばかしく思えることだが、彼は、もしもイスラム世界と西側諸国との対決が始まったとしたら、10億人もの兵隊を機動するだろう。
西側諸国がイスラムの国々に対して、大虐殺を展開したとしても、その10億人には、命以外、何も失うものがないのだ。
ビン・ラディンの思惑は、多分間違っていて、最終的には西側諸国の勝利に終わるだろう。しかし、そこにたどり着くまでに、何年もの月日を要し、また数多くの、敵ばかりでなく、味方の命も、奪うことになるだろう。
誰がそんな事態を望むだろう。ビン・ラディンは望んでいる。ほかには?
今は、9月22日土曜日の昼。火曜からわずか3泊4日、ニューヨークで過ごし、昨日再びワシントンDCに戻って来ました。この1週間は、本当に長く感じられました。
日本では、きっとテロのニュースも遠い昔のことのようになり、話題に上ることも極めて少なくなったことだと思います。
この10日間というもの、あまりに濃密な日々で、考えも四方八方に及び、ひどく疲弊しましたが、来週からは、生活のリズムを通常に戻すべく、急ぎではないからと中断していた仕事を再開しようと思っています。忙しくなりそうです。
さて、今日のメールマガジンは、すごく長いです。ニューヨークでの出来事などを、主に表面的なことばかりだけれど、書き留めたものを送ります。
気持ちは、毎日左右に揺れていたので、できるだけ感情を排除して書いてきたつもりですが、今読み返すと、やはり感情的です。でも、あえて手を加えず、そのままにしておきます。
●9月15日(土)から17日(月)にかけての数日
ブッシュ大統領がワシントンDCにあるイスラム・センターで演説をし、国民に呼びかけていた。今回のテロは、イスラム教の真理に反することで、あくまでも過激派の行いである。一般の、敬虔なイスラム教徒には何の罪もない。数多くのイスラム教徒たちが、この国を支えていると。米国民は、それを深く認識するべきだと。
しかしながら、全米各地で、イスラム教徒を迫害する事件が起こっている。昨日はパキスタン人の食料品店主と、アラブ人に間違えられたシーク教徒のインド人が射殺された。
A男はターバンを巻いていないからいいけれど、狂った輩に間違えられて撃たれたりしたら困るので、「星条旗のリボンをつけて歩いたら?」と勧めた。事実、アラブ系やインド、パキスタン系の店舗経営者やタクシードライバーは、身を守るために敢えて星条旗を掲げている人が多い。
昨日、近くのドラッグストアで、念のためにマスクを購入した。最後の1箱だったけれど、5つ入りだったので、1つ、A男にあげた。いざというときのために。
マンハッタンに住んでいても、ロウアーマンハッタンに行くのは年に数回。ワールドトレードセンターのてっぺんに上ったことすらない。打ち合わせで数回、ビル内の企業を訪ねたことがあるだけだ。
わたしの住むエリアは、きっといつもと、さほど変わりはないだろう。
●9月18日(火)午前:そして、10日ぶりのマンハッタンへ
「本当にニューヨークに行くの?」「今週いっぱいはこっちにいたら?」「そんなに大切なミーティングがあるわけ?」
前夜まで、ことあるごとに、A男はしつこく尋ねて来たが、もうこれ以上、わたしはDC(アーリントン)にはいられなかった。そもそも月曜日に戻る予定だったから、わずか1日、延ばしただけのことなのに、ずいぶんとニューヨークを離れていた気がする。
別に、絶対に、今日、ニューヨークに戻らねばならない理由はなかった。打ち合わせの予定は明日以降に入れているし、多分、今日帰ったところで仕事をすることはないだろう。でも、あれから1週間が経ち、自分の気持ちが少し落ち着き始めると、いてもたってもいられなくなってきたのだ。夜、一人になるのは不安かも知れない……、何かがあったとき、家族と一緒なら救われる……、そんな思いも頭をよぎるが、そんなことばかり言ったところで、前には進めない。
朝、目を覚まし、A男を仕事に送り出した後、荷造りをし、部屋を簡単に片づける。沈みがちな気分とは対照的に、天気がよく、それだけでも救われる。いつもは時間に余裕を持って出発するのに、今日はぎりぎりになった。家の近くでタクシーを拾う。
「ユニオンステーションまでお願い。急いでるから、早いルートで行ってね」
「ユニオンステーション? 多分、駅までの道は混んでると思うよ。みんな飛行機に乗れないから、アムトラック(鉄道)を使うと思うし」
ワシントンDC周辺には3つの空港があるが、DCの中心部に最も近いレーガン・エアポートはいまだ閉鎖中だ。なにしろ、ほとんどの便がペンタゴン上空を通過せねばならないから、再開の見通しは立っていないようなのだ。
「できれば20分以内に到着したいの」
「ううん。どうがんばっても25分だな」
ニューヨークへの列車は1時間おきに出ているから、乗り損ねたら次を待てばいいのだが、駅で無為な時間を過ごすのはいやだった。
運転手は若い美形のインド人。彼はにこやかに声をかけてくる。
「どこへ行くの? ニューヨーク?」
「そう。夫はここに住んでるんだけど、わたしはニューヨークに家があるのよ。それでこれから帰るところなの」
「飛行機は使わないの?」
「飛行機って……、今、飛行機に乗る気にはなれないわよ、怖いでしょ?」
「え? 飛行機、怖がってるの?」
そう言って、彼は笑った。さすがインド人。怖いもの慣れしている。というか、ピントはずれ。(ここは笑うところじゃないやろ!)と思いながらも、つられて笑う。
思えば、あの事件以来、わたしはアーリントンにある自宅の周辺しか外出しなかった。いつもなら、DCの町中まで足をのばすのが、とてもそんな気にはなれなかったのだ。
タクシーの車窓から見るDCの町は、先週の土曜日と、なんら変わっていない。国旗を掲げて走る車は、1台しか見かけなかった。星条旗はあちらこちらで見かけたけれど、この街はそもそも、星条旗で彩られているから、取り立てて珍しいことではない。
運転手の言葉通り、ぴったり25分後に駅に到着した。出発の5分前だ。駆け足でチケットブースに向かい、自動販売機で切符を購入し、大急ぎでホームに行く。
運転手は「ユニオンステーションは込んでいる」なんていっていたけれど、構内はガラガラだった。いつもなら、荷物を携えた大勢の人たちが行き交う場所なのに、妙に静かだ。その閑散とした空気が、心に重い。
「New York」のサインがあるホームに付くと、すでにみな乗車していて待合室には誰もいない。駆け足で列車に向かうと、改札にいたポリスマンが、「急がなくてもいいよ。まだ時間があるから」と声をかけてくれた。時間があると言っても、出発まで1分くらいだったが。
空いた電車に乗ることを、辛いと思うだなんて、初めてのことだった。いつもなら、込み合っている列車を嫌悪しているのに、「どうして誰もニューヨークへ行かないのよ?!」と思い、目頭が熱くなった。
乗客の面子はまちまちだった。ビジネスマンもいれば老夫婦もいる。幼児を連れた妊婦も、若い女性もいた。
普段は、子供が泣き騒ぐ声に耐えられないはずが、今日は、その声さえも耳の入り口で跳ね返っているが如く、何も入ってこない。20分ほど、うとうとした以外は、3時間余り、とりとめもないことを考えていた。
ペンシルベニア州を過ぎ、ニュージャージー州に入り、ニューヨークの手前の駅であるニューアーク・エアポート近くまで来た。いつもなら、ぶつかりはしないかと不安になるほど、数多くの飛行機が離発着しているのに、今日の空は静まり返っている。まばゆく澄み切った青空を見上げると、1機、見えた。それ以外は、鳥たちがゆったりと飛ぶ姿。
ニューアーク近くに来たとき、彼方にエンパイアステートビルが見えた。ハッとして視線を右側に移す。いつもなら、二つのビルが見えるはずなのに、やっぱり、そこには、何もなかった。
エンパイアステートビルだけが、ニューヨークの摩天楼一軍を一手に率いているかの如く、健気に、天を指して、そびえ立っていた。
列車はどんどんとマンハッタンに迫る。ワールドトレードセンターがあったあたりに、煙がうっすらと立ち上るのが見える。やがて列車はトンネルに入り、ハドソン川の下をくぐって、マンハッタンに到着した。列車を降りるとき、胸のあたりに、大きな固まりのようなものがこみ上げてきて、胸がつかえた。
●9月18日(火)午後:ただいま
列車を降り、階上にあがり、ペンシルベニア・ステーションの外に出る。いつもと変わらない、マンハッタンの風景。イエローキャブに乗り込み、34丁目にあるその駅から、60丁目まで8番街を北上する。いつもと同じように、込み合った道路。あえて注意を払わなければ、店頭に掲げられた星条旗が多いことにさえ、気づかないくらいだ。
信号待ちをした時、路上駐車していた車の一面に、Missing(行方不明者)の張り紙が施されているのを見た。それ以外は、何一つ、変わらない。
ビルの1階ロビーで、不在中に届いた荷物や郵便物、読売新聞の衛星版などを受け取り、部屋に戻る。まずは水をコップに1杯飲み、コンピュータのスイッチを入れ、荷をほどき、郵便物を開封し、たまった新聞にざっと目を通す。いつもと変わらない。
ニューヨークタイムスの日曜版の一面に、星条旗が印刷されていた。隅の方に「使用法:新聞から切り離し、窓に貼りましょう。Embrace freedom(自由を、抱きしめよう)」と注釈があり、その下に小さく、From the over 250,000 Kmart associates.とある。
Kマート とは、米国の、日用雑貨の大手チェーン店。彼らがこのページを買い取って、一面、星条旗にしたのだ。粋なことをする会社だなあと思う。切り取って、窓ガラスに貼った。そのガラスの前に、昔、土産物店で買っていた「自由の女神像」を置く。亡くなった人たちへの、哀悼の気持ちを込めて。
一段落したら、午後3時になっていた。身支度をして、街の様子を見に出かけることにする。そういえば、まだ昼食も取っていなかったのだ。
ビルを出て、まずは隣の聖パウロ教会へ。売店で、2ドルのキャンドルを買い、灯をともし、お祈りをして、今回の惨事に伴う特別礼拝のスケジュール表を1枚、バッグに入れ、街に出る。
花屋には早くもハロウィーン用のカボチャが飾られ、スターバックスでは誰かがくつろぎながら読書をしていて、路傍に露店を広げ、古本を売る人がいる。公園のベンチでは、いつものように誰かが座っている。
いつもと同じ風景。でも、あたりをただよう空気が重い。人々の表情に「余裕」がない。
あちこちの店頭で、星条旗が掲げられていたり、ガラスに貼られていたりする。中国料理店にも、コリアン一家経営のワインショップにも、メキシカン・レストランにも、雑貨店にも、ファッションブティックにも、本当に、至る所に。
お腹が空いていたことを思い出し、57丁目の6番街にあるマクドナルドに入る。この間、マクドナルドで痛い目にあったばかりなのに、急に、ハンバーガーとフライドポテト、そしてダイエットコークという、ジャンキーなものが食べたくなったのだ。
このマクドナルドは、2階席からの見晴らしがいい。窓際に座り、ハンドバッグをしっかりとそばに置いて、57丁目を見下ろしながら、食べる。消防車が、星条旗をたなびかせながら、何度も行き交うのが見える。向かいの店にも、その隣のビルにも、大きな大きな星条旗だ。
隣に座っている黒人のお兄さんは、ひどく真剣な表情で読書している。本のタイトルをちらりと見ると、「イスラムの哲学」とあった。
途中で「コスメティック・プラス」というコスメ用品店に立ち寄る。この店は、マンハッタン内にいくつもの支店を持っているのだが、来月いっぱいで全店閉店するらしく、2週間ほど前から「店じまいセール」をやっているのだ。やっぱり、今日も、変わらずセールをしていた。
5番街に出ると、星条旗のサイズもぐっとスケールが大きくなり、ショーウインドーを全面覆うような星条旗があちらこちらで見られる。左右は半旗が翻るビルが連なる。
普段よりは道行く人が少ないような気もするが、いや、あまり変わらないかもしれない。ただ、「観光者然」とした人は少ない。要するに、キョロキョロしながらノロノロと歩く人たちがいない。
ハンドバッグを盗難されて以来、臨時で安っぽいビニールポーチを財布代わりにしているので、同じ財布を新しく買おうとGUCCIに入った。お客が少ないせいか、店員があちこちから声をかけてくる。なくしたものと同じ赤い財布が欲しかったのだが、それは去年のモデルで、今年は黒しかなかった。
店員の一人に2週間前に盗難された話をしたら、彼女も、わたしが盗まれたのと同じ街で、ハンドバッグをとられたらしい。公衆電話を使っているとき、一瞬、地面にバッグを置いたすきに持って行かれたという。
あれこれ見たが、ピンとくる財布がなかったので、今日は買うのを諦めた。
店を出ようとすると、見覚えのある顔を発見した。知人のMさんだ。2年前のクリスマス以来会っていなかったのだが、偶然にも再会。彼女は40代前半のシングルマザーだ。ファッションモデルをやっていたこともあり、スタイルはいいし、顔も美しいし、髪はブロンドに染めてるし、すごく若く見える。
一緒にいた女性を見てびっくり。彼女のお友達と思いきや、2年前は私より随分小さかったのに、今や170センチは軽くあると思われる、彼女の娘だった。元夫が黒人だったこともあり、これまたプロポーションがよく、スーパーモデル並み。足が長すぎ! たしか14歳くらいだったと思うが、もうすっかり大人の風情である。
「まあ~、大きくなって!!」と親戚のおばさんのように、感嘆の声を上げてしまう。
彼女たちとは、テロの話は深く触れず、「大きくなったわね」とか、「息子はどうしてる?」とか、「わたしたち結婚したのよ」とか、世間話をして別れた。
それから、ロックフェラーセンターに行き、いつもなら観光客でいっぱいのあたりをスイスイと通り抜け、紀伊國屋書店に入り、イスラム関係の文庫本を3冊購入する。
そこから、西に戻り、ブロードウェイからタイムズスクエアをのぞむと、星条旗が大きく、モニターに映し出されているのが見えた。日本料理店の前で休憩をしている日本人従業員が、タバコを吹かしながら「俺、アスベスト、いっぱい吸っちゃったよ」と嘆く声が耳に入った。
帰り道、赤ワインを1本買い、スターバックスでコーヒー豆を買い、おまけでコーヒーを1杯もらったら、もう両手がいっぱいになってしまい、花を買おうと思っていたのが持ちきれなくなって、そのまま家に向かった。
2時間ほど街を歩き、家に戻るその道で、頭の中にひとつの言葉が、突然に浮かんできた。
「目には見えない」
今日すれ違った人の、きっとだれかの家族が、あのビルに勤めていたかもしれない。今日すれ違った人の、きっとだれかが、命からがら、逃げ出してきたかもしれない。
今日すれ違った人の、きっとだれかが、不安や恐怖で打ち震えているかもしれない。
でも、そんなこと、一瞥しただけでは、わからない。もしも人の感情が、くっきりと目で見えたなら、たとえば、悲しみがブルーで、歓びがオレンジだとしたら。いつもはオレンジがちのマンハッタンが、今は多分、広くブルーに包まれているはずだ。
でも、それを、明らかに目にすることができないから、みな、普通でいられる。見えないから救われ、見えないから、明日もがんばろうという気持ちになる。
「気を付けてね」と言われて、たとえば盗難や交通事故から身を守る努力はできるかもしれない。でも、テロや天災からは、身を守ることは、多分不可能に近い。
あの朝、いつも通り会社で書類を広げ、いつも通り電話をし、いつも通りの時間を過ごしていた彼らのうち、いったい誰が、目前に旅客機が飛び込んでくるなどと想像しただろうか。
どんなに現場からの映像をリアルタイムで眺めたとしても、阪神大震災のときだって、わたしは悲痛な思いで情報を追っていたけれど、今回、たくさんの読者の方々からメールを受け取って、初めてわかったことが、どれほど多かったか。
結局は、自分の身に降りかからなければわからない。できることなら艱難辛苦を避けていきたい。天災人災に巻き込まれずにいきたい。けれど、誰にも、自分が絶対に大丈夫だなんてわからない。
結局は、目には見えないから、事態を目の当たりにした当事者以外はパニックに陥ることもないし、目には見えないから、常にそこにあるであろう恐怖を感じることなく、平穏でいられるのだ。
当事者でない自分が悲しみの底に沈んでしまってはいけない。
夕方近くなり、部屋に戻り、何人かの友人と、何人かの仕事の関係者に電話をした。新聞を読み、夕暮れ時になり、やっぱり見ておこうと思い立ち、52階にある屋上に上る。
無数に立ち並ぶ摩天楼が、いつものように目前に広がる。そのほとんどが無事で、そのほとんどが正常に機能しているというのに。わずか2本の巨大なビルと、その周辺のビルが消えただけなのに、その喪失感の、なんと大きいことだろう。その消え方が、余りにも、むごたらしかったから。
彼方で立ち上る煙は、弔いの煙のように、静かに静かに、空に吸い込まれていく。いつものように、ニュージャージーの方へ沈んでいく夕陽。いつもなら、無数の遊覧ヘリコプターが飛び交っている空が、今日はひどく静かだ。報道のヘリコプターらしき一機が、現場の上空を旋回するばかり。飛行機も、驚くほど少ない。
だけど、セントラルパークの緑は相変わらず美しく、エンパイアステートビルは相変わらず凛と屹立している。ずいぶんと長い時間、マンハッタンの風景を、見下ろした。
夜になり、風向きが変わったのか、今、昼間は少しも感じなかった、「匂い」がこの部屋にも漂ってきた。プラスチックが焦げたような、埃っぽい、匂い。このアパートが火事になったときの匂いに少し似ているが、それよりも、更にケミカルが強い感じで、明らかに身体に害がありそうな匂い。人一倍、嗅覚の強い、犬のようなわたしは、わずかな匂いにもかかわらず、すでに頭痛がし始め、急いで窓を閉めた。
テレビはニューヨークのローカル放送「New York 1」をつけたまま。良くも悪くも、DCにいたときCNNやABCやCBSニュースでは伝わらなかったニューヨークの地元情報が克明に伝わってくる。
時折、各種寄付金を募っている団体の連絡先や、メンタルケアを行っている団体の連絡先が、文字情報だけで流される。子供を対象としたもの、鬱傾向にある人を対象としたものなど……。こんなときに心のケアがどれだけ大切か。
普段は「睡眠第一」で、しっかり寝てこその元気な毎日、だと思っているのだが、やはり今日も、朝早くに目が覚めた。一度目を覚ますと、いろいろなことが頭の中を駆けめぐって、再び眠りにつけない。6時頃に起きあがる。年寄りみたい。
とりあえず、目先の仕事を次々に片づける。この数日、マンハッタンにいる間にやるべきことをやって、来週はまたDCで過ごす。時折、友人たちから電話が入り、その都度仕事が中断するものの、それでもお互いの近況を知りたくて、言葉を交わす。
ある友人は、あの日の前日の朝、私たちへの結婚記念日のプレゼント(機能的な小型掃除機らしい)を買いに、ワールドトレードセンター横のセンチュリー21という店に行ったのだという。もしも一日ずれていたら、掃除機をほっぽりだして逃げまどうことになっただろう。
ある友人は、テロのあった翌日、事件とはまったく関係ない理由で、同棲していたボーイフレンドと別れ、家を飛び出したという。大ショックの連続に感情的に話すことさえない彼女に、言葉がない。
生まれてこのかた40年、掃除嫌いだった友人のひとりは、あの日から、なぜか部屋の掃除ばかりしているという。夫や子供たちが驚くほどに。
その他、「友人の友人」の体験として、いくつもの、とにかく生々しい話を聞く。ワールドトレードセンターで働いていた人、その近所に住んでいた人などを友人に持つ友人が多いので。その詳細を記すのははばかられる。まさに、地獄だから。
来月、日本から両親と妹たちが来るために予約をしておいたあれこれに、キャンセルを入れる。マンハッタンのホテル2カ所、ベースボールの街、クーパースタウンのホテルなど。ディナークルーズはそもそもキャンセルが出来ないが、この事態だし、どうなるだろうかと一応電話をする。
担当の女性は、「ディナークルーズの再開の見通しは立っていないが、今、返金は出来ない。いつかまた、電話してくれ」とのこと。いつかまた、である。乗れないのにお金を払ったままとは納得がいかないが、状況が状況だけに、彼女に詰め寄っても仕方がないのでひとまず諦める。ディナークルーズのパンフレットの表紙には、ハドソン川に浮かぶ船と、その向こうに堂々とそびえ立つワールドトレードセンター。
オペラのチケットは、誰か知人に譲るしかないだろう。
マンハッタンが一日も普通通りに戻るためには、観光客に来てもらうのがいいのだろうが、1カ月後に、にこやかな気持ちで、この街を案内する気分にはなれそうにない。
ようやく3時頃、急ぎの仕事をすませ、わたしは、やはりダウンタウンに行くことにした。コロンバスサークルからバスに乗る。いつもはタイムズ・スクエアのあたりで大渋滞に巻き込まれるが、今日はかなりスムース。信号待ちで停車するくらいだ。
通りでは、ストリートパフォーマンスを眺める人だかりが出来ていて、笑顔を見せている人たちもいる。でも、観光客の数は圧倒的に少ない。ブロードウェイの劇場もお客が入らず、興行を中止したミュージカルもあると聞く。
バスは42丁目から東へ向かい、ブライアントパークを通過する。ここにも行方不明者の写真がいっぱい張り出してあった。ここでバスを乗り換え、五番街を南下する。エンパイアステートビル周辺は、いつものように人がいっぱいで、コリア・タウンも見る限りでは、いつもと変わらない。
エンパイアステートビルの入り口は、ゲートが施され、警官が何名か立っていて、入場者の制限をしているようだった。もちろん、展望台は閉鎖されたままだ。
やがてフラットアイアンビルが見えてくる。前方に「シリコン・アレー」の看板が見える。この界隈が、カリフォルニアのシリコン・バレーに対して、シリコン・アレーと名付けられ、ニューヨークのITビジネスの拠点として束の間の繁栄を見せたことが、まるで遠い日の幻のようである。
5番街をさらに下り、ワシントン・スクエア・パーク近くでバスを降りた。このあたりから南は、事件から数日間、閉鎖されていて、部外者が立ち入れなかった地域だ。公園の一画には、人々の寄せ書きや、行方不明者の写真や、花束(すでに枯れていた)や、キャンドル。学生たちや地元のニューヨーカーたちで、いつもはにぎやかなこの公園が、人はたくさんいるにも関わらず、とても静かだ。アップタウンやミッドタウンよりも、ずっとずっと、人々の様子が沈んでいた。
このあたりに住む人々の多くは、あの日のすべてを、自分たちの目で目撃しているのだ。
NYU(ニューヨーク市立大学)のあたりを通過し、さらに南下して、ソーホーのウエストブロードウェイに出る。カフェで語り合う人々、犬の散歩をする人、店頭でタバコを吸う人、通りを歩く人……、地元のニューヨーカーらしき人たちはは皆一様に、本当に、ミッドタウンやアップタウンの人たちよりも、沈んでいて、心が重くなる。
このウエストブロードウェイの突き当たりに、ワールドトレードセンターがあった。いつも、ここからは、ワールドトレードセンターが、くっきりと、見えていた。超方向音痴のA男は、ダウンタウンに来るたびに、あの二つのビルを目安にして方角を見極めていたものだ。
あるべきもののない空は、ひどく広々として見える。
母子が露店を出し、星条旗を施したTシャツとリボン、ブローチなどを売っていた。わたしが立ち止まると、娘が「売り上げは、寄付金となります」と言うので、2ドルのリボンを買った。
午後の日差しが無闇に暑く照りつける。おまけに熟睡不足のせいか、昨日から、しばしば軽いめまいがする。そのたびに、地面が揺れているような気がして、「地震?」と思う。あのビルが、地震で崩れ落ちたわけではないのに。
人通りが少なくても、ほとんどの店は開店しているので、日陰を求めて店内に入る。気晴らしにと、服などをちらちらと眺めてはみるものの、何かを買おうという気分にはならない。ましてや試着などする気合いもない。
どんどん南下して、キャナル・ストリートに出る。ここから南は、西にトライベッカ地区、東にチャイナタウンが広がり、さらに南下するとロウアー・マンハッタン地区となる。向こうに、煙が立ち上るのが見える。
キャナル・ストリートから南は、NYPD(ニューヨーク市警)のブルーの柵によって道路が封鎖されている。車両は入れないが、人間は通行している。キャナル・ストリートより南に入る気にはなれなかった。これ以上は近づいてはいけない、と自分なりに感じたので、キャナル・ストリート沿いに、なんとなくチャイナタウンを歩く。
チャイナタウンの店頭という店頭に、「星条旗グッズ」が陳列されている。
イースト・ヴィレッジ在住のR子いわく、
「あの日の翌々日くらいに、すでにこの近所で、中国人が星条旗の露店を出してたんだけどね。旗の下に"Attack on America"とか、書いてあるんだよ。きっとテレビのニュースでずっと出てたから、何も考えずにその文字を印刷したんだと思うけど」
その商魂のたくましさは見上げたものだが、どうせ英文をプリントするなら、もうちょっと考えてからにすればいいのに。"God Bless America"とか。"Attack on America"なんて書かれた旗を、いったい誰が買うのか。誰も買わんだろう。
白人の女性が、とある店で旗を買いながら、店の中国人と口論している。どうやら値段が高いと文句を言っているようだ。
「これは悲劇なのよ! こんな悲劇のさなかに、商売のことを考えるなんて」と、大声で責めている。
こんな悲劇のさなかに、値切る方も値切る方である。
第一、中国人である彼らだって、何らかの被害を被っているのだ。彼らにだって生活がかかっている。
わたしは、星条旗柄のリボンを買うには買ったけれど、胸に付けようとは思わなかったので、とある店で、星条旗のあしらわれた小さなヘアピンを買うことにした。店番のお姉さんいわく、1個3ドルだという。さっきの件もあったので、ためしに
「え? これが3ドル? 高いのね」と言ってみたら、
「2個で5ドルにしておくよ」と言われた。
2個もいらないので、1個だけ買った。値切らずに。
いつも行く台湾系のパン屋さんで朝食用のパンを買う。今夜会う予定のR子もここのパンが好きなので、彼女の分も買う。少しお腹が空いたので、アイスミルクティーを買い、購入したパンを、店内のカフェでひとつ食べる。玉置浩二の古いヒット曲が、インストロメンタルで流れている。
R子との夕食の待ち合わせ時間まで1時間半。チャイナタウンを離れ、今度はブロードウェイを北上する。この通りは、さすがに人通りが多くて賑やかだ。でも、どの店も、店内にお客の姿は少ない。
突然、ものすごい疲労感に襲われて、すごく肩が凝ってきた。本当は、もう少し町中を歩く予定だったが、頭痛もしてきたので、ひとまずイースト・ヴィレッジまで行き、カフェに入る。
昨日買った本を鞄から取りだし、読もうとするが、ちっとも頭に入らないので、1時間ほど、ボーッとしていた。
待ち合わせのレストランへ行く前に、以前も紹介したことのある「フレグランス・ショップ」へ立ち寄る。天然のハーブ・オイルでオリジナルの香水などを作ってくれる店だ。今日は、リラックス効果のあるマッサージオイルと、バス・ソルト(浴用剤)を購入しようと思う。
こぢんまりとした店のドアを開けると、タイ人の女性オーナーが、「久しぶり! 元気だった?」と笑顔で声をかけて来る。すごく、にこやかだ。
「結婚式はどうだった?」「写真は持ってる?」
以前、インドに行く前に来たときに、夏の休暇はインドへ結婚式に行くという話をしていたものだから、彼女の興味はそこに集中しているらしい。いや、むしろ、「楽しい話題」を持ち出したかったのだろう。
わたしが、一番ナチュラルで、おすすめのバスソルトを買いたいと言ったら、奥の方から取り出してくれて、「ラベンダーオイルを混ぜてあげるわ」と、ソルトの上からスポイトでオイルを垂らしてくれた。
「みんな、気持ちが滅入っているから、リラックスできる香りのものを買いに来るわよ」と言う。始終笑顔を崩さない彼女。なんとなく、ほっとする。
彼女が通りの向かいにある教会を指さす。窓の向こうを見やると、3葉の写真とキャンドル。
「いつもあの教会に礼拝に来ていた人たちらしいの。本当に、気の毒で……」少し表情がかげる彼女。
「あなたの家族は大丈夫だった?」と聞けば、
「わたしの娘がワールドトレードセンターの向かいにある高校に通っていたの。彼女はその日、学校に遅れて、被害には直面しなかったんだけど、とにかく学校はめちゃめちゃだし、友達もひどい光景を目にしているし、彼女は本当にひどくショックを受けていて、日曜日までずっと、部屋のカーテンを閉め切って、閉じこもってたの。月曜になって、ようやく、ちゃんと話ができるようになったけど、まだまだ心配だわ。わたしは、母親として、彼女のそばにいて、彼女を支えてあげなければならない……」
そういいながらも、微笑みを絶やさない彼女。
「また、来るわね!」
わたしも笑顔でこたえて、別れた。
●9月19日(水)夜:R子との夕食にて。互いの思うところを吐露
思えばあの日以来、こうして友人と顔を合わせ、食事をするのは初めてのことだった。わたしたちはR子の自宅の近くにあるレストランで待ち合わせていた。
今日は風向きがいいせいか、いやな匂いもなく、埃っぽくもなかったので、わたしたちはテラス席に座る。秋風が心地いい。
つい先ほど、R子の夫が会社からバスで帰宅する途中、道路が渋滞していた。警察の車が前方に見える。人々が大騒ぎしているのビルの上を見ると、5階のあたりで、老女がバルコニーから飛び降りようとしていたらしい。阪神大震災のあとに自殺者が相次いだことを思い出し、心が痛む。
彼女はあの日以来、ずっとこのイースト・ヴィレッジ界隈を離れておらず、ひどく気分が滅入っているようだった。ニューヨークから離れていたわたしよりも、当然ながら痛手は大きく、二人して、時に涙ぐみ、時に笑いながら、喜怒哀楽の激しいひとときを過ごす。
話をしながら、時折空を見上げる。さまざまな事実をこの二日間で、目のあたりにしたのに、わたしはまだ、あのようなことが起こったことが、信じられない。
彼女の夫はとてもあっけらかんとしていて、今回の件についても彼自身が落ち込むようなことはなく、意見がかみ合わなくて腹立たしいこともあるけれど、でもそれで救われているのかもしれないと彼女はいう。
それはわたしにしても同じこと。A男がDCにいて、いつも通り変わらず仕事をし、しかも、非科学的なことや噂などは一切信じず(インドの「サイババ」や「アガスティアの葉」なども、まったくバカにしている)、かなりあっけらかんとしている彼が一緒だからこそ、救われているのかもしれない。
●9月20日(木)雨降る一日 ずっとオフィスにて
朝からしとしとと雨が降る。今日はずっと、オフィスにこもって仕事。何人かが訪れ、何人かと打ち合わせをし、来週のDC滞在に備えて、マンハッタンでするべきことを、すませておいた。
集中力を要しない仕事をするときには、テレビを付けたままにしている。New York 1では、サイコロジスト(精神科医)が出演し、ニューヨーカーの電話による相談に対してのアドバイスをしている。
それぞれが、日常生活を正常に営めないほど、ひどく滅入っていて、そのような人がマンハッタンにたくさんいる。
夜、9時から、ブッシュ大統領の演説が行われた。わたしは、この演説を聞いて、アメリカという国に対する見方が変わった。このことについては、またいつか、改めて、考えがまとまったときに書きたいと思う。
●9月21日(金)今日も雨、曇天。街に匂いが漂っている
ゆうべは、あの日以来初めて熟睡し、翌朝は、あの日以来初めて目覚まし時計によって起こされた。
目を覚まし、窓を開けると、風向きが悪いせいか、焦げ臭いいやな匂いが鼻を突く。この匂いは、きっと今マンハッタン中に立ちこめていて、多くのニューヨーカーたちの気持ちを滅入らせているに違いない。
パンを焼き、コーヒーを飲みながら、新聞を広げる。新聞には相変わらず、企業からの「お見舞い広告」が目立つ。
夕べのブッシュ大統領の演説が全文掲載されている。あとでじっくり読もうと保管する。エンターテインメント情報の束を広げる。
「世界中の、ニューヨークを救いたいと思っている方々へ。わたしにはすばらしいアイデアがあります。ここに来て、お金を使ってください。レストランに行き、ショーを観てください。そうすれば、ニューヨークは息を吹き返します」
16日のジュリアーニ市長のコメントが抜粋された全面広告があり、すべてのブロードウェイのチケットのうち5ドルは寄付金になることが記されている。
残りの仕事を片づけ、荷造りをして、再びDCに戻るべく、午後はマンハッタンを離れた。
全米で、さまざまな、もっともらしい、噂が飛び交っている。電子メールで転送されてくるものもあれば、電話で口から口は伝わるものもある。あるものは、「確実な情報筋」「信頼できる情報筋」などとの但し書きもある。
しかし、いったいどこに「確実で信頼できるもの」などがあるのか。もしもそんなものがあれば、あのテロは回避できたのではないか。今更なにを言われても、という気もする。
インターネットの検索サイトの上位が、ノストラダムスだのテロ関連のキーワードばかりが集中し、いつもはトップのセックス関連、芸能関連が落ちているという。表面には見えないけれど、みんな、本当に、おびえたり気にしたりしているのだ。
書店でも、ノストラダムス関連書籍やイスラム関連書籍が売れているという。先ほど、ワシントンDCのローカルニュースでも、ガスマスクや貯水タンク、ランタンなどアウトドア用品ならぬサバイバル用品が飛ぶように売れている様子を映し出していた。
あれ以来、「気を付けて」という言葉を何度も耳にした。口にもした。でも、いったい、なにをどのように、気を付ければいいのか。ガスマスクを買うべきなのか? サバイバル用品を用意しておくべきなのか?
阪神大震災の時に見聞きした、数多くの被災者の言葉の中で、心に残っているものがいくつかある。その一つに輸入業を営む夫人のコメントがあった。邸宅に暮らす彼女の家は、数々の海外から取り寄せた家具調度品に彩られ、なかでも陶磁器の趣味があった彼女は、長い年月をかけて、世界各地からアンティークなどを収集していたという。
彼女が人生の長い時間をかけて集め、愛してきた「物」は、一瞬にして、粉々になった。
その彼女が「物は消えてなくなるのだということを、知りました」と、言ったひとことが、忘れられない。
質素倹約、常日頃から物欲のない生活をしている高尚な人々に、同じ台詞を言われても、多分わたしは聞き流しただろう。物を慈しむ彼女の言葉だからこそ、そこには「強い実感」がこもっていて、ひどく力があったのだ。
形ある物はなくなる。その覚悟を、心のどこかで、いつもしておかなければならない。
そしてもう一つ。ある女性がボーイフレンドと喧嘩したまま別れたその日の翌日、ボーイフレンドが震災に巻き込まれて亡くなったというコメント。「最後にお互い、ひどいことを言って別れてしまったことが、悔やんでも悔やみきれない」
この言葉は、それ以来、常にわたしの心にある。A男とどんなに喧嘩をしても、どんなに別れ際、腹が立っていても、とにかく最後は努力して、笑顔で送り出すようにしている。
今のところ、気を付けていること、いや心がけていることといえば、その二つくらいだろうか。
たいへんご無沙汰しておりました。前回発行してから、1カ月近くもたってしまいました。今日は10月20日土曜日。我が母の誕生日であり、私たちがニューヨークでの結婚披露パーティーを予定していた日でもあります。
書きたいことがたくさんあったのですが、9月11日以来、一時期、滞っていた仕事をこなすのと、muse new yorkの最終号を制作するのと、そして色々な知人友人と会い、話をすることで、精一杯の毎日でした。
この4週間の出来事と心の移り変わりは、「誰かに伝えるため」ではなく、「自分自身のため記録」として、綴っておきたいと思っています。何だか途方もなく長くなりそうですが、久しぶりのことですし、お時間のある方はお付き合いください。
24日から28日にかけての週、DCでずっと原稿を書いていた。事件以来、どうしても文章を書くことに集中できなかったのだが、ようやく気持ちも落ち着いてきたのだ。muse new york最終号を早く仕上げようと、とにかく書く。メインの仕事の方もかなりはかどった。張りつめていた気分をほぐそうと、週末はA男とヴァージニア州にある温泉地に1泊ででかけることにしていた。
日本の露天風呂みたいな風情は決して期待できないが、アメリカの温泉地は大抵、山間にあって自然がきれいだし、ドライブにもいい場所が多い。ゆったりとバスタブで温泉水に浸かるだけでも、多分、心身ともにほぐれるに違いない。考えただけでうっとりしまう。
温泉旅行の前日(金曜)になってA男が会社から慌てて電話をかけてきた。
「ミホ、ごめん、忘れてた。明日、秘書の結婚式に呼ばれてたんだった! ミホも招待されてるからね!」
もう!! スパでマッサージしてもらって、温泉に浸かって、そのあとバスローブのままでよく冷えた白ワインでも飲んで極楽……という図をイメージしてたのに! もう、思い切り腹が立って、これでもか、というほど文句を言って電話を切った。
A男は反省したらしく、結婚式は午後4時からだからと、その前に近くのホテルのスパに予約を入れておいてくれた。DC郊外のホテルだから、どうせ田舎っぽいモーテルみたいなところに違いないと全然期待していなかった。
そして翌朝。今ひとつ冴えない気分で家を出る。自宅から車で10分ほども走ると、緑いっぱいの自然の中に、近代的なビルがいくつも立った街が現れた。マクレーンという街だ。
週末のせいか、町中はひどくガランとしているが、かなり有名なビジネスタウンらしく、カンファレンスなどもしょっちゅう行われるらしい。A男が連れていってくれたホテルは、安モーテルではなく、なんとリッツ・カールトンだった。
「うわー、こんなところにこんなゴージャズなホテルが! うれしいかも!!」と内心、大喜びだったが、A男の手前、やや不機嫌な様子を崩すものしゃくで、「悪くないんじゃない?」などと言いつつ、ホテルに入る。
マッサージを予約していれば、プールやジャクジー、サウナも使えるし、何時間いても構わないシステム。ミストサウナで身体をほぐしたり、プールで軽く泳いだ後、アロマセラピーのマッサージを受けた。あの日以来の疲れが、少し、落ちた気がした。
スパのあとは、近くにあるショッピングモールへ。ここがまた、すごい。いくつかのモールがあるのだが、その一つがティファニーやらヴィトンやら、高級ブランドがいっぱいのモールなのだ。
その後、秘書の結婚式で同席したA男のボスいわく、「あのモール、日本人がいっぱい来るんだよ」とのこと。いやはや。いったい、どういう人たちが来るのか。駐在員家族だろうか。それともDCへの観光客が、ツアーバスなんかで来るのかな。驚いた。
モールで結婚祝いを買い、小さな教会へ向かう。結婚式の後、近くの「公民館」っぽい場所で披露宴。「郊外に住む平均的アメリカ人の結婚式の様子」だった。ワインを飲みつつ、ビュッフェの料理を食べつつ、テーブルに座って食事。A男の会社関連の人たちが固まって座った。パキスタン人の同僚夫妻だけが欠席していた。
皆、違う話題を話していても、ついついテロ関連の話に行き着いてしまう。
●9月30日(日):グランド・フォールズと言う名の国立公園へドライブ
朝、おむすびを作り、車で20分ほどのところにある国立公園に出かけた。DCに横たわるポトマック川の上流の、大きな滝になっている場所にある国立公園だ。川でカヤックをしている人たちや、断崖でロッククライミングをしている人たちもいる。ピクニックフィールドでは、バーベキューの煙と共に、いい香りが漂ってくる。
ボール遊びをする親子、犬を連れて散歩するカップル……平和な初秋の光景。滝を見下ろす岩場でおむすびを食べる。心地よい風に当たりながら、まぶしい青空を見つめながら、「わたしゃ、これから、どうすりゃいいんだ」と、止めどなく思う。
こんなところに身を置いていると、あの日に起こったことが、まるで幻のように思える。自分にとって、どんな意味がある出来事だったのか、よくわからなくなる。
事件の直後、R子と「ハウスシチューのコマーシャルみたいな生活、したくなるよね」と言う話題で盛り上がったことを思い出した。都会的な暮らしを離れ、広大な自然の中で自給自足の生活をする。昼間は畑を耕し、子供や犬たちと戯れ、夕食は野菜たっぷりのシチューを作って「あなた、ご飯ですよ~」なんて外へ向かって叫び、夜は暖炉の前で温かい紅茶でも飲みながら本を読む……。
「ま、そんな生活、私たちには続かないわね」で会話は終わったけれど。
ミラン・クンデラ著の「存在の耐えられない軽さ」を思い出した。以前、ジュリエット・ビノシュのことを書いたときにも記したが、この作品は彼女が主演で映画化されている。映画もすごくいいけれど、本がすばらしい。
あの二人の結末は、このうえない幸せだったのかもしれない、とも思う。
●10月1日(月):別居を始めた友人の憂鬱。アートセラピストの友人の苦しみ
ニューヨークに戻ってきた。目まぐるしい一週間になりそうだ。
友人T子と夕食。彼女は10年来過ごしてきた夫と、数カ月前から別居している。結婚直後から夫婦仲がうまくいってなく、精神的に抑圧されて来たのが、ようやく自分らしく生きられるとスタートを切った途端にこの事件。以前は郊外に夫婦で住んでいたのが、今はマンハッタンに一人住まい。
夫とやり直す気はないが、一人で暮らすのが怖いという。これから一人での生活を始めようと思った矢先、世界が変わってしまった。かなりノイローゼ気味になっていて、ニュースを追う様子も尋常ではない。彼女はガスマスクも購入した。ちなみに彼女は30代後半。
「ようやく、本当にこれから自分の人生が新しく始まると思ったのに、もう、計画もなにもかも滅茶苦茶」
「日本の母親が心配してるけど、日本に帰るつもりはない」
「日本にいた頃、わたしは、自分がずっと自分らしくいられなかった。アメリカが大好きだったのに」
「アメリカに幻滅したけど、でも日本に帰るのも、絶対にいや」
「日本で一生暮らすくらいなら、アメリカで死んだ方がまし」
感情が激しく揺れ動いていて、とめどなくしゃべり続ける彼女。心に大きな痛みを負ってしまったようで、痛々しい。
ちなみに、あの事件以来、離婚率が減って結婚するカップルが増えているという噂をよく聞く。それに犬やらネコやらのペットが売れているという話も。
世界的には平和ではないけれど、家庭的には平和的解決が成されはじめているということだろうか? 世の趨勢とは、おかしなものだ。
帰宅後、アートセラピストの友人Nさんと電話で話す。事件以来彼女と話すのは初めてのこと。心理学を専攻し、セラピスト(カウンセラー)として仕事をしている彼女。彼女いわく、私たち共通の友人で、やはり心理学を専攻している女性も、あの事件でひどく精神的ダメージを受けている。
「こんな時こそ、メンタルヘルスの仕事をする者として、わたしは誰かを救うために動かなければならなかったはずなのに、自分自身がひどい衝撃を受けていて、しばらく、どうすることもできなかった」
それでも、何かをしようと、彼女は行動を起こした。ユニオンスクエアで、人々に平和を願う絵を描いてもらい、それを持って、ワシントンDCで行われた反戦デモに参加したのだ。そのいきさつを記した彼女のエッセイを投稿エッセイのコーナーに掲載しているので、ぜひお読みいただきたい。
●10月2日(火):自分に尋ねながら眠り、目覚めた朝に。苦しい知らせと決意。
Nさんとの電話を切り、いつものようにキャンドルに灯をともし、ベッドでリラックス用のオイルマッサージを足の裏や首などに塗る。そしてしばしのメディテーション。そのあと、我が家の「八百万(やおよろず)の神コーナー」に向かって手を合わせる。
カップボードの上には、聖母マリアの絵や天使、インドのガネーシャ、チンギスハーンの母の像、イタリア・アッシジのサン・フランチェスコの額、ポルトガルの幸運の鶏、博多櫛田神社の開運厄除お札、小さな陶製の招き猫、金閣寺舎利殿お札、ピラミッド型のパワーストーンなど、なんだかんだが一堂に会しているのである。
苦しいときだけ、神頼みをしている。
周囲の雑音が激しすぎて、自分の内なる声が聞こえてこない。だから、心を穏やかにして、自分の声に耳を澄ませたいのだ。これがなかなか難しい。
最近、ようやく悪夢から開放され始めたのだが、開放されたら開放されたで、てんで訳のわからない夢を見る。竹野内豊と相思相愛になって「ああ、どうしよう、A男を裏切ってしまう」などと真剣に悩んでいる夢とか。そんな夢を見たあとの、目覚めの気分は、苦いものである。
「なんだあ。夢だったのかあ」という残念感。
わたしは、昔から、時々この手の夢を見るのだ。現実にはありえそうにない相手と恋に落ちる夢。普段は気にもとめてない有名人の場合が多いのだが、その夢を見た後は、彼がすごく身近に感じられて、テレビで見たりしてもかなりしばらくの間ドキドキが持続する。
そんなことはどうでもいい。
その朝、友人から電話があった。私たち共通の友人の、それは病の知らせだった。
「Sさんがね、癌なんだって……」
「えーっ?!」
思わず電話口で叫んだ。ジャーナリストのSさんとは、合う頻度は少ないものの、話がとてもよく合う大切な友人である。さっぱりとした性格で、努力家で、性格も優しく、本当にいい人だ。
アメリカ人の夫と二人暮らし。年齢は私と同じ36歳。あの事件の前後、とても忙しくしていたのが、10日ほど前、お腹の具合が悪いと言って病院に行ったら、子宮癌の疑いがあると言われ、その後、セカンドオピニオンをと他の病院に行ったら大腸癌だといわれ、昨日手術をしたのだという。他臓器への転移もみられた。
電話をくれた友人は、彼女と同じ職場に勤めていたのだが、つい最近まで元気だったから、全然想像もしなかったことで信じられない様子。
電話を切った後、電話でアガリクスをオーダーした。翌朝の配達便で。アガリクスが体内の免疫力を高めて、キモセラピー(抗ガン剤)の副作用を軽減することは、父だけでなく、友人知人の経験から明らかなので、買わずにはいられなかった。
癌が助かる病だと言うことは、父の経験からわかっている。とはいえ、自分と同じ歳の身近な女性が、こんな折にこんなことになるとは、なんともたまらなく、朝から考えが頭を駆けめぐり、またしても仕事に集中できない。
思えば私は3年以上、健康診断をしていない。早速、人間ドックの予約を入れる。
夕方、早めに仕事を切り上げ、アッパーウエストサイドを散歩する。ショーウインドーを眺めていても、心ここにあらず。リンカーンセンターの噴水のあたりに腰かけて、夕映えに染まるビルを眺める。
何となく、外にいたくて、ハドソンホテルのキャンドルライトが美しいバーで、赤ワインを飲む。
「はーーっ……」
今日はため息ばかりだ。
5年後、10年後のことなどわからない。わからないということが、ここ数週間の間でひどく現実的なことになってきた。こんな時勢に、自らを省みずに日々を送ることが、私にはどうしてもできない。世界が今までと違ってしまった以上、それに相応した、せめて心持ちで日々を過ごさなければ、いや過ごさずにはいられないのだ。
空きっ腹にアルコールが回って、ちょっと思考が淀んでいたが、不意にひとつの、確固たる決意が浮かび上がった。
「目先の幸せを考えよう。今は、目先の幸せのために、努力をしよう。……まずはニューヨークの家を引き払い、DCに拠点を移そう」
A男に何度も懇願されて、そのたびに大喧嘩になっても、私はニューヨークを離れないと主張してきた。結婚しても当面は、二重生活を続けるつもりでいた。でも、その主張が、なんだか、そんなに重大なことに思えなくなったのだ。
結局、私は、自分が避けたかったはずの状況、つまり、「何らかの要素に囚われ始めていた」のかもしれない。「自立した女性でい続けたい」「ニューヨークが好きだから、私はアメリカに住んでいるのだ」「ニューヨークを離れたくない」といったことに。
確かにその気持ちがあったからこそ、英語もろくにしゃべれないまま、誰一人として頼る人のいないこの街に来て、会社を起こし、自分の力でこうやって生活できるに至ったのだ。それは、我ながらたいしたものだと思う。でも、だからといって現状に拘っていては、別の可能性を遮断することにもなるかもしれない。
拘りなのか意地なのか、勇気なのか逃避なのか、わからないけれど、そんなことどうでもいい。他人がなんと言おうと、私は自分の決意を信じる。これは前へ進む一歩だと信じる。
よし。引っ越そう。そう決めた途端、次々にアイデアが浮かんでくる。住むならジョージタウン。欧州風のタウンハウスがいいか、それともアパートメントがいいだろうか。いずれにしても公園の近くにしよう。犬を飼うのもいい。飼うなら柴犬か?名前はA男が子供の頃、歴代の飼犬に付けていた名前、「スヌーピー」になるだろう。スヌーピーという名の柴犬も妙なもんだ……。
DCに二人で住むとなると、今よりずっと広くて安い家に住める。毎週どちらかが行き来していた相当な交通費も浮くし、すべて2セットあった家財道具も一本化できる。光熱費、電話代、ハウスキーパー代……。
そう考え始めると、いままで無駄なお金と時間をかけすぎていたことに思い当たる。もちろん結婚したのは数カ月前だから、それはそれで然るべき状況だったのだが、結婚前から同じような生活を何年も続けていたから、境目がはっきりしないのだ。
もちろんミューズ・パブリッシングは存続するし、クライアントの大半はニューヨークなのだから、マンハッタンへは頻繁に来るつもりだ。
たとえば1カ月に10日間、ホテル住まいをしても、今の二重生活よりも安い。
今まで考えたくなかったから考えなかったが、一度考え始めると、それはそれで楽しそうである。気分によって異なるエリアのホテルに泊まればいい。予算があるときは豪華なホテルに、逼迫しているときには安めのホテルに。
違った目でニューヨークを見られるかもしれないし、時間が限られていれば今よりずっと大切に、街と関わっていけるような気がする。
一度「これ」と決めたら迷いのない自分の性格に、我ながらほれぼれする。ここしばらくの脳裏に漂っていた薄霧が、すっと晴れたような気がした。
友の病の知らせは、私の背中を押してくれた。
●10月3日(水):教育の大切さ。Kさんをインタビュー。その後、友を訪ねて
最終号のmuse new york のテーマは教育である。巻頭のインタビューを、Kさんにお願いした。彼女はフランス人の夫との間に2人の子供を持つフォトジャーナリスト。以前書いたかと思うが、私と同じ梅光女学院大学の卒業生だということもあり、ただならぬ親近感を持たせていただいている。
あの日以来、子供たちの傷ついた様子を見、将来に関してさまざま思いをはせた挙げ句、「教育」というものが、いかに大切かを身を以て感じたと、非常にわかりやすく語ってくれた。
編集の最中にあの事件が起こり、なんだか方向性がばらついていたのが、画竜点睛を得た感じである。
muse new yorkの発行を終え、しばらくしたら、すべてのバックナンバーをホームページに掲載する予定なので、そのときにはぜひ、目を通していただきたい。
夕方、アガリクスを持ってSさんの病院へ。彼女が麻酔で寝ていることはわかっていたので、付き添いの友達にメッセージだけを残した。日本の病院に比べると、明るい病院は「病気が治りそう」な雰囲気に満ちている。
でも、医療費の高いこと、このうえない。アメリカの医療制度は本当に問題がある。お金持ちの、きちんと保険に入っている人でなければ、とてもまかなえないような医療費なのだ。ちょっとした手術でも数百万する。
彼女が入っていた保険では、今回の手術はカバーされないのだという。彼女たち夫婦は、自分たちの学費のローンを、最近ようやく払い終えたばかりだと聞いている。もう、たまらない気持ちだ。
(幸いにも手術後の経過は良好で、結局この1週間後に彼女は退院した。今後、抗ガン剤投与を始めるらしい。順調に治ってくれることを祈るばかりだ)
●10月4日(木):エジプト人に嫁ぎ、イスラム教に改宗した知人からの手紙
ブルックリンに住む知人から手紙が届いた。日本人である彼女は結婚を機に夫の宗教であるイスラム教に改宗、二人の子供がいる。あの事件以来、イスラム教徒たちは差別や迫害を受け始めている。ブッシュがいくら「一般のイスラム教徒とテロリストたちは無関係だ」と訴えたところで、あまり効果はないようだ。
差別の対象が、黒人やヒスパニックから、アラブ人へと移行しているという話も聞く。
彼女からの手紙はかなり過激な論調だったので、すべてを掲載することはできないが、彼女自身が何らかの媒体に紹介して欲しいと望んでいるので、投稿エッセイのコーナーに掲載する予定。これも近々アップロードするので、ご覧いただければと思う。
●10月5日(金):子供の様子に母も混乱する。あの日の映像が残した傷跡
仕事の打ち合わせで、R子とランチ。ミッドタウンの初花という寿司屋で、ちょっと豪華な寿司ランチ。R子は精神的に疲れているようで、あまり元気がなかった。
あの日、R子は、一日中テレビを追っていた。彼女と一緒に過ごしていた2歳の息子もまた、同じように画面を眺めていた。
数日後、外出中、ビルを見た息子は「ひこーき! ひこーき!」と言うようになった。
さらに今週に入ってから毎日のように、今度は「ひこーき! ドーン! キャー!」という言葉を、一日に何度も何度も20回近く、繰り返すようになったという。
「ひこーきは、ドーンじゃないでしょ」
何度言い聞かせても同じ台詞を繰り返す息子に、彼女自身が滅入ってしまっているようだ。
そんな映像を見せたのはまずかったよ、と言うのは簡単だが、あの日、イーストヴィレッジという現場に近い場所に住んでいながら、テレビを見ないでいることなどできなかったはずだし、子供をそばにおいておきたかった気持ちもよくわかる。
マンハッタンが大好きで、夫が静かなところに住みたがっていたのを、彼女の好きなダウンタウンを好んで暮らしていたらしいが、今、郊外への引っ越しを考えているらしい。気持ちが落ち着かないというのだ。
彼女のような人が、マンハッタンにはたくさんいる。郊外へ引っ越さないまでも、ロウアーマンハッタンからの引っ越しを余儀なくされている人たちも多いわけで、彼らはアップタウンの物件を見に来るから、うちのビルも、このところ頻繁に部屋を見に来る人たちに出会う。間取り図を手に持っているからすぐにわかるのだ。
そんなわたしも、この街を出る。
一度決めたことだが、ときおり、胸を締め付けられるような寂しさに襲われる。でも、その寂しさを、無理矢理にでも、かき消す。
●10月6日(土):人々の僕を見る目が、なんだか違うんだよ。グランド・ゼロへ
あの日以来、初めてA男がマンハッタンに来た。金曜の夜に到着した彼と、近所のイタリアンで遅い夕食を取る。彼がいると、一人の時には張りつめていた気持ちが、すこしばかり緩む。
ニューヨークはエネルギッシュな人たちが多い。自分自身の夢を切り開こうと訪れる人、仕事に情熱を注ぐ人……。けれど、多くの「強かったはずの人たち」が、弱くなっている。それが、色々な人たちの話から、自分の経験から、さまざまな角度から感じられる。
翌日、A男が髪を切りたいと言うので、いきつけの日本人が経営するヘアサロンへ行く。土曜日、彼と一緒にこのサロンへは何度も来たことがあるのだが、これほど閑散としているのは初めてだった。
いつもなら、郊外に住む駐在員夫人が週末やって来るから、ひどく賑やかなのに、今日はガランとしている。暇をもてあましていたネイル担当の女性に声をかけられ、彼の散髪を待つ間、マニキュアを塗ってもらうことにした。
あれから、マニキュアを塗るのは初めてのことだ。そんなこと、考えつきもしなかった。ネイル担当の彼女は、コリアタウンにあるネイルアートのスクールに通っているのだという。ついつい話題はあの日のことになってしまう。
さっぱりと髪を整えたA男と、美しい爪になった私は、五番街を歩く。A男がぽつりと言う。
「ねえ、ミホ。なんだか僕、人からじろじろ見られている気がするんだけど。人々の僕を見る目が、なんだか違うんだよ」
そういう人の視線には人一倍鈍感な癖に、何言ってるのよ! と思いつつ、
「ねえ、ちょっと今少し、悲劇のヒーローぶってるでしょ。ホントにそう感じてるわけ?」
と言うと、「ちょっと意識しすぎたかも」と、笑っている。彼の発言の背景には、彼の知人のこんな話があった。シリコンバレーのカンファレンスで、彼の友人であるインド人を、アラブ人と誤解したアメリカ人が、自己紹介のときに握手するのを避けたというのだ。
この手の話はあれ以来よく聞く。褐色の肌の、濃い顔をしている人種は、警察官にじろじろ見られる、人が笑顔を返さない、などなど。もちろん、もっと具体的な差別を受けている人たちも大勢いるのだ。
現に私だって、飛行機にアラブ系の人が乗っていたら、必要以上に見てしまうかもしれない。いや、見るに違いない。ああ、なんて世の中なんだ。
ショーウインドーを眺めながら歩く。いつもなら、バナナ・リパブリックや、ブルックス・ブラザーズや、ケニス・コールの前を通るたび、「ミホ、ちょっと入ろう」といって、シャツなどを買いたがる彼もまた、今日は物欲が沸き起こらない様子で、二人とも店内に入らない。それにしても、星条旗、星条旗、星条旗……。
お腹が空いたので、コリアタウンへ行き、豆腐料理がおいしいレストランでランチを取った後、同じくコリアタウンで行きつけの眼鏡屋で私はコンタクトレンズを、彼は新しいめがねを買う。32丁目(5番街とブロードウェイの間)にある「フレンチ・オプティカル」という店。ちなみにここははおすすめの店だ。とても感じのいい姉弟が経営する店で、品質が高い上に他の店よりも安い。おまけ(コンタクトレンズの保存液など)もたくさんくれる。
その後、更に五番街を南下する。フラットアイアンビルを過ぎたあたりで「あのあたりがワールドトレードセンターのあった場所だよ」と、A男に教える。A男は信じがたいほど方向音痴かつ土地勘がなので、念のため、教えたのだ。
「ねえ、グランド・ゼロに行ってみる?」
そういう彼に、「私は絶対にいやだ」とその時は言った。だいたい、ユニオンスクエアのシアターで、映画を観る予定だったじゃないの。
そしてしばらく歩き、ユニオンスクエアで人々の寄せ書きなどを見、しばらくして、もう一度、A男が言う。
「グランド・ゼロに行くのと、映画を観るの、どっちがいい?」
なんだか、その時、「見ておいたほうがいい」という気持ちが突然沸き起こった。「行こう」といってA男の手を引き、地下鉄に乗る。
地下鉄はキャナル・ストリートを最後に、ロウアー・マンハッタンの駅を通過してブルックリンに入るようになっていた。キャナル・ストリートからは歩くしかないようだ。
チャイナタウンの中央を東西に横たわるキャナル・ストリートから、ブロードウェイを南に歩く。ブルックリンブリッジへ向かう車両以外は規制されているから、交通量が驚くほど少ない。開いている店も少なく、歩いているのは、グランド・ゼロを見に行く「観光客」の姿だけ。
夕方のせいもあり、あたりの空気は重く暗く、街が死んだように静まりかえっている。
南下するほどに焦げ臭い匂いが漂ってくる。最初から来るつもりであればマスクを持ってきたのだが、そうではなかったから私は持っていた大判のハンカチで鼻と口を覆う。A男は、通り沿いにあったマクドナルドに入り、ナプキンを取ってきて代用する。
現場から1ブロック離れた南北に走るブロードウェイから、東西に走るストリート越しに現場を見る。
最初のストリートからは瓦礫の山が、次のストリートからは、焼けこげたビルの低階が、次のストリートからは、ぐにゃりと曲がったビルの残骸や壁面が……。
もう、勝手に涙がどんどん流れてきて、どうしようもできない。今、この目で、自分の目で眺めているのに、なんだか現実のこととは、思えないのだ。その残骸ですらも、工事のためにライトアップされた様子が、まるで映画の撮影現場のような雰囲気を漂わせているのだ。
でも、これは現実。これは現実。
時折、観光客の撮るカメラのフラッシュが光る。
背後から日本人の若い男たちの声が聞こえてきた。
「わぁ~、これ、やばいっしょ! うわあ、やばいっしょ!」
そのカジュアルな声に、思わず彼らを張り倒したくなった。
ニューヨーカーの多くは、多分、ここへ足を運ぶ気にはならないだろう。私は自分が見ておきたかったと言うよりも、A男に見ておいてほしかった。彼も相当のショックを受けているようで、「これは地獄だ。地獄だ」とつぶやいていた。
髪の毛にも衣服にも、焦げ臭い匂いが染みつく。5000人もの人たちが、ここに埋まっているのかと思うと、たまらない気持ちになる。
近所のデリで塩を買う。そして、現場から数ブロック離れたところで、自分とA男に塩をふりかける。そんなことでもしなければ、両肩が重く、気持ちが鉛のように沈み、どうしようもできなかったのだ。
「なんで塩なんかまくの? また、ミホは変なことをする」とA男はぶつぶつ言っているが「塩は浄化する力があるの! これは万国共通の行いなの! 黙ってなさい!」などと、訳の分からないことを断言し、塩を撒きまくる。
ソーホーまで歩き、なぜかわからないが二人で靴屋にはいり、おそろいでティンバーランドのウォーキングシューズを買い、その場で新しい靴に履き替えた。
イーストヴィレッジにあるロシアン・バー「プラウダ」へ。地下にある雰囲気のいい店で、ソファーの具合もライトの具合もほどよくて落ち着く。メニューにはウォッカがずらりとリストアップされていて、なにがなんやらわからなかったが、ウォッカベースのマティーニ(オリーブ入り)をオーダー。メニューにはキャビアやイクラもあった。
ほどよく酔いが回わり、沈んだ気持ちが少し回復したところで、新しくできた日本料理店「えびす」へ行く。ウォッカで酔っているうえに、日本酒を飲んでしまい、かなり頭がぼんやりしたものの、おいしい料理を食べて、比較的元気に帰宅した。
●10月7日(日):知人の結婚式にて。あの朝、寝ている間に歯を折ったS氏の話
午後1時頃に始まる友人の結婚式のため、A男と私は12時過ぎに家を出た。教会での式の後、小さなレストランでレセプション。ちょうどそのころ、アメリカによるアフガンへの攻撃が開始されていた。そんなことを知らず、祝杯をあげていた私たち。
テーブルの隣の席は、ニューヨークで発行されている日系誌の営業をしているG氏が座っていた。彼とは顔見知りで、何度か話をしたこともあったが、そんなに深い話をしたことはなかった。
彼は現在の仕事に就く前、駐在員として渡米し、ワールドトレードセンターに勤務していた。前回、爆発事件があったとき、現場にいて、爆発による振動で数メートル吹き飛ばされたのだという。
9月11日の午前3時頃、彼は激痛で目が覚めた。寝ている間に、自分の歯を折ってしまったというのだ。通常は上の歯が前に出ているところが、下の歯の後ろ側に入り、グッと押し出した状態で下の歯を折ってしまったという。
そんなこと、あり得るの? とびっくりするが、彼自身も痛みと驚きでたいへんだったらしい。
そしてその数時間後、あの事件。彼は昔の同僚を二人、亡くしたという。
あの朝、子供たちが無性に泣いて、父親や母親の出勤を引き留めたという話をあちこちで聞いた。虫の知らせというものは、必ずあるのだと思う。
Gさんと話していて、今回の事件に対してとても真摯に受け止めていて、思いやりのある真面目な目で物事を捉えている様子に、とても心を打たれた。日系社会に詳しく、「飲み屋関係」のネットワークも広く強く、顔の広いGさん。しかしあれ以来、とても飲みに行って騒ぐ気持ちにはなれないと言う。
ついに戦争が始まったが、ここは相変わらず、星条旗がなければ、見分けがつかない風景。以前、映画「パールハーバー」のことを書いたとき、当時のアメリカの豊かさに驚いた、と記したが、結局、そうなのだ。
確かにテロでやられたけれど、ここは戦場ではない。だから、せめて星条旗があって、それを見て戦争を認識し、沈鬱になるくらいのことは、すべきなのだ。だって、この国が、戦争をしているのだから。確かに日々の生活は大切。だけれど、いつもと変わらぬ陽気さでいる必要は全くないし、そんな状況は戦争ではない。
皆が、この痛みを抱えるべきなのだ。少なくとも、攻撃が終わるまでは。
●10月8日(月):怖いほどに静かな一日。コロンバスデー
戦争が始まった翌日。A男は今朝、DCに戻っていった。今日はコロンバスデー。パレードの行われている五番街は別としても、部屋から見下ろす風景は、ひどく静まりかえっている。通りを行き交う車もまばら、人影も少ない。
部屋から見えるいくつもの高層アパートメントの窓という窓を眺める。それぞれに、それぞれの思いを抱えた人たちが、この一日、静かに家で過ごしているのだろうか。
私は、外に一歩も出ることなく、ひたすら原稿を書いていた。
●10月10日(水):女優志望の友人、ファッション業界の友人と語り合う夜
女優志望の友人Mと、かつてコムデ・ギャルソンの店長だったKが遊びに来た。外食よりもうちで食事をしたほうがリラックスできるからと、ワインや食べ物を用意する。
Kは息子を連れてやって来た。生まれたてのときにあって以来だったのが、もう1歳7カ月。彼女は彼を毎日職場に連れて行き、オフィスのナニーに預けている。その彼女が、他のナニー仲間と散歩に出かけたりするから、息子はとても社交的。笑顔がかわいらしく、私にも抱きついてきたかと思うと、いきなり胸をつかむ。「おいおい、なんてガキだ」「はやくもセクハラおやじか」などと皆で笑いつつ、彼の屈託がない笑顔に気分がなごむ。
なごむとはいえ、Mは随分、疲れ切っていた。彼女の母は、あの朝11時に到着する全日空便でニューヨークに向かっていた。ところが急に進路を変更し、デトロイトに到着。彼女は心配で心配で、狂ったように何度も何度も全日空に電話をするがつながらない。
結局、夜中の2時に、母親たち乗客が宿泊しているホテルに連絡が取れ、母親と話をする。ほとんどの乗客が、数日デトロイトに足止めされ帰国したのだが、彼女の母親は、数名のビジネス客がニューヨークまでバンをチャーターして来るというのに便乗し、なんと翌日、ニューヨークに来たのだという。マンハッタンのホテルで解散することになっているから、ブルックリンに住んでいる彼女は、母親を迎えに行かねばならない。
交通手段もなく、やっとの思いで迎えに行くも、母親は驚くほど元気。
「おみやげの日本酒が重かったから、持って帰るのいややったんやぁ」と母。
「自分の母親ながら、あの人、なんにもわかってなくて、もう信じられなかった」と吐き捨てる彼女。
事件を自分のことのように受け止め、できることならボランティアに参加したかった。遺体の整理でもなんでもいい、自分にできることならなんだっていいから、やりたかった。なのに、母親ときたら、観光のことばかり気にかけている。訳が分からない。
「今ね、マンハッタンで、5000人もの人が行方不明になってるんだよ。私はね、いても立ってもいられない気持ちなの!」
そんな言葉を何度繰り返しても、暖簾に腕押し状態。あまりにもしつこく母にせがまれ、飛行機が運航を再開した直後、二人は観光にカナダへ出かけた。150人乗りの飛行機に、7人しか乗っていなかったという。
結局、母親とは2週間の間、毎日のようにけんかをし、ストレスがたまりにたまって、今、ひどく体調を崩しているのだ。
「もう、女優の仕事も、なにもかも、どうでもよくなってしまった。今までやってきたことが、なんだったのかわからなくなってきた。しばらく日本に帰ろうかと思う」
彼女がひたすら痛々しかった。普段はよく飲む3人が、5時間も語り合っていたのにワインを1本半、空けたきり。
一方、Kはソーホーのオフィスに働いていて、爆音を耳にし、燃え上がるビルを目の当たりにしつつも、毎日通勤し、子供の世話に追われていて、もちろん心に痛みを負っているけれど、沈み込んでいる余裕はないという様子。「今すぐにやらねばならないこと」が目前にある人の方が、こういう時、救われるのかもしれない。
●10月11日(木):人間ドックへ。とりあえずは健康管理から
朝、日系の病院へ行く。3年ぶりの健康診断だ。レントゲンや血液検査など一般的な健康診断と婦人科検診。当日結果が出たものはすべて良好だった。どんなに忙しくても、きちんと食事を取り、睡眠をとり、適度な運動もしているから、問題はないとは思っていたものの、検査をしておくに越したことはない。
●10月12日(金):列車で隣り合わせた穏やかなアメリカ人男性との会話
午前中に仕事を片づけ、移民法弁護士のオフィスへ。私の就労ビザがあと1年で切れるため、違うステイタスのビザを申請するべく相談に行ったのだ。経費は数千ドル。作業にも半年はかかりそうだ。グリーンカードがとれたなら、どれだけ心おきなくこの国で生活と仕事ができることか。本当にこればかりは、色々な条件が必要だから、自分の努力ではどうにもならない。辛いところだ。
弁護士事務所を出て、その足でペンステーションへ。週末をDCで過ごすために。駅は今まで見たこともないくらいに込み合っていた。飛行機を使う人がいないせいで、列車の本数が増えたにも関わらず、どの列車も満席。あらかじめ予約を入れておいた割高の列車に乗る。普段なら普通車でも席を確保できるのだが、とても座れそうになかったからだ。
隣に座っていた若い男性が話しかけてきた。私が読んでいた、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」を見て、「それはいい本だよね」と声をかけてきたのだ。
私も私で、彼が読んでいた「白雪姫と七人のこびと」の美術書が気になっていた。「白雪姫と七人のこびと」は、最近DVD用にリメイクされたのを、この間ビデオショップのモニターで「立ち見」したのだけれど、それはそれはすばらしかった。その美術書には、最初のアニメーションのデッサンなどがいくつもあった。
彼もライターで、現在、プロジェクトで「白雪姫と七人のこびと」に関する文章を書いているとのこと。温厚そうな白人男性で、口調がとても穏やかだ。
彼は妻と二人でマンハッタンに暮らしていたのだが、あの事件以来、妻がナーバスになってしまい、バルティモアの実家に帰っているらしい。よって彼は週末ごとにバルティモアへ行く生活を始めたばかりだとか。
あの事件のことを、ひどく沈んだ口調で話し始める。
「あのビルは、ミノル・ヤマサキっていう日系人が設計したんだけど、知ってる?」と、私が尋ねる。
「いや、知らない」
「彼はね、あのビルが完成したときに、こんなコメントを発表していたんですって。エンパイアステートビルやロックフェラーセンターや、クライスラービルなんていうのは、いかにもアメリカンスピリットの象徴って感じで、外国人には入りにくいムードがあった。でも、ワールドトレードセンターは、誰もが入りやすい、開放的なビルにしたかったんだ。世界中の人たちが気安く出入りできる、まさに世界貿易センターと呼ぶにふさわしいような場所に。ここを世界の平和のシンボルのような存在にしたいのだ。って」
「彼はまだ生きてるの?」
「ううん。もう亡くなってる」
「そうか。よかった。もしも彼が生きていたら、どんなに辛いことかと思ってね」
「本当にね……」
「この件で、僕もそうだけど、たくさんの人たちが沈み込んでる。だって、こんな経験をしたの、生まれて初めてのことなんだもの。本当に、なんていっていいのかわからない。でもね、僕の兄はドクターなんだけど、彼はとても楽観的なんだ。このことで、世界中の多くの人たちが、戦争と平和についてしっかりと考えることによって、争いが減って、人々の愛情が強まるんじゃないかって……」
彼のいわんとすることはわからないでもないけれど。そんな一筋縄ではいかないさまざまなマイナスの感情が、世界のそこここに漂っているのだ。
あれこれと話し込んでいるうちに、バルティモアに到着し、彼は大急ぎで列車を降りた。名前を交わすこともなく。
●10月15日(月):チベット料理を食べる夜:ピーナッツバターのことなど
週末はひたすら仕事。合間に映画を観たりビデオを見たりするが、何となくストレスが溜まっているのがわかる。
月曜日、マンハッタンに戻り、急ぎの仕事を片づけ、夜はT子とチベット料理の店「チベタン・キッチン」へ。小籠包のような前菜と、豆腐と野菜の炒め物、ラムカレーなどを食べる。あっさりした味付けでお腹にやさしい料理だ。
T子はいまだ混乱の極み。炭疽菌にもナーバスになっていて、薬を買いたいと言っている。体調も悪いようで、気分も滅入っているのだろう。
炭疽菌については、なぜ、人々があんなにも大騒ぎするのか、私にはよくわからない。確かにテロの一環だと思うと怖いけれど。
パニックになっては彼らの思うつぼだとも思うのだが……。
それにしても、数日前の新聞。アフガニスタンへの空爆を開始したと同時に、米軍は食料もまき散らしているようだが、そのメニューをご存じだろうか。宗教のことを配慮して肉類は入っていないのは当然だが、クラッカーのようなものにつけるためにか、「ピーナッツバター」や「ストロベリージャム」が入っているのだ。
ピーナッツバター……。アメリカ人の大好きな食べ物。確かにカロリーも高く栄養価も高いのかもしれないが、アフガニスタンの人たちにピーナッツバター……って。アメリカってどこまでもアメリカなのね。と思うと、おかしいような悲しいような、なんともいえない気持ちになった。
●10月19日(水):本当は家族4人で見るはずだったオペラを一人で見る。
本当なら、本当ならば、今頃、両親と妹を引き連れて、秋のマンハッタンを満喫しているところだった。
オペラのチケットが4枚。友人の友人で、行きたいという人がいたので半額で2枚お売りする。残りの一枚は、開演間際まで入り口で「ダフ屋もどき」をやろうと思ったのだが、ぎりぎりまで打ち合わせがあり、開演10分前に到着。
それでも5分くらいは立っていようとチケットを掲げていると、本物のダフ屋がやってきて「いくらで売るか?」というから、「いくらで買うの?」と聞けば、
「20ドル」だという。「これは85ドルだからせめて40ドル!」と言ったものの、向こうも譲らないし、どうせ諦めていたんだからいいや、と思い彼に売った。
しばらくして老婦人が隣の席にやってきた。
「そのチケット、いくらで買った?」と聞きたくてたまらなかったが、なんだか失礼な気もして、我慢した。
演目は「ラ・ボエーム」。1850年代のパリの下町を舞台に展開する、悲恋の物語。二幕目の、パリの下町の、クリスマスを想定した舞台設定が、驚くほどにリアルですばらしく、舞台の隅々を歩き回りたくなる衝動に駆られた。
家族に見せたかったという思いが募る。
●10月18日(木):エンパイアステートビルにオフィスを持つ日本人弁護士と夕食
弁護士のKさんと夕食。彼女もアッパーウエストに住んでいるので、近所のトルコ料理店「PASHA」に行った。私は近所にも関わらず行ったことのない店なのだが、雰囲気がとてもいい。
ラム料理がおいしいということで、またもやラムのカレー風煮込みを食べる。これがまたおいしい。初めて飲むトルコ産のワインも、喉ごしがよくておいしかった。
以前にも書いたかと思うが、Kさんは多分40代後半の女性で、結婚にはまったく興味がなく、独身生活を楽しんできた人だ。
そんな彼女も、あの事件以来、様子が変わった。
「やっぱり、こんなとき、一番大切なものって家族かしら、って思うのよね。何だか外食に出かける気もしないし、レストランも以前に比べると人が減ってる気がするし。おいしいものを食べに行こうという熱意がなくなったのね、最近。家族のある人は、家庭で食事をする機会が増えているんじゃないかしら」
離婚調停も手がける彼女。最近、確かに離婚のケースが減少しているようだという。それにしてもエンパイアステートビルは彼女の勤務先。避難騒ぎなどが立て続けにあって、働いている人も気が休まらないようだ。
「私の友人はアメリカ人ばかりなんだけど、本当にみんなダメージを受けてるわよ。今日も同じフロアの弁護士が、どうしても、今日は落ち込んで、仕事をする気にならないってぼやいてたし」
彼女自身は、あの日以来、テレビをシャットアウトして、メディアからの情報を自ら避けたという。だから、精神的なダメージが、まだ浅いのだともいう。それでも、明らかに、これまでの彼女の様子とは違った。彼女もまた体調が悪いらしく、朝起きると手がむくんで握れなかったり、動悸がすると言う。検査の結果、特に悪いところはなかったらしいが、きっとストレスなのだろうと認めていた。
別れ際、お互い手を握りあって、「また食事をしましょうね」と約束した。日本人同士では、抱き合ったり手を握りあったりすることは、滅多になかったのに、なぜかそうせずにはいられなかった。誰もいない部屋に帰る私たちは……。
-------------------------------------
★高層ビルという存在:マンハッタンと似ていたイタリアのサンジミニャーノ
人は昔から昔から、高い建築物を権威や繁栄の象徴とみなしてきた。
新約聖書の創世記11章にあるバベルの塔の話を知っている人は多いと思う。ノアの箱船で生き延びた子孫たちは、街の中心に、天まで届くほどの高い高い塔を造ろうとする。建物はやがて完成に近づいたところ、人間の奢りを見抜いた神が、彼らから共通言語を奪い、混乱に陥れ、バベルの塔は、天に届かぬままに、建築が終わる。
イタリアのトスカーナ地方には、小高い丘の上の城塞の街がいくつも点在している。
サンジミニャーノもそのひとつ。かつて富の象徴として、競って高く造られた塔が14本、今でも残っている。14世紀~15世紀の全盛期には、その小さな街に72本もの塔がひしめいていたという。
当時の絵をどこかで見たのだが、それはマンハッタンによく似ていた。いや、現在の姿ですら、遠くから眺めるその街のシルエットは、摩天楼をイメージさせる。なぜなら塔のほとんどが、ワールドトレードセンターと同じく、シンプルな四角柱なのである。そしてその光景は、無性に人の心を引きつける。
繁栄の象徴としての摩天楼は、衰退とともに、やがては崩れ去らねばならないのか?
500年先のことなど、今を生きる私たちには知る由もない。
以前も書いたが、私が住むビルでは以前火災があり、非常階段で避難しようとしていた上階の4人が、煙に巻かれて亡くなった。私の部屋の斜め上、19階が火元だったが、はしご車はすでに届かない。亡くなった人は、40階あたりから階段を駆け下りてきたのだった。
消防士の友人を持つ友人の話によると、万一の時に救助できるのは、せいぜい10階までだという。想像に難くないコメントだが、あらためてこの事件が起こってみると、どれほど危険と背中合わせに生活しているかがわかる。
マンハッタンは摩天楼が美しい街だ。繁栄の象徴だけとしてだけでなく、人間が造り得た、人工美の調和もそこにはあると感じている。しかし、あのような悲劇が起こると、そのはかなさに、愕然とするばかりだ。
⑧2001年11月6日発行のメールマガジン
一昨日からボストンに来ています。A男の出張(カンファレンスへの参加)についてきたのです。4泊5日の滞在です。休暇を兼ねてのんびりと過ごそうと思っています。朝から「作家大先生」の如く、ゴージャスなホテルの一室でノートブックに向かうひととき。かなり幸せな気分です。
では、先々週からの出来事から、記録しておきたい出来事を綴ってみるとします。
●10月26日(金)~:メリーランド州の国立公園にあるリゾートで過ごす週末
金曜の夜から2泊3日で、メリーランド州にあるロッキーギャップ国立公園に行った。すばらしい彩りに紅葉した木々に囲まれるように湖がたたずみ、その湖畔にはゴルフ場とロッジ(ホテル)がある。
私は、ただのんびりと静かな大自然の中に身を置きたかったので、ボート遊びやトレッキングなどができるこの場所を選んだ。
この週、日本の情報誌の取材で、毎日のようにDCの町中を歩いていた。ジャケットもいらず、長袖のシャツを着ていると汗ばむくらいに毎日暑かった。半袖でもいいくらいの陽気だった。ところが、金曜になって急に気温が下がり、まるで晩秋のような寒さになってしまった。
夕方早めに帰宅したA男と、5時過ぎに家を出る。夜、部屋で飲むためのワインや、翌朝寝過ごして朝食を食べ損ねた時のためのフルーツなどを車のトランクに詰め込んで……。
夕暮れのハイウェイを北西に向かって走る。山間のドライブルートは見事な紅葉に包まれていた。
8時頃、湖畔のロッジに到着。ロビーの暖炉には灯がともり、すっかり冬の風情が漂っている。おなかが空いた私たちは、チェックインをすませるやレストランへ向かう。
金曜の夜だけ「シーフードビュッフェ」というのをやっていて、大人25ドルで食べ放題というメニューがあった。カキフライ、エビのグリル、白身魚のフライ、サーモンのソテー……そして山のように盛られたズワイカニ。田舎のホテルのレストランだから、料理は少しも期待していなかったのだが、凝った調理の必要がなく「蒸されただけ」のズサイカニが一番おいしかった。
木製のハンマーで、カニの足をコンコンと叩いて砕き、身を取り出して食べる。私もA男もすっかり黙り込み、ひたすら食に集中した。私たちって、おいしいものを与えられるとひとまず心身共に満たされるから幸せ者だ。車中の大バトルも忘れ、食に熱中する。
大バトル……。A男の危険な(鈍くさい)運転に、しばしば私が叫び声を上げるため、私たちのドライブ時には、喧嘩は付きものなのだ。ならば私が運転すればいいと言われそうだが、それはそれで地図が苦手なA男にナビゲーターを頼むと、とんでもないところへたどり着くから、別のタイプの大喧嘩になるのである。A男には悪いが事実だから仕方ない。
さて、翌朝は、あらかじめ予約を入れていたスパへ。初体験の「ストーン・マッサージ」を受ける。温められた丸みのある石で、オイルを塗った身体の表面をマッサージしてもらうのだが、そのほどよい温かさと石の質感が、なんとも気持ちいい。
セントラルパークには、古生代からの巨大な岩石が転がっていて、天気のいい日など太陽の熱で温まった石の上に寝転ぶと、固いにも関わらずものすごく気持ちいいのだが、それに似た感覚だ。すごくリラックスさせられる。
マッサージのあと、しばし部屋で休憩し、二人で湖畔を散策する。かさかさと鳴る落ち葉を踏みしめながらゆっくりと歩く。足下にはどんぐりがいっぱい転がっている。
「先週は夏みたいに暖かだったのに、今日は冬のようね」
擦れ違ったホテルのスタッフが、肩をすくめながら言う。
風が冷たくて、ボート遊びどころではない。
冷たく澄んだ空気は、頭の中をすっきりさせてくれて、それはそれで気持ちがいい。何より青空に映える紅葉の彩りが何とも美しい。
ロッジに戻り、レストランでランチを食べたが、夕べの食事に比べると格段にまずい。素材の質や取り合わせは悪くないのに調理が下手な料理だから非常にもったいない。ランチ担当の調理人が未熟者なのか。
いずれにせよ、ホテル近辺で食事が出来るのはこのレストランが唯一。まずい上に値段も高いから、これでは今夜が思いやられる。夕食は自分たちで用意しようと、車で近所のスーパーマーケットへ行くことにした。
スーパーマーケットでは、なぜかわからないが、ワインがすごく安かった。メリーランド州は酒税が安いのだろうか。ニューヨークやDC周辺の2割から3割安。それを発見したA男は、「ミホ、買いだめしようよ」と賢い主婦の如く提案。
ベルギー産のストロベリーやチェリーのビールも安い。甘酸っぱくてとてもおいしいビールなのだ。ワインとビール、思いがけず大量に買い込んでしまう。
フルーツやチーズ、普段はデブ予防のために買わないスナック菓子なども買い、ロッジへ。それぞれベッドに横たわり、それぞれに本を読み、ワインを飲み、ポテトチップなどをバリバリ食べ、だらだらと過ごしているうちに、二人とも寝入ってしまう。
目が覚めたら夜の8時を回っていた。軽く3時間は寝ていた模様。シャワーを浴びて軽くフルーツを食べ、「あんなに寝たから寝られないかもね」といいつつ、11時頃には再びベッドに入り、二人ともあっという間に寝付いた。
翌朝、目を覚まして時計を見ると10時。よく寝たもんだ。しかもこの日から夏時間が終わるので、実際には9時だ。時計を巻き戻し、1時間得した私たちは、ノロノロと朝食を取り、本の続きを読み、午後になってロッジを離れた。
たっぷりと安らかに眠られるって、とても幸せなこと。
●10月30日(火):muse new york 郊外デリバリーの一日
月曜日にDCからNYに戻ってきた。muse new yorkの最終号が、印刷所から届いていた。なかなかいい出来だ。表紙も今までとはレイアウトを変え、全面写真にしている。とてもいい感じだと思う。
朝、レンタカーをピックアップし、トランクに段ボールを詰め込んで、郊外へ配達へ。2年余りの間、これで9回目の郊外配達ドライブ。ハドソン川沿いを北に走りながら、この短いような長いような、2年余りの月日を振り返ってみる。
「よく続けたよな」という気持ちと、「何やってたんだろ」という気持ちと。結局、「どうしたい」という具体的なビジョンのないものは、具体的な何かにたどりつけないまま終わってしまう。muse new yorkは、どこにもたどりつかないまま、パタリと幕を閉じた。良くも悪くも。
◎R子の新居を訪問。庭で運動会ができそうなほど広い400坪の敷地
配達の途中、ニューヨーク州ウエストチェスター郡のホワイトプレーンズという街で、R子一家と待ち合わせ、モール内の日本料理店でランチを取る。R子一家は数日前、イーストヴィレッジのアパートメントからこの近所の一軒家に引っ越してきたのだ。
事件以来、R子はひどく消耗している。ヴィレッジでの生活がどうにも落ち着かなかったらしい。小さい子供もいるし、少しでもリラックスできる場所に引っ越したかったのだ。
ランチのあと、彼らの家に立ち寄った。樹齢何百年もありそうな大きな木に守られるように立つ角地の一軒家。2階建てプラス地下室もある。裏には広々とした庭。ここにも「木立ち」があり、芝生の上に黄色や茶色の枯れ葉がつもっている。
敷地面積は約400坪だとか。なんだか笑いがこみあげるほど広い。マンハッタンに住んでいると、比較的日本的な尺度で家屋のスペースを捉えるけれど、このような広さの居住空間が、本来の「アメリカンライフ」なのだ。
郊外に住む人たちが「マンハッタンは人間の住む場所じゃない」などと言う理由が、こういう所に来るとわかる気がする。
郊外にある「Home Depot」などのホームセンターに行くと、自分たちで「家造り」をする材料が、ぴんからきりまで揃っている。木材などの材料はもちろん、浴槽にキッチン、ドアや窓枠といった大物がゴロゴロと展示されているわけで、そういうところにアメリカの「開拓者精神」を垣間見たりもできるのだ。
それにしても彼らの住まいは広かった。表面張力を突破しそうな自分の部屋が、本当に息苦しく感じられてくる。
2歳になったばかりの息子が、「庭の片隅」で、同じ場所をぐるぐると駆け回っていた。
「まだ広いところを駆け回るのに慣れてないのよ」と苦笑するR子。
そのうち、この広々とした庭一杯を我がものに、彼は走り回りながら育っていくのだろう。
かなりハウスシチューのコマーシャル的なR子の近況だった。
◎日系食料品店「ミツワ」でのお買い物も、これが最後か
ウエストチェスターの配達を終え、ニュージャージー州へ向かうべく、ジョージワシントン・ブリッジを通過する。2階層になっているこの橋、トラックは上階を使用せよとのサインが表示されている。
テロのあった直後、橋で爆弾が発見されていたらしく、また主要ルートとして狙われる可能性の高いこの橋。危険物を積載したトラックが爆発した万一の場合を想定して、ダメージを軽減するために上階を走らせているという。
配達先の顔なじみになった店主らに、「これで最後なんです」といいながら配達する。なんとなく、しみじみとした気持ち。
そして配達を終えた夕暮れ時、配達後の恒例として日系食料品店「ミツワ」へ行く。このスーパーマーケットへ向かう途中、Edgewater Rd.という道を西から東へ走るのだが、小高い丘からマンハッタンが一望できる、すばらしいビューポイントがある。私はここからマンハッタンを眺めるのが好きだった。時には車を停めて休憩を兼ね、その風景を眺めたものだ。
この、最後の配達で、秋の夕陽を浴びながら輝く摩天楼を、あったはずのものが欠けた風景を見るのは、ひどく辛いものだった。いろいろと考えたくなくて、スーパーマーケットへ急いだ。
新鮮なサーモンやカレイ、サバなどの魚介類、地鶏にしゃぶしゃぶ用牛肉、味噌、醤油、キューピーマヨネーズ(アメリカのマヨネーズは締まりのない味だから苦手なのだ)などの調味料などをカートに放り込む。
お菓子売場を歩いていると、またもや今度は怪しげなアメリカ人に声をかけられる。前回は刺身のつまを作りたいと訴える大根を抱えたラテン系の中年男性だったが、今回はデブな白人の老夫婦だ。彼ら、まだ支払いを終わっていないチョコレートのポッキーを食べながら買い物している。
アメリカ人って、これ、よくやるんです。スーパーマーケット内で支払ってないものを食べながら買い物し、空箱や空の包みをレジに出して支払うという、日本人には信じがたい行動を。子供なら、いや子供にだってそんな行儀の悪いことさせるのはどうかと思うが、大人がこれだから。ぎょっとさせられる。
さて、その老夫婦の妻の方が、ポッキーのチョコレートの匂いをプンプンさせながら近寄ってくる。
「ねえ、ちょっとお尋ねしたいんだけど、このスナック、おいしい?」
そう言いつつ、カッパえびせんの「バーベキュー味」を指さした。カルビーのカッパえびせんはアメリカ国内でも製造されていて、パッケージも英語表記のものがあるのだ。日系食料品店だけでなく、コリアンやチャイニーズ系の店でも販売されている。
「わたしはプレーンのカッパえびせんの方が好き。バーベキュー味はちょっと味が濃すぎて塩がきついのよ。でも濃い味が好きならこちらのほうがいいかもよ。……あ、私はこの枝豆スナックが好きだわ。これ、なかなかおいしいわよ」
聞かれてもいないことまで教えて、感謝されながら立ち去った。それにしても、毎回のように、商品について尋ねられる私。なんでだろ。
一画に神戸風月堂が新しく店舗を出していたので、懐かしくなりゴーフルを購入。A男もきっと好きなはず。
以前は食べなかったカキピーや、サラダ一番風のお煎餅など、ここ数年のうちに嗜好がどんどん日本人化している彼。前述のカッパえびせんも好きだわね。どらやきやカステラにも目がないし。っていうか、ただ単に、何でも食べる奴ってだけのことかもしれない。
夜はご飯を炊き、白菜の煮物と魚の煮付けを作り、しみじみと、一人の夕食を味わった。おいしかった。
★不景気の風が吹き始めている。在米日本人の傾向の断片
不景気の有り様が、街の様子や人々の会話から、確実に伝わってくる。航空業界、旅行業界が大打撃を受けているのは周知の通りだが、テロ直後に比べれば客足が戻りつつあると言っても、エンターテインメントやファッション業界、レストランなど、あらゆるシーンで、人々の財布の紐が堅くなっているようだ。
不景気を予想して、人々は散財を抑えようとしているらしい。それはニューヨーカーだけでなく、アメリカ人全般に言えることかもしれない。
株に投資することで資産を運用している国民が多いアメリカだから、株価が下がり景気回復の見通しが立たない状況にあって、ひとまずは倹約を心がける気持ちは理解できる。
一方、日本人を相手にしている日系企業やビジネスはどうだろうか。これもまた、芳しい話はほとんど聞かれない。
主に日本からの旅行者を相手にしてきた土産物店やブティック、日本食レストランなどは閑古鳥が鳴いている。旅行代理店の打撃は何をかいわんや。うちの会社にも、テロ以来、旅行代理店からの「特別キャンペーン」をうたった格安航空券やホテルパッケージ、ツアーの案内が次々に届くが、「これで売上げは立つのか?」と心配になるほど、安いプランが目白押しである。
すでに小さな日系旅行会社が倒産したという話も聞いた。
ジュリアーニ市長が言うように、ニューヨークに旅行者が戻ってくることが、何よりの景気回復になるのだろうが、そうは見えなくても現実的には「戦時下」であり、「厳戒態勢が敷かれている」昨今、旅行者が気安くニューヨークを訪れるまでに時間がかかることは否めない。
日系企業の駐在員が撤退し始めているという話も聞く。先を見越して駐在員を削減し、安い給料で採用できる「現地採用の社員」を充てる方策に出ている企業も少なくないようだ。大手企業に勤務する知人の夫は、事件以降、帰国命令が出た同僚たちの仕事を現地採用のスタッフに引き継ぐなどの作業で、連日、夜遅くまで仕事に追われているという。
駐在員妻の帰国も増えているらしい。そもそも「来たくて来たわけではない」駐在員夫人は、テロ以来ノイローゼ気味になっている人が少なくなく、夫を残して単身、もしくは子供だけを連れてひとまず帰国するケースが多いという。
ニュージャージーのフォートリーという街は、日本人やコリアン系住民が多く住んでいるのだが、日本人を相手にしているヘアサロンのオーナーが、客足が遠のいていると嘆いている。
マンハッタンでもないのになぜ? と思うのだが、自宅から外に出ることすら抵抗を覚えている人たちが多いという。あるいは「髪を切る」ことまで考えられないというのか。
そもそも駐在員夫人の多くは、テロ以前でさえ、橋を超えてすぐの対岸にあるマンハッタンへは滅多に足を踏み入れない。以前、とある駐在員夫人が主催する料理教室のクリスマスパーティーに招かれたとき、そのような現実を目の当たりにして非常に驚いた。
さて、マンハッタンには駐在員以外でも、私のように自営業をやっている人や、フリーランスで生計を立てている人がたくさんいる。日本のメディアからの仕事を請け負っているライター、フォトグラファーなどは、仕事がパッタリと来なくなり、たちまち収入源を失っている。
デザイナー、ミュージシャン、ダンサーなど、ニューヨークだからこそ実力を発揮できると訪れた人たちの多くも、収入の道が途絶え始めている。
なぜなら、本業で生計を立てられない「発展途上」の人たちは、日本食レストランでアルバイトをしたり、旅行会社からの下請けでツアーコーディネートをしたり、企業視察の通訳などをして生計を立てている人も少なくないのだ。
日本人駐在員御用達の「ピアノバー」と呼ばれるクラブで働いている女性も多い。49丁目東側界隈に多いピアノバー。すでに数軒が店を閉じたと聞く。「今年いっぱいがんばって、レントの契約が切れたら手放す」と言っているオーナーもいると聞く。
「今年いっぱい」をキーワードに、区切りをつけようとしている人が多いようだ。
現地採用されている日本人には、更に「就労ビザ」の問題がある。たとえばグリーンカードを持っていれば、たとえ解雇されたとしても「何でもいいからバイトして稼ごう」とか、「しばらく職探しをして、地道に食いつないでいこう」という方法もあるだろうが、私たちが外国人である以上、それは不可能だ。
会社のスポンサーなしに就労ビザを維持することは出来ず、期限を越えて滞在することは即ち違法(イリーガル)となる。
就労ビザの受給に関しては、会社がコーディネートしてくれるから何の苦労もなく渡米し勤務できる駐在員と、現地採用の人間との間は、この「ビザの問題」が断然違う。しかし、外務省の把握している情報や、日本に流される情報による「アメリカで働く日本人」とは、駐在員のことだけを中心に取り上げられ、自力で渡米してきた数多くの日本人たちへのケアはほとんどなされていないし注視されていない。
現地採用者は一般に、立場も給料も低いのだ。不条理なほどに。
「アメリカに来たくて来てるんだから仕方がないでしょう」などと言うなかれ。人それぞれに、それぞれの事情があり、それぞれに懸命なのだ。想像力も働かせることも、思いやりのひとつだろう。
就労ビザのために、そしてそれを通してグリーンカードを得るために、泣けてくるほど辛い思いをしながらがんばっている人たちを、私は何人も知っている。ビザスポンサーという名目のもと、人質同然、薄給で何年も働いている人たちを知っている。
そうまでしてでも、アメリカに住んでいたい、いつかはグリーンカードを得て自由に仕事ができるようになりたい、そういう思いでがんばってきた人たちが、今回のテロで解雇され、数年間の努力を水泡に帰しているケースもある。たまらない。
●10月31日(水):マンハッタン・デリバリーの一日。ジョージさんの苦悩
そして最後のマンハッタン・デリバリー。マンハッタンでの配達をジョージさんに手伝ってもらいはじめて、すでに5回目。muse new yorkは合計で9号出したから、半分以上を手伝ってもらったことになる。
この日はハロウィーンだった。第二のテロが起こると噂されていた日。数日前から再びHighest Alert(厳戒態勢)に突入している。そんなマンハッタンを、ジョージさんの車で縦横無尽に走りながら、配達する。
「ねえ、ジョージさん。私、muse new york、何となく発行を始めて、ちゃんと目標がなかったから、何となく終わっちゃって、利益が上がるどころか赤字でさ。それはそれで、やりがいもあったし楽しかったけど、なにやってたんだろうな~、ってちょっと思ってるんだ」
何とはなしに、ポロッと本音を言ったら、それまでテレテレとした会話をしていたのが、急に改まった声で彼は言った。
「何言ってんだよ、美穂ちゃん。世の中には口先ばっかのヤツが多いのに、美穂ちゃんはちゃんと実行してるじゃないか。やろうと思ったことを行動に移せるヤツはそうそういないって。利益より何より、残った物はたくさんあるやろう。よくやったよ。第一、こんなに重い段ボールを抱えて配達しようなんて、誰も考えないって」
ジョージさんが、お世辞ではなくて、心からそう言ってくれているのがわかって、とてもうれしくなった(我ながら単純……)。そうだそうだ。2年余り続けただけでも立派なもんだ。
「そうよね。実行することって、なかなかたいへんだもんね」
お得意の自画自賛で相づちを打った。
それにしても今日は道路が空いていて、配達は順調に進む。厳戒態勢だからポリスが多くて移動に支障があるかと思いきや、むしろ人々はマンハッタンを避けているのか交通量が少ない。
「あのテロ以来、マンハッタンのドライバーが、なんだか優しくなったよ。前は道を譲る人なんてほとんどいなかったけど、最近譲られたりするしね」
彼の妻(アメリカ人)はミッドタウンに勤務していたが、あの一部始終をオフィスビルから目撃したため、精神的にひどいダメージを受け、マンハッタンに出勤するのは当分いやだといって、アップステート(ニューヨーク州の北部)の自宅で仕事をし、会社とは電話やインターネットで連絡を取り合う日々が続いているという。
「最初の1カ月くらいは、突然泣き出したり取り乱したりして、結構たいへんだったよ。最近はタリバーンの替え歌を歌ったりしてだいぶん元気になったけど
「でもさ、アップステートだから安心ってわけでもないんだよ。最近、うちの近所のハドソン川沿いにあるニュークリア・プラント(原子力発電所)が狙われてるって言う噂もあるし。いやになっちゃうよ、まったく」
本当に、いやになる噂ばかりだ。それでも、いちいち恐怖におののいていては生活ができなくなる。こんなときにはある程度「鈍感」に生活をしていく必要があるのだ。「過敏」になるほど、疲弊する。
そのジョージさん、このところ本業の調子は今ひとつらしいのだが、今回は更に重かった。彼ら夫婦が資産運用のために購入していた家を、まとまったお金が必要になったため手放そうと、ブローカーに依頼して購入者を探していた。数カ月前、買い手が見つかったので、それまで住んでいた人に出ていってもらったところ、あのテロが起こった。
買い手は航空業界に勤務していた人で、契約の直前になって購入を取り消される。それからしばらくして、ようやく次の買い手が見つかったにも関わらず、その人のビジネスがうまくいかなくなったとかで、私たちが配達をしている最中に断りの電話が入った。
誰も住んでいない家を維持するだけでも、支払いは自分がせねばならないからたいへんなことだ。ジョージさん、すっかり落胆している。
「あー、もう! タリバンのせいだ。畜生!」
慰めの言葉もない。
配達を終え、恒例、日本食レストランでお酒を飲みつつ遅いランチを食べて解散。
「お互いがんばろうね。元気でね」
彼の車が走り去るのを、手を振って見送った。
●11月1日(木):もしかすると最後かもしれない中国系印刷所へ
午前中、例のクイーンズにある中国系の印刷所へ。今後はDC近辺で印刷作業をすることになるだろうから、ひょっとするとここに来るのは最後になるかもしれない。そう思うと、感慨深い。
ミューズ・パブリッシングを設立して以来3年間、何度この印刷所に足を運んだことか。毎回印刷の現場に立ち会うのは、きっと私だけだったに違いない。ほとんどの製作会社は印刷所に任せきりだから、印刷所のジェームズも、いちいちスケジュールを指定する私にうんざりしていたものだ。
「完成度」の基準が違う彼らと私だから、気を許したら「傷物」が仕上がってくる。しつこいほどに印刷所に通い、重箱の隅をつつくように品質管理を促したのは、たとえ面倒でも、それが最低限の、私自身の仕事に対するプライドであり責任感だった。
「取るに足らないことだ」と他人から思われるようなことでも、最低限のルールを自分の中で決めることは、自分が持っていた慣習とは違う世界の中で仕事をする際、とても大切なことだと思う。さもなくば、さまざまな事柄が「なし崩し」になってしまい、ひいては自分が混乱することになる。
印刷所とはもめることばかりの3年間で、怒り狂いながら帰ったことも数知れず。でも、もう来ないだろうと思うと、少し寂しい。
私を取り巻くいろいろな事柄が、移り変わりの節目にある。過渡期だ。
◎髪を切りに行った。ヘアサロンで、9/11以降の出来事を語る
印刷所の帰り道、午後の打ち合わせがキャンセルになったので、行きつけのヘアサロンに電話を入れる。以前紹介した、Iさんが経営するサロンだ。日本にいたころは思い切りショートカットだったから、頻繁にカットに行く必要があったのだが、ニューヨークに来て髪を伸ばし始めて以来、気がつけば半年過ぎていた、いうこともしばしばだった。
前回は結婚式前に、少し髪の色を明るく染め、整えた。あれから4カ月と少したっている。本当は髪を切ると言うよりも、Iさんに会いたかった。日系のヘアサロンが不振だと聞いていたから、様子を見に、そして景気づけに行きたかったのだ。無論、私一人が訪れたところでたいして売上げに貢献できるわけではないが、賑やかさでは3人分は軽いだろう。
ロックフェラーセンターの近くにあるサロン。Iさんは相変わらずにこやかで元気だった。この日はたまたま暇だったらしいが、事件以来、一時客足が減ったものの徐々に回復し、今は通常と変わりないという。よかった。
Iさんのお客さんには、ワールドトレードセンターで働いていた日本人駐在員(男性)が10人以上いるらしいが、全員無事だったという。多数の行方不明者を出した金融会社に勤める人たちばかりだったが、みな「偶然に」助かったのだという。
多くの同僚を失った顧客の一人は、あの朝、生まれたばかりの子供が熱を出し遅刻した。地下鉄の駅を出た途端に一機目が激突。自分だけが助かったことに対し、罪悪感もあって、ひどく落ち込んでいるという。
そのような、お客さんの話をあれこれと聞きながら、彼女はポツンと最後に言ったこと。
「私ね、今回の事件でびっくりしたのはね、日本人の駐在員で、アメリカのこと嫌ってる人が多いってことなの。ざまあみろ、って感じに思ってる人が結構いるのよ」
「えっ? それって年輩のおっさんたち?」
「ううん。30代くらいの若い人でもそうだよ」
「ニューヨークに住んでて、アメリカでお金稼いでて、しかも日本人だって被害に遭っているのに?」
……やはり、という思いと、ニューヨークに住んでいてもそういうことを言うのか、という驚きとが交錯する。
「遅刻して助かった人がいて、彼は苦しんでいるの」と彼女が言えば、「そんなやつは苦しんで当然。同僚が死んだのに遅刻して助かるなんて」なんてことをいう駐在員もいて、彼女は心底、驚いていた。
今回のテロに関して、いろいろな意見が出るのは当然のことで、その善し悪しを議論するつもりは一切ない。このメールマガジンでも、私はテロに関する私見を明記せず、できるだけありのままの出来事を記してきたつもりだ。なぜなら自分が今考えていることを具体的に文字にした場合、その発言にまったく責任を持てないから。
ただ、このような話を聞くと、本当にがっくりときてしまうことだけは記しておきたい。
★郵便局の風景。炭疽菌、炭疽菌……。
ご存じの通り、アメリカは炭疽菌騒ぎが延々と続いている。テレビのニュースにも新聞記事にも、Anthrax(炭疽菌)という言葉が出ない日はない。
先日、muse new yorkの郵送分を山ほど抱え、郵便局に行った。窓口に並ぶ5人の職員はみな、密着型のビニール手袋をしている。
うち二人の女性はマスクをしていたが、それ以外の3人はしていなかった。
彼らはいつもと変わらず、雑談をしつつ、ノロノロと手際悪く作業をしていた。いつもなら苛々として(おしゃべりはいいから手を動かせ!)と内心悪態をつくところだが、この日はそういう気持ちにはなれなかった。
私が職員だったら間違いなくマスクをしているだろう。
していない彼らはただ鈍感なだけなのか? それとも過剰反応をしたくないから?
彼らの真意はわからない。けれど、いつもと同じだらけたムードで働いている彼らを、いつもより短い列から眺めながら、少しだけ目頭が熱くなった。
⑨2001年11月9日発行のメールマガジン
4泊5日のボストン滞在を経て、昨日、A男と一緒にワシントンDCに戻ってきました。週末をワシントンDCで過ごし、来週、ニューヨークに戻る予定です。
北へ南へ行ったり来たりで慌ただしい限りですが、ここ1週間、差し迫った仕事がないので、気分的にとても落ち着いています。
●11月2日(金):「まるで子犬のように夫を出迎えましょう」についてなど
金曜の夜、友人のK男が遊びに来た。最近、勤め先を辞めねばならなくなり、これからの身の振り方についてあれこれと考えている最中らしい。彼は5年ほど前に渡米し、デザイン関係の仕事をしている。ニューヨークが大好きでこの街で働いている日本人の一人だ。
会社を辞めた途端、たちまち襲いかかってくる就労ビザの問題。彼のボーイフレンドは日本に住んでいて、だから日本に帰ることも選択肢の一つにはあるらしいが、それでも今まで積み重ねてきた実績と、ニューヨークでの大切な日々をすっぱりと断ち切る気持ちには、当然ながらなれないようで、今後の身の振り方について深く模索しているようだ。
彼のように戸惑いの中にある日本人は、きっと今、たくさんいるに違いない。とはいえ、基本的には元気で明るい彼。話が上手で、瞬く間に時間が過ぎていく。
彼が日本でドラッグ・クイーン(エンターテインメントとしての女装を演出する人)をやっていた時代のエピソードなどを聞き、転げるように大笑いしているところへ、A男がDCから戻ってきた。私は、話が中断されるのを残念に思いつつも、良妻ぶりを発揮して「まるで子犬のよう」に、玄関口に彼を迎えに出る。
「まるで子犬のように夫を出迎えましょう」
話がそれるが、せっかくだからこのエピソードを記しておこう。私たちがアメリカで結婚の手続きをした直後、福岡の妹から祝福のEメールが届いた。そこには、結婚生活の先輩からの、唯一のアドバイスとして、上記の一言が記されていた。
「なに~? 子犬のように夫を出迎える~?!」
(なんじゃそりゃ)と笑いながら読み進めば、この言葉は我が母親からの伝授だという。
以前、母は知人に誘われて、某団体が主催する「心のセミナー」なるものに参加したという。その話のなかで印象に残ったのがこの言葉だったらしい。早速実行したところ、「これはいい!」という結論に達したらしく、嫁ぐ娘へ「はなむけの言葉」として贈った。
「子犬のように」とは、それが多少、阿呆っぽくみえるとしても、「ニコニコとうれしそうに」ということであろう。「夫を出迎えましょう」となっているが、妻の方が遅く帰宅する家庭は「妻を迎えましょう」で応用できよう。結婚していない同棲中のカップルにも有効かもしれない。
さて、これを実行するのは簡単そうでいて意外に難しい。しかし一旦実行してみると、我が母の言うが如く「これはいい!」という効果が伴う。「ばかみたい」などと言わず、好奇心のある方、お試しあれ。しかも、「子犬効果」は相手に強要せずとも、自分が行っていれば自然と「伝染」する。
無論、日頃の対応如何によっては、気味が悪いと言われたり、下心があるのではと勘ぐられたりする可能性もあるが……。
さて、子犬効果で、週末長旅でお疲れのA男も、笑顔を見せずにはいられない。3人で一緒に、このあいだ弁護士と一緒に出かけたトルコ料理の店「PASHA」へ行く。案の定、ラム肉好きのA男はこの店の料理がとても気に入った様子。
話はそれるが、アメリカではおいしいラム肉が手に入る。似たようなことを以前も書いたような気がするがまた書く。この間、高級精肉店で奮発して購入したラムチョップ(骨付きのラム肉)を、ちょっと日本風に「みそ漬け」にして、オーブンでグリルしたのだが、それはもう香ばしくてジューシーで、すごくおいしかった。
どこから見てもスリムなK男の
「僕、最近、お腹が出て太ってきたから、エクササイズをやってるんだ」
という言葉に、どこから見てもおデブなA男が
「何を言ってるの? 日本人はどうしてそんなに痩せたがるんだ?!」
と笑いながらも挑戦的に問いかけている。
3人で噛み合わない、ちぐはぐな会話を展開しつつも、楽しいひとときだった。
●11月3日(土):別れを思うと名残惜しい。アッパーウエストサイドを歩く
土曜日の午後、A男と二人でアッパーウエストサイドを散歩することにした。A男がダウンタウンに行きたいというのだが、前日にダウンタウンを歩いて、何となく気持ちが滅入っていたこともあり、できればアップタウンにいたかったのだ。
いつものように60丁目からコロンバス・アベニューを北上する。リンカーンセンターの傍らを通り、ブロードウェイとコロンバス・アベニューが交差するあたりを通り抜ける。
この5年余り、何度となく目にした光景。あと数カ月でここから離れるのだと思うと、目に映る一つ一つが愛おしく感じられる。角地に立つ大型書店「バーンズ&ノーブル」を見ながら、A男がいつものように言う。
「あの日、僕たち、バーンズ&ノーブルのスターバックスカフェに行かなかったら、今頃どうしていたんだろうね。絶対に巡り会うことはなかったよね」と。
「あのときのミホは、髪は短いし、眼鏡はかけてるしで、学校の厳しい先生みたいだった。僕のクオリティー・コントロール(品質管理)のおかげで、ホント、ずいぶんましになったよねえ」
遠い過去を回想する老人のように、ニコニコしながらお決まりのコメントを繰り返す。過去を回想する老人といえば、先日、「白い犬とワルツを」という本を読んだ。テリー・ケイという米国人作家の翻訳本で、日本で流行っているという噂を聞いたのだが、なんともしみじみした、優しい気持ちにさせられる本だった。
1996年の7月7日、日曜日。その夜、バーンズ&ノーブルのスターバックスカフェで語学学校の宿題をやろうと訪れた私は、なかなか空席が見つけられなかった。唯一、空いていた椅子を見つけて、「ここに座ってもいいかしら」と、熱心に書類を読んでいる男性に声をかけ、相席させてもらった。その男性がA男だったのだ。
ずいぶん遠い日のことのようにも思えるし、つい最近のことのようにも思える。
秋風の冷たさに誘われるように、出会ったばかりのころの、とんちんかんな出来事の数々が脳裏に浮かんでくる。
70丁目あたりで、ORDNING & REDAという、スウェーデンの文房具店に入る。文房具と言っても、非常に洗練されたノートやペン、バッグなどを扱うブティックのような店だ。黄色、赤、黒、青など、原色だけを使った文具が、色別にくっきりとディスプレイされている。
新商品だというナイロン製のトートバッグがとても可愛かったので、オレンジ色のを一つ購入。黒系が好きな日本の妹にも、黒いバッグを買った。母への誕生日プレゼントと一緒に送ればいいだろう。
店名の発音の仕方をレジの女性に聞いた後、
「あなたはスウェーデンから来たの?」と尋ねると、「そうよ」とうなずく。
「私、10年くらい前に、スウェーデンに行ったことがあるの。南端のマルメを基点に、ガラス王国のスコーネ地方を巡って、エーランド島へ行って、最後にストックホルムに行ったの。自然の景色も、ガラス製品も、何もかもが美しくて、今でもくっきりと覚えている。本当にすばらしい国だった」
そう言うと、彼女はうれしそうにうなづき、二人してスウェーデンの映画やインテリアなどの話で、しばし盛り上がる。彼女は女優であると同時に作曲家で、劇団に所属してお芝居などをしているらしい。
「もしも興味があったら、ぜひ公演にいらして。次回のスケジュールが決まったらお教えしましょうか?」と、輝きのある笑顔で言う。
私は彼女にメールアドレスを渡し、「きっと教えてね」と言った。
思えばあの事件以来、こんな風に、見知らぬ人と楽しい会話をしたのは初めてのことで、いつもなら取るに足らない出来事が、とてもうれしく感じられた。
(長話しすぎ!)という言葉が笑顔の裏に見て取れるA男に向かって、「今度、一緒にスウェーデンに行きましょうね」と言いつつ、店を出た。
コロンバス・アベニューを更に北上し、自然史博物館の大きな建築物の傍らを過ぎ、90丁目近くまで歩く。そこから1ブロック西にあるアムステルダム・アベニューに向かい、今度は南下する。途中で手作り陶器の店「OUR NAME IS MUD」の前を通る。以前、muse new yorkにも紹介したことのある店だ。
この店では、店内の道具を使ってオリジナルの陶器を作ることができる。マグカップやシリアルボール、プレートなど、白地の陶器を購入し、店内のテーブルに用意されている専用の絵の具で好きなように絵柄を施す。料金は作業にかかる時間別に設定されている。仕上がりは店の釜で焼いてもらい、後日受け取りに行くという仕組みだ。
2年前の冬、私たちもこの店でオリジナルの陶器を作った。絵筆を握って塗り上げていく作業はとても楽しいものだった。私はA男へマグカップとシリアルボールを、彼は私にマグカップを作った。
1週間後、仕上がりを受け取りに行き、つややかに焼き上がった陶器を見ながら「きれいにできたね」と喜んで受け取ったのも束の間、歩きながら手袋をはめようとしたA男は、陶器の入った袋を道路に落としてしまった。中身の状態は言うまでもない。その後のバトルも、言うまでもない。
苦い記憶を蘇らせつつ、更にアムステルダム・アベニューを南下する。5時をまわったばかりなのに、あたりはすっかり夕闇に包まれている。日が暮れるのが早いのは、なんともいえず寂しいものだ。大してお腹が空いているわけではないのに、夕食を食べなければ、などと気がせいてしまう。落ち着け!
ダウンタウンに引き替え、この界隈はテロの面影は微塵もなく、いつもと変わらぬ活気のある週末の表情を見せている。ビジネス街にあるレストランよりも、住宅地にあり、日常食を提供するレストランの方が、こんな時勢では強いのかもしれない。立ち並ぶレストランのいずれも、大勢の地元ニューヨーカーたちで賑わっている。
A男のリクエストにより、アムステルダム・アベニューの80丁目あたりにある、昔よく訪れた寿司屋「春(HARU)」へ行く。他の店にも増して、相変わらず込んでいて、店の前には列が出来ている。
カウンター席に座った私たちは、日本人、中国人入り交じった寿司シェフたちの手際いい作業に見入りながら、日本のにぎり寿司の、軽く2倍はある大きなサイズの寿司を食べる。
帰りに「サラベス(SARABETH'S )」という、ジャムで有名なカフェに立ち寄り、デザートのチーズケーキと、翌朝のためのクロワッサンやスコーンを買って帰った。
●11月4日(日):ニューヨークシティマラソンの日、ボストンへドライブ
例年ならば、ニューヨークシティマラソンの季節になると、自ずとその話題が出てきて「そろそろマラソンだね」という雰囲気が街に漂うのだが、今年は違った。ゴールに近い場所に住んでいる私でさえ、マラソンの実施を知らせる街頭のバナー広告に気づいたのは数日前で、「あ、そういえば」と思い出したくらいだ。
それでも参加者は去年より下回ったものの2万人程度いたようで、この街の底力をうれしく思うばかりだ。
私たちは午後一番でレンタカーを借りに行き、ボストンへ向かう。ニューヨークからボストンまでは北東を目指して車で4時間弱。ニューヨーク州からコネチカット州を経てマサチューセッツ州にあるボストンに向かう。
ハイウェイ沿いは紅葉の海だった。青空も爽やかに、すばらしいドライブ日和。こんな風に紅葉の中をドライブする機会が多いのは、アメリカに暮らし始めて以来、初めてのことのように思う。
前号にも書いたが、今回のボストン旅行は、A男の出張の便乗だ。NEXT GENERATION NETWORKSというテレコミュニケーション関連のカンファレンスで、4、5日かけて開催される。
開催地は、ボストンのバック・ベイと呼ばれるエリアにあるマリオットホテルで、私たちはそこに隣接するウェスティン・ホテルに滞在する。ウェスティン・ホテルといえば、恵比寿ガーデンプレイスにあるウェスティン・ホテルが大好きで、泊まったことはないものの、出来たばかりのころ、時折、カフェやレストランを訪れては「優雅なひととき」を楽しんだものだ。
恵比寿のヨーロッパ風デコラティブなインテリアに比べ、ボストンのウェスティンはあっさりとしたモダンなインテリアだった。ちょっとがっかりだが贅沢はいえない。
ホテルの向かいにはコープリー・スクエアと呼ばれる広場があり、その一画には、ロマネスク様式の壮麗な建築が、周囲の近代的なビルと対照的に引き立っている「トリニティ教会」がある。
コープリー・スクエア周辺は、ホテルやショッピングモールがたくさんあり、それぞれのビルが遊歩道で連結されているので、外に出ることなくあちこちへ移動できる。
2ブロック先には、ニューベリー・ストリートと呼ばれる繁華街がある。ここは欧州の街並みを思わせる石造りのタウンハウスが立ち並び、個性的なブティックやレストランが軒を連ねている。そぞろ歩きが楽しい場所だ。
日曜の夕方、ボストンに到着した私たちは、レンタカーを返したあと、「リーガル・シーフード LEGAL SEAFOOD」という店へ直行する。ボストンが本店のシーフードレストランのチェーン店で、肩の凝らないカジュアルな店だ。
私たちは迷うことなく、この地の名物「クラムチャウダー」と「ロブスター」をオーダー。アサリやジャガイモなど具だくさんのクラムチャウダーは、すでにそれだけでお腹一杯になってしまうので、一皿を二人で分けて食べる。
ロブスターは、重量別に3段階の値段設定があるが、私たちは中ぐらいのサイズを、やはりシェアして食べる。アメリカでは一般に、ロブスターには「溶かしバター」を付けて食べるのだが、これではカロリーが高くなり、味がだらしなくなるというもの。私たちはいつも何も付けずに食べているが、甘みがあり味噌もたっぷりのロブスターは、それだけで十分においしい。
ちなみに最終日はボストンで一番おいしいという噂の「銀座」という日本食レストランで、やはりロブスターを食べたのだが、こちらのほうがおいしかった。大衆的な店で値段も手頃なのだが、なにより付け合わせが「ポン酢醤油」だったことが勝因だ。バターで食べるよりも数倍おいしくて感動した。
★アメリカ各都市のレストラン情報は「ザガット ZAGAT SURVEY」で
前号のメールマガジンを発行する直前に、読者の一人からメールが届いた。文末にこのようなコメントが出ていたので抜粋する。
----------------------------
また元気になりましたら、メルマガで楽しいことを書いてください。今までのようにとはいかないかもしれませんけど、何々を食べておいしかったとか、どこがよかったとか、私もおいしいものが好きなので楽しんで読んでいました。
今まで、メルマガで「どこどこのレストランにいった」っていうときは、よく、「何々を食べた」まで書いてあったのに、最近では、食べた内容がなくて、話した内容だけですよね。こんなときに、何を食べたかなんて重要じゃないし、暗い話題の時に食べ物の話が混じってたら変ですけど。
----------------------------
特に意識していなかったのだが、ちょうど前号より食べ物の具体的な描写が久しぶりに復活していたのを自分でも気がつき、そこに間接的ながら自分自身の「平常心の復活」が感じられた。さすがにテロの後は、われながら食べた内容の微細に至るまで触れる気持ちにはならなかったようだ。
「食い物の話ばかり」という評判もあったが、私はこの読者をはじめ、食べ物に関心のある読者が少なくないことを見込んで、これからも心おきなく綴っていこうと思う。
さて、ジュリアーニ市長になりかわって、ニューヨークの観光を促進するためにも、メールマガジンではレストラン名やエンターテインメントの具体名などを記していこうと思う。ただ、一つ一つの住所や電話番号を記していては面倒で長続きしないので、ニューヨークに訪れる機会のある人のためにレストランガイドを紹介したいと思う。
ご存じの方も多いかもしれないが、「ザガット」というえんじ色のレストランガイドだ。毎年、年末に発行されるもので、ザガット夫妻というグルメなユダヤ系アメリカ人夫婦によって創刊された。彼らは「料理の鉄人」に審査員として登場したこともあるし、日本の雑誌でもしばしば紹介されている。
覆面審査員(一般人)によるレポート(人気投票)により、レストランの「料理」「インテリア」「サービス」が30点満点で評価されているほか、夕食の一人当たりの予算、住所、電話番号などのデータに加え、審査員によるコメントの要点が数行で掲載されている。
全レストランがアルファベット順に掲載されているので、私がこれまで紹介した店も、簡単に検索することができる。また、イタリアン、フレンチ、ジャパニーズなどカテゴリー別検索のほか、上位ランク別、エリア別などで検索することができる。
アメリカ人の味覚と日本人の味覚は異なるので、料理の評価を鵜呑みにするのは避けるべきだが、ある程度の目安になるので私もA男も、そして多くの友人が活用している。
ちなみにここ数年は、ニューヨークだけでなく、アメリカの主要都市のほか、パリ、東京、バンクーバーなど海外の都市版も発行されている。数年前、パリに行ったときにも購入した。A男の熱心なリサーチにより、地元の人たちに人気だという町はずれのステーキハウスを見つけ、おいしい食事を楽しむことが出来た。
ニューヨークの書店ではどこでも取り扱っている。ちなみにウェブサイトでもガイドブックと同様の情報が入手できるので、日本にいながらにしてニューヨークはじめアメリカ各地のグルメシーンに思いを馳せることも可能だ。
●11月5日(月)~:ヨーロッパ旅情をかき立てられたボストンでの数日
月曜から水曜までの3日間、A男がカンファレンスに行っている間、私は束の間のボストン・ライフを楽しんだ。といっても、初日は雨が降り、残り2日も風が強くとても寒くて、あまり街を出歩く気にもならなかったので、モール内を散策する以外は、主にはホテルの部屋で原稿を書いたり、前号のメールマガジンを書いたり、本を読んだりしていた。
ボストンへ来たのはこれで3度目。前回は、去年、A男の大学の同窓会に参加するため、ケンブリッジというエリアを訪れた。ボストンの中心地からはチャールズ川を挟んで北側にあるケンブリッジはハーバード大学やマサチューセッツ工科大学がある学生の街で、住民の平均年齢が20代半ばという若く活気に溢れたエリアだ。
同窓会は何日かにわたって行われ、たまたまMBAの卒業式に来ていたA男の父親とお姉さんと一緒に旅行を兼ねて訪れた。
今回はケンブリッジに足を延ばすこともなく、コープリー・スクエアとニューベリー・ストリート周辺を散策するにとどまった。この辺りは教会が多く、また石造りの瀟洒な建物がそこここに見られ、ヨーロッパの街角を歩いているような気分にさせられる。
トリニティ教会に立ち寄り、教会の中でしばらく過ごした。ステンドグラスがすばらしく、特に2階席のそばにあったステンドグラスは、まるで水彩画のように柔らかな青空がガラスに託されていて、すっかり見とれてしまった。実際の美しさはデジタルカメラではとても捉えられなかったが、一応この写真もホームページに掲載している。
最終日にはボストン美術館(Museum of Fine Art)の近くにあるイザベラ・S・ガードナー美術館(Isabella Stewart Gardner Museum)へ行った。前回、ボストン美術館だけにしか行かなかったので、今回はぜひとも訪れておきたかったのだ。
大富豪の未亡人によって創立された美術館で、広々とした美しい中庭を持つ、4階建ての邸宅だ。フェンウェイ・コートと呼ばれるこの建物は、15世紀のベネチアの宮殿を意識して建築されたという。
建物に足を踏み込み、光に溢れた中庭が目に飛び込んだ途端、まさにイタリアの街角に紛れ込んでしまったかのような心持ちにさせられた。入り口からまっすぐに伸びる回廊の突き当たりに視線を移せば、1枚の大きな絵画が、鮮烈な印象を伴って展示されている。
John Singer Sargent(1856-1925)というアメリカ人画家によるEl Jaleoという作品。カンバスには、薄暗いタブラオ(お酒や食事とともにフラメンコの舞台を楽しめる店)で、憂いをたたえた表情を見せながらフラメンコを踊る女性と、ギターを弾き歌う男性たちの姿がある。
ダンサーの白い衣装が、下からのスポットライトでより白く照らし出されているさまが、何とも言えず美しい。情熱と哀愁を同時に表現するかのような、光と影の対照が見事だ。
かつて訪れたアンダルシアのタブラオの記憶が瞬時に蘇る。
「オーレ!」というかけ声と、かき鳴らされるギターの音と、カスタネットの軽やかな響きと、小刻みに鳴り響くタップのリズムが、遠く耳の奥から聞こえてくるようだ。
この邸宅には、イタリアの間、オランダの間、礼拝堂、タペストリーの間、ラファエロの間、ゴシックの間とそれぞれに趣の異なる部屋があり、非常にゆったりとした空間に絵画や家具調度品が配されている。各部屋から中庭を見下ろせ、同時に自然光がふんだんに入ってくるので、美術館特有の重苦しさがない。
部屋を巡るごとに、欧州の国々を訪ねるような心持ちにさせられ、しばし日常を忘れた。
ニューヨークのアッパーイーストサイドにあるフリック・コレクションを思い出す。フリック・コレクションは、鉄鋼王の邸宅を改装し、個人の蒐集物を展示している美術館で、コンセプトも雰囲気も、この美術館と非常に似通った印象がある。
フリック・コレクションにも美しい中庭があり、小規模ゆえ「親密な」雰囲気に満ちており、とても魅力的なのだが、私にとってはこのイザベラ・S・ガードナー美術館の方がより一層好みに合い、とても豊かな時間を過ごすことが出来た。
展示作品はごく一部しか見られないが、下記がウェブアドレスだ。
➡︎http://www.gardnermuseum.org/
米国在住時のメールマガジンは、今でもホームページに残している。ご興味があれば、こちらに過去の記事があるので、ご覧ください。
◎アメリカ合衆国での活動
➡︎http://www.museindia.info/museindia/usa.html
◉2017年6月12日/911 MEMORIALへ。2001年を回顧する日。
2001年9月11日、米国を襲った同時多発テロ。旅客機4機がテロリストグループに乗っ取られた。
当時、わたしが住んでいたニューヨークのワールドトレードセンターに2機が激突、そして夫が住んでいたワシントンD.C.(正確には郊外のヴァージニア州)にあるペンタゴン(米国国防総省)に1機が激突。
ホワイトハウスかキャピトル(アメリカ合衆国議会議事堂)を目指していたとされる1機が、乗客らの尽力で激突を回避されたものの、しかしペンシルヴェニアのシャンクスヴィルに墜落した。
以来16年。決して訪れることはないだろうと思っていた場所へ、今回はなぜか旅の前から訪れようという気持ちが芽生えていた。
ひとつは、「自由の女神」を、改めて見て見たいと思ったこと。マンハッタン島の南端に行くとなれば、ワールドトレードセンターの跡地を訪れることにもなるだろう、と思っていた。
National September 11 Memorial & Museum。通称、911メモリアル。
アメリカ同時多発テロ事件の公式追悼施設として、2011年にオープンした国営の施設。ニューヨークのグラウンド・ゼロにある。
実は前日、日系の美容院で髪を切った折、スタイリストの女性が、911メモリアルのことを話してくれ、行かれたほうがいいですよ、と勧めてくれたのだった。
わたしは、ワールドトレードセンターのあとに、再び高層ビルやミュージアムが建てられたのだと思い込んでいて、だから、とてもじゃないけれど、その地を踏めないと思っていたのだが、それはわたしの、大いなる思い込みだった。
「2棟のあとが、滝みたいになっているんです」
と、彼女から聞いて初めて、その場の状況が想像でき、行ってみようと思ったのだった。
その日は朝から、ひどい雨だった。雨降りの中の外出は極めて苦手なのだが、しかし、雨だからこそ、訪れるにふさわしい気もした。地下鉄でひたすら南下し、その場所へ。
ちなみにミュージアムの情報を調べたところ、チケット売り場はたいてい長蛇の列だとのことで、あらかじめネットで予約、支払いをすませておいたのだった。実際、雨の中でさほど待つことなく入場できたのはよかった。
そして遂には、16年ぶりに、キャナルストリートより南へ踏み込んだ。あの、途方もなく衝撃的な日は、人生における分岐点となり、今の自分に連なる。
二棟のビルディングの跡が、それぞれに、このようなプールになっている。周囲には、亡くなった人たちの名前が刻まれている。
ふと、日本人男性の名前が、目に飛び込んできた。タカハシケイイチロウさん。あの日、24名の日本人が亡くなった。どれほどの恐怖と、無念であったことだろう……。
雨が降っていて、周りに観光客が少なかったのは、本当によかったと思う。笑顔でセルフィーを撮る人たちが、数えるほどしかいなかったからだ。
当事者ではないわたしですら、その姿を見るのは、嫌なものだった。遺族には、とても耐えられないだろう。
水辺で手を合わせながら思う。ここに、宗教を超えた「祈りの場所」があればいいのにと。写真の撮影や会話を禁止する、できれば静かに、死者を悼むことができる場所があればいいのにと。
ミュージアムの展示について、言葉を添えるのは控える。写真だけを何枚か、残しておく。
◉『街の灯』坂田マルハン美穂著/2002年9月ポプラ社刊
『街の灯』単行本 – 2002/9/1
➡︎https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4591073599/ref%3Dsr_aps_b_6/249-4030253-0086759
◉米ソを中心とした核実験の実態。2053回。1954年から1998年の間に行われた核実験の数 ※必見
1945-1998 (by Isao Hashimoto, Japan, © 2003)
◉2003年3月15日/WAR PROTESTERS MARCH 反戦デモ@ワシントンDC
この日、世界各国の主要都市で、米のイラク攻撃に反対するデモが行われた。ワシントンDCでも、ホワイトハウスを取り巻くように、大勢の人々(主催者発表10万人)が集まり、各々の主張を記したプラカードなどを掲げつつ、練り歩いていた。
カメラを構えられない…ジャーナリストにはなれない…
の言葉に、美穂さんのお人柄を想像しながら読ませて頂きました。
あの時、美穂さんが心身ともに、被害に遭った方々の極々近い場所に立っていた事が伝わります。
建物や人々が焼ける匂い…
ほとんどの人が、鮮明な記憶として振り払えなくなる体験を、美穂さんの繊細な感性で向き合っておられた葛藤の記録。
報道からは知る事のない、その場所にいた方々の温度や匂いを感じられる事実。
こうして発信してくださった事に、心から感謝致します。
美穂さんの記事を読ませて頂いてると、こんな事を考えます。
地球を空高くから見下ろせば、私達一人一人は小さな小さな粒の様な存在で、
その粒子の様に小さな存在かもしれない一人一人が様々な色を放ち…
その光や濁り全ての結晶が、瑠璃色の美しい地球の一部として見えているのかも…と。
だから、宇宙から見る地球に、引き込まれる様な美しさ
や儚さ、そして凛とした何かを感じさせられるのかな?なんて(^^;
そんな風な気持ちになりました。
意識が変わると、同じ物事への見方が変わりますね。
そして、身体の動きも変わります。
脳や腸まで、本来ある健やかな動きへ戻れる様な気分。
こんな時期だからこそ、今、このタイミングで知ることが出来て良かったです。
貴重なお話を残してくださり、ありがとうございます。
投稿情報: だいあ | 2021/09/13 09:30
だいあさん
長い記録を読んでくださってありがとうございます。どんなに歳月を重ねても、記憶を上書きすることはできないし、忘れることは決してできないということを、歳を重ねるにつけて実感します。こんな悲劇を起こすのも人間。それによって苦しめられるのも人間。
歴史から何ら学ばず、性懲りもなく苦しみを引き継ぐ人間……。誰かの苦悩の上に成り立つ富や名声。……それに、どんな価値があるというのか。
せっかく生まれてきたからには、どんなに小さくても、自分の「役割」を果たしながら、暮らしたいと思います。この記録から何かを感じ取ってくださる方がいらしただけでも、綴り続ける意味があると思います。ありがとうございます。
投稿情報: 坂田マルハン美穂 | 2021/09/13 11:09
ほんと、せっかく生まれて来たんですものね。
私も、小さな役割を果たせる様な生き方をして行けたらなと思います。
返信ありがとうございました(^^)
投稿情報: だいあ | 2021/09/14 10:56