今月末でちょうど勤続10年となる我が家のドライヴァー、アンソニー。我々夫婦のバンガロールでの暮らしは、車の運転だけにはとどまらない、彼のサポートによっても、ずいぶん助けられている。今日、彼は休みを取り、家族で教会へと赴いている。
今から4年前の今日、キリスト教の聖地の海で他界した長男をしのぶ礼拝のために。
どんなに歳月が流れても、痛みが和らぐことなどないだろう。あの日のことを思い出すと、胸が迫る。訃報の電話に動揺し、頭が廻らず、当時、熱中していたゼンタングルを、ひたすら描いた。
以下、4年前の記録を転載する。最下部には、日本在外企業協会刊『月刊グローバル経営』に寄稿した記事の写真も載せている。インドにおけるキリスト教についての概要が、おわかりいただけるかと思う。
訃報を聞いた後、わたしはアンソニーがすぐに仕事に戻れるとは思わなかった。しかし、翌週から、彼は勤務を再開した。何かをしていなければ、耐え難かったのだろう。しばらくは、彼が運転に集中できるだろうかと心配でもあった。しかし、そもそも非常に運転がうまく、決してホーンを鳴らさず、危険なことはしない人である。杞憂に終わったが、しかしその後、折に触れて話をするたび、彼がどれほど、自分を責めているかということが、わかった。
毎年この時期、家族や親戚全員で、お隣タミル・ナドゥ州の海辺にあるキリスト教の聖地へ赴いていた。それを取りまとめるのは、アンソニーの役目だった。しかし、その年、長男は試験があるからと旅に行くことを拒んだ。行きたくないと何度も言った。しかしアンソニーは、長男だけを残して行くことはできない。勉強道具を持参して同行しなさいと息子に同行を強制した。
その挙句の、長男の死。
アンソニーと結婚するためにキリスト教に改宗したそもそもヒンドゥー教徒だった妻は、神を責めた。夫をなじった。
周囲からの憐憫も苦痛で、責められることにも慣れ、アンソニーは相当に苦しい日々を送っていた。わたしはただ、
「決して自分を責めないで。あなたは悪くない」
とだけを、繰り返し告げることしかできなかった。折に触れての、長男を巡る会話は、兎にも角にも遣瀬なかった。途轍もない苦しみを抱えながら、まさに十字架を背負いながらも、日々努めて明るく過ごしている彼を尊敬する。
……ともあれ、以下の記録、お読みいただければ幸甚だ。
10年に亘る米国生活を経て南インドのバンガロールに移住して12年が過ぎた。夫の故郷ニューデリーで2001年に結婚したときには、まさか自分がこの国に「住みに来る」ことになろうとは思わなかった。
2003年ごろから徐々に、インドの経済やライフスタイルが変貌を遂げているニュースを見るにつけ、住んでみたいと思うようになった。投資関係の仕事をしていた夫は、当初に抵抗を示していたが、「半年はお試し期間」などといいつつ2005年11月に移住したのだった。
先日、11月10日で、ちょうど12周年を迎えた。
わたしがインド移住を希望した理由はいくつかあった。その一つが、使用人のいるライフスタイルである。北インド、パンジャブ地方出身の男性は一般に甘やかされて育ち、勉強や仕事ができても自分の身の回りのことができない人が少なくないらしい。
我が夫も例にもれず。仕事をする傍ら、料理や掃除などの家事ばかりか、日曜大工的なことまでもわたし一人が担うことに、淡い懸念を抱いたわたしは、インドであれば使用人のいる暮らしができる、自分一人が抱え込む必要がなくなると判断した。
最近でこそ、若い世代は核家族が増え、使用人のいない家庭も増えたが、一昔前までは、富裕層の家庭が複数の使用人を抱えるのは一般的なことであった。デリーの夫の実家には、もはや「執事」のような存在の勤続数十年のドライヴァーがいる。
彼なしでは、義理両親の生活は成り立たないほどだ。親戚の家にしてもしかり。買い物だけでなく、銀行振り込みなど金銭に関わることまでも、任せている。一方で、義理両親は彼らの生活を保障している。子供達の学費は全面的に支援してきた。数年前には、長女が大学に進学。サイエンティストを目指しているという。
翻って我が家。現在、勤続6年のドライヴァーとメイド、そして庭師が出入りしている。ドライヴァーは、運転だけでなく、日常の買い物やちょっとした日曜大工など、家の雑事を引き受けてくれる。家の鍵を託しているので、我々の不在時には猫の面倒を見に来てもくれる。
安全で的確な運転をしてくれるだけでなく、非常に誠実な人柄だということもあり、我々夫婦は信頼を寄せている。娘が1人、息子が2人、そして妻の5人家族。ドライヴァーの平均的給与よりは多めを渡しているとはいえ、3人の子供を育てるには厳しい。
ゆえに、彼らの学費支援は6年前から続けている。
昨年、長女が美容学校を卒業して、ビューティーサロンで働き始めた。次は長男が、来年、大学進学か就職かを決める時期だった。大学進学ならば、長男ともきちんと話をした上で、学費支援をすることにしていた。
ところが、それが叶わなくなってしまった。いや、その必要が、なくなってしまったのだ。
◎我が家のドライヴァー、アレキサンダー一家のこと。
年に一度、我が家のドライヴァー、アンソニー・アレキサンダー(重厚感あふれる名前!)とその一家は、1週間ほどの休暇を取り、故郷タミル・ナドゥ州の海辺の町、ヴェランカニへ赴くのが恒例だ。
我々夫婦がNORAを飼い始めた当初、アンソニーはわたしに苦笑しながら言った。
「マダム。僕は悪魔には対応できても、猫はダメです。苦手なんです。ひっかくから」
ところがROCKY、JACKと、我が家の飼い猫が増えるにつれ、彼もまた、いつしか「猫煩悩」になっていた。そしてついには数カ月前、野良猫インヤンが生んだ4匹の子猫のうち、2匹を引き取って行った。猫らは家族5人に溺愛されている。
旅行を前にして、アレキサンダー一家の懸念は、「不在時の猫の世話」だった。妻は心配のあまり「旅行に連れていく」とまで言っていた。
我が家のNORAが友好的な性格であれば、サンルームで預かってもいいのだが、なにしろ彼女は外部に対して極度に厳しい。「抗議の粗相」をされる可能性が高かったので、申し出なかった。結局は、ペットホテルに預けることになった。
猫のワクチン代や手術代などを我々がサポートすることは、あらかじめ決めていた。日常の餌代などは、彼らが出している。しかし、わたしに影響されたのか、
「キャットフードだけでは猫にとってよくないので、妻がチキンや魚を料理しているんです。猫の食費がかかりすぎて困ります」と嘆いていた。
「過保護にしすぎる必要はないからね。普通は市販のキャットフードだけでも十分なんだから。そこいらの野良猫は、チャパティとかダルとか食べてるよ。我が家は特殊なの。過保護なの。真似しなくていいから!」
という話をしたこともある。
* * *
彼の妻は、そもそもヒンドゥー教徒の生まれであった。しかし敬虔なクリスチャンのアンソニーと出会い、恋に落ちた。「異教徒結婚」をしたことにより、彼女は自分の家族との縁を絶たれた。思慮深くおとなしく、とてもやさしげな女性である。
初めて会った時から印象はほとんど変わらず、子供達はどんどん大きくなっている一方で、少女のような雰囲気を残している。長女とは姉妹のようにさえ見える。
彼女は他人と関わるのが極度に苦手だとのことで、友達がいないという。家を守り、家族のために働くことが彼女の生き甲斐でもあるようだ。一度、我が家のメイドがいなくなった時期に、彼女に来てもらえないかとアンソニーに頼んだが、外で働くのは無理だとの返事が返ってきた。
前述の通り、彼ら夫婦には3人の子供がいる。長女アリス19歳、長男アンソン17歳、そして次男アルウィン15歳。
妻が次男のアルウィンを身ごもった時の話を、以前、聞いたことがある。
第三子の懐妊に、彼ら夫婦は動揺した。経済的にも、子供は2人で十分だと思っていたのに、図らずも妊娠してしまったからだ。彼は行きつけのドクター(クリスチャン)に中絶を依頼した。しかしドクターは、母体の体調がよくないのですぐには手術できないという。
結果、彼女は中絶のタイミングを逃した。
後日、ドクターが故意に搔爬を避けさせたと知った夫婦は憤慨し、ドクターに詰め寄るも、出産する以外、道はなかった。
生まれてきた子は、色白で(インド人にしては)、とてもかわいらしい男の子であった。夫婦はこの命を殺そうとしたことを、深く悔いたという。
ドクターが「もしも本当にこの子を望まないのなら、わたしが引き取ります」と言ったそうだが、もちろん、そんなことはしなかった。
このドクターの行動の善し悪しはさておいて、そのような経緯で、アルウィンはこの世に生を受けたのだった。確かに一般のドライヴァーとしての給与だけでは、とても3人の学費や生活費を賄えない。
子供のいない我々夫婦にとっては、次の世代を「間接的に」育てるという意味において、ドライヴァーだけでなく、過去のメイドの子供、庭師の子供も含め、学費支援を続けてきたのだった。
学費支援だけではない。使用人との間には、適度な距離感を保たねばならないと心得てはいるものの、移動の車中、世間話をすることも、たまにある。彼から相談とも悩みともつかない子供の話を聞くことも少なくない。
子供たちが中学生になったあとの数年間は、反抗的な息子らに手を焼いていた。わたしには子供がいないが、そこそこの知識があるし、何より自分が子供の時のことをよく覚えているから、彼らの心理は理解できる。
折に触れて、自分にわかる範囲での提言をしてきた。直接の関わり合いがなくとも、3人の子供たちは、わたしにとって、姪や甥のような距離感なのかもしれない。
◎理不尽で、むごすぎる、死の知らせ。
水曜の夕方、猫らをペットホテルに預けたあと、アンソニーは我が家に立ち寄った。ちょうど年に一度の健康保険の更新時期だったので、その小切手を渡していたのだが、「小切手を現金化できました。ありがとうございます」と知らせに来てくれた。
そして、その日の夜の列車で、彼ら家族5人とアンソニーの母親、総勢6人はヴェランカニに赴いたのだった。
「気をつけて。よい旅を!」
と言いながら、最後に彼の顔を見た時、一抹の「寂しい感情」が、胸の底に波打った。あとからの、こじつけではない。旅行前の楽しい感じが、漂っていなかったのだ。
のちになって、メイドのマニが同じことを言っていた。
「マダム、わたしは最後に駐車場でアンソニーに会った時、なんだかとても嫌な感じがしたんです。胸がざわざわするような。まさかこんなことになるなんて……」
* * *
彼らがヴェランカニに到着した翌朝、長女アリスから電話があった。
「上の弟のアンソンが、波に飲まれて行方不明になりました。5人の従兄弟たちと遊んでいて、みんな波に飲み込まれました。4人は戻ってきましたが、アンソンだけが、もう2時間以上探しているけど、見つかりません。父や親戚がみんなで探していますが、見つかりません。発見までに2、3日かかるかもしれません」
要約すれば、このような内容だった。
彼女は努めて冷静に話していたが、どれほど動揺していたことだろう。
遺体が見つかったわけではない。どこか浜辺にでも打ち上げられて助かる可能性もあるかもしれないと、続報を待った。
正直なところ、彼らが毎年訪れている場所が、海辺だとは知らなかった。出発前には「今はサイクロンの時期だから気をつけてね」などと話をしていたのだが、まさか海で泳ぐとは思いもよらなかった。
この時期の海、危険だから泳いではいけないと誰も言わなかったのだろうか、そもそもスマトラ沖大地震の時、南インドの東側沿岸部は甚大な被害を被っているはずで、海への畏怖はあったのではないか……。
いろいろな思いが巡った。
昨日、歯医者を訪れた時に、やはりクリスチャンであるドクターにこの話をした際に知ったのだが、ヴェランカニはインドのクリスチャンにとって聖地ともいえる場所らしい。海に面して、有名な聖母教会があり、多くの巡礼者が訪れるのだという。
2004年のスマトラ沖地震のときには、津波で多数の巡礼者が死亡、インドでは最も被害の大きかった町だったとのこと。
「僕の家族は敬虔なシリア正教の信者だけれど、僕はそもそもから宗教を信じてないよ。母を喜ばせるために、子供の頃から教会に行ったりしていたけれど。今回のことだって、そうでしょう? 巡礼に行った先で子供が死ぬなんて! 津波で大勢が死んだ時、犠牲者の大半は巡礼者だった。それをして、司教は言ったんだよ。その死には、意味があるって。たとえば子供の死に、どんな意味があると思う?」
自分の子供を喪った時に、そこに意味があったとして、喪失を埋めてあまりあるものなど、なにひとつないはずだ。
この巡礼地の海では、以降も毎年、多くの人々が溺死しているという。地元の人たちは耐えかねて、標識を立てかけたり、ヴォランティアでライフガードをしているとの話もあるようだ。
こんな時期の、そんな海で、なぜ? 一緒に遊んでいた従兄弟には、地元の子がいたはずなのに、なぜ止めなかった? 親だってもっと注意すべきだったのでは……?
腹立たしくなるまでに浮かんでくる疑念さえも、虚しい。アンソニーはじめ、周りの人たちはもう、防げたはずの死を防げなかったことを、とてつもなく悔いているはずだから。
そして翌金曜日の朝。
電話の着信画面に、「Antony」の文字。息も詰まるような思いで電話をとれば、電話の向こうで、彼が号泣している。長男アンソンの遺体が上がったという。そのことだけを絞り出すような声で伝えて、あとは大きな泣き声。そして唐突に、電話は切れた。
その直後、わたしのWhatsAppに、遺体の写真が送られてきた。砂浜に横たえられた遺体は、うっすら鼻血が出ていたものの、そのときはまだ、眠っているかのように穏やかだった。
水死体ほど悲惨なものはないと聞く。遺体がひどく傷む前に見つかったのは、せめてもの救いだったかと思う。
金曜の夜、再びアンソニーから電話があった。今夜、柩と共に、列車でバンガロールに戻るという。明日の午後、教会で葬儀をし、その後、墓地に埋葬するとのこと。涙を堪えつつ報告してくれる。
もう、かける言葉がない。
そして土曜の午後、夫と二人、葬儀の行われる教会へ赴いた。棺の中に花に埋もれて横たわるアンソンの、しかし露出した顔の部分が、遠目にどす黒く変化しているのを認めて、とても正視できない。最後のお別れの献花のときには、棺を直視せず、傍に花を置くので精一杯だった。
昨日、メイドのマニに聞いたところによると、彼女は葬儀の前、土曜の朝に彼らの家を訪問したという。遺体は全身に黒ずみ、顔も傷だらけで、後頭部からは血が流れ続けていたという。
とてもアンソンとは思えず、誰か別の人の遺体じゃないかとアンソニーに問うたとのこと。
たとえきれいな状況で打ち上げられても、時間と共に遺体はひどく変化するものらしい。きちんとした病院ならば、きっと身体を包帯でぐるぐるに巻いてくれたはずだ。いやインドでは、そういうことはしないのだろうか。
愛すべき家族の、悲惨な姿を目にすること。いかばかりの、苦痛か。
◎果たして、これから先、いったいどうなるのだろう。
使用人を抱える習慣がない日本人に、「雇用主と使用人」の人間関係を理解するのは少し困難かもしれない。他人でありながら、他人にあらず。場合によっては、家族や親戚以上に、相手のことを知っている。なにしろ6年間も毎日顔を合わせていれば、相手のことが身近になって当然である。
もはや、他人とは呼べない縁で繋がっているドライヴァー一家と、我々はこれからどのように関わっていくべきなのか。
こんな悲劇を前にしては、金銭的支援など、どうにも軽すぎる。軽すぎるがしかし、最低限できることは、まずそれだ。
しかしそれ以外にできることを、あまり思いつかない。
アンソニーはどんなに辛くても、仕事がある。仕事をしているときには、他に注意を向けられる。アリスにも仕事があり、アルウィンには学校がある。
懸念は専業主婦で家にいつづける妻だ。せめて2匹の猫らが、彼女の心を少しでも、慰めてくれればいいのだが……。
ただただ、静かに見守ることしかできそうにない。
わたし自身の悲しみではないのだから、考えすぎたり、ため息をついたりするのはよそうと思いつつも、昨夜までは本当に、打ちのめされていた。今朝になって、少し、気持ちが持ち直したので、今、こうして記録を残している。
やるべき仕事も待っている。わたしがあれこれと思い患ったところで仕方ない。ただ、悲しみというのではない、「気の毒すぎてたまらない」という心情に、ずっしりと引きずられてしまった。
葬儀のとき、アリスに「どんなに食欲がなくても、とにかく、ちゃんとご飯を作って、食べなきゃだめだよ」と言ったのが、唯一、意味のある言葉だったように思う。
一度、おすそ分けをしたら、とても喜ばれたケーキやプリンなどを作って、これからはときどき、渡そうと思う。
以下、Instagram/ Facebookに残した記録を転載。
●11月9日(木)午後
我が家に勤続6年の頼りになるドライヴァー、アンソニー。昨日の夜から、妻と子供たち(女1人男2人)を連れてタミル・ナドゥの故郷へ休暇に出かけた。
1時間ほど前、長女から悲痛な電話が入った。家族みんなでビーチで遊んでいたところ、長男が高波に飲み込まれ、もう何時間も行方不明だとのこと。アンソニーとは直接、話をしていないが、捜索してもらえている様子はない。警察からは、2、3日待たないと……と言われたとのこと。
なんということだろう。気の毒すぎる。
天候が不安定なこの時期の海は、危険だ。日本であれば「お盆過ぎの海は入ってはならない」といわれるが、タミル・ナドゥにはそういう言い伝えのようなものは、ないのだろうか……。一昨日、「サイクロンの影響で天候が不安定だから気をつけて」という話をしたばかりだったのに。周りの人は、海へ行くことを止めなかったのだろうか……などと、思い煩ったところで、やりきれないだけだ。
あまりのことに、どうしていいのかわからない。どこか浜辺に打ち上げられて助かるということは、ないのだろうか。そう願いたい。生きていて欲しい。
●11月10日(金)朝
ドライヴァーのアンソニーは休暇を取り、一昨日から家族5人で故郷のタミル・ナドゥへ赴いていた。昨日、海辺で長男が行方不明になったとの知らせを受けた。そして今朝、遺体が見つかったとの電話。アンソニーが、電話の向こうで泣き崩れている。大声で泣いていて、もう何を言っているのかもわからない。
17歳。来年は大学進学か、就職か、考えていた矢先。
奥さんは、大丈夫だろうか。長女は、次男は……。
アンソニーは、家族思いで、心配性で、ときどき感情が乱れるけれど、妻は、いつも安定のやさしさで夫と子供らを見守っている、そんな家族だ。猫嫌いだったアンソニーが、慈愛深くなり、2匹の子猫を引き受けた。今回の旅も、不在時の猫を人に任せるのは心配だからと、ペットホテルに預けに行っていた。
信心深く、「善良」を絵に描いたような、いい家族なのだ。もちろん、ちょっとしたあれこれはあったけれど、そういうことを補ってあまりある、本当に善き人たち、なのだ。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。今はちょっともう、言葉がない。どうしていいのかもわからない。どうして彼らに、こんなにも地獄みたいな試練が与えられなければならないのだろう。
●11月10日(金)夜
メメント・モリ。死を思え。
ポルトガルのエヴォラの、サン・フランシスコ教会の納骨堂は、壁面が人骨で覆われていた。あの教会を訪れたのは、まだ30歳を過ぎたばかりのころだった。
死を思えども、死はまだ、遠いところにあった。不意に訪れる若き死が、至るところに在ることを、知っていてなお、「肌身には」感じられなかった。
しかし、生きていくにつれ、身近での火災、大小のテロ、身内の病死、友人の事故死、抗いようのない天災……。歳月を重ねるごとに、生き死にの関わりも増えていった。
そして思う。
生きている人は「紙一重」の違いで生きている。死んだ人は「紙一重」の違いで、死んでいる。
思慮浅く、冒険心が勝る若いころには、危険を危険とも思わずに、無謀なこともしてきたものだ。だから、若い人たちに、無茶をするなとは言いたくない。けれど、こうして若い死を目の当たりにすると、浅はかな好奇心が、一瞬の揺らぎが、致命的になることを、案ぜずにはいられない。
人の命の、強さ儚さ。激戦地で生き延びる命。難病を克服する命。漂流から生還する命。無数の強い命がある一方で、突然、ストンと暗幕が落ちるみたいに、消える命。
* * *
死を詳らかに人に示す国は、多分、インド以外にもあるだろう。しかし、その露骨さという意味で、この国は極めて特異かもしれない。新聞に遺体の写真が掲載されることも、珍しくない。最近は少し減った気がするが……。無論、ヒンドゥー教、イスラム教、キリスト教、スィク教と数多くの宗教が混在するこの国では、多数派や平均値を語りにくい。一概にはいえない。
それでも、たとえばまるで祝祭のように、派手に太鼓をかき鳴らし、遺体を神輿に乗せて練り歩くヒンドゥー教徒の葬儀の様子を初めて見たときには、呆然と言葉を失した。
そんな精神世界が根付いているせいなのか。
今朝、アンソニーから「遺体が見つかった」との連絡があったあと、WhatsAppで、長男の写真が、届いた。遺体が翌朝に見つかることは、かなり稀なことだと聞く。遺体がすぐに戻ってきたのは、せめてもの、救いだったか。
彼はただ、泳ぎ疲れて眠っているようかのように、静かに、海辺に横たわっていた。上の写真は、遺体の向こうに広がる砂浜と、水平線だ。
今日は週に一度の、ミューズ・クリエイションの集いの日だった。お茶の時間に、メンバーにこのことを話しつつ、みなで、生死の狭間の出来事などを語りつつ、申し訳なくも、少し重い午後。なにしろアンソニーは、ミューズ・クリエイションのあれこれを、サポートしてくれている大切な助っ人でもあり。
夕刻、アンソニーから電話があった。これから列車で、遺体をバンガロールまで運ぶという。そして明日の午後、教会で葬礼を営む。
心の底から気泡のように、いろいろな言葉が浮かんで、漂っては、消え、漂っては、消え、を繰り返している。
●11月11日(土)午後
[Sad News 別れの礼拝]
Antony, who is working for us as a driver about 7 years, and his family (wife, daughter and two sons) took the holiday to go to his hometown in Tamil Nadu on this Wednesday.
I got phone call from his daughter, who is 19 years old, around noon on Thursday. According to her, one of her brothers, Anson 17 years old is missing in the sea. We are very confused and upset, but we couldn’t do anything.
Antony called me yesterday morning. He was crying over the phone. He just told me that they found Anson’s body. He could not speak anything other than that.
When five relatives’ boys were playing in the beach together, suddenly huge wave caught them, and they were washed away. Four people were exhaled from the sea, but only Anson had been swallowed.
The family came back to Bangalore late last night. Arvind and I went to the mass which was held in the Holy Ghost Church in Richards Park this afternoon.
They are truly a wonderful family. Why was such a cruel fate given to them? I have no words to say.
石造りの、簡素ながらも厳かに麗しい教会で、アンソンの葬儀は行われた。祭壇には、白い花が飾られている。紫色の法衣を纏った神父は、夫にもわたしにもわからないこの土地の言語、カンナダ語で、参列者に語り続ける。
カラフルなサリーや、シャツを身につけた参列者は、何度か立ち上がり、賛美歌を歌う。耳覚えのない、朗らかに長調の、カンナダ語の賛美歌。「ハレルヤ」という言葉だけが、ぽつぽつと、浮かび上がってくる。
最前列の、頭を丸めたアンソニーと、妻と、長女と、次男の姿が、揺らいで見える。
高い天井を仰ぎ見ながら、この国に遥か遠い昔から息づいているこの宗教への、篤い信仰心を持つ人々に囲まれながら、この理不尽な事態を呑み込めない。
なぜ、こんな季節の海に入ったのか。
未然に防げたはずの死。ゆえに、後悔や、罪悪感が渦巻いて、一層の苦しみとなっていることだろう。
時計を巻き戻したいと、絶望的に念じているだろう。強く念ずれば、巻き戻せるような気さえする。けれど、決して、巻き戻すことはできない。
多分、190センチ前後はあったに違いない、アンソンは細身で長身の青年だった。長い棺に横たわり、花に埋もれて、しかし正視するに難く。
最後のお別れをして、墓地へ向かう彼らを見送る。
この6年間。わたしたちにできる限りの支援を、彼らにはしてきたつもりだ。それはもちろん、アンソニーが誠意を持って、わたしたちのために働いてくれていて、彼の働きが、とても大切であるからに他ならない。
インドにおいて、久しく使用人(ドライヴァーであれ、メイドであれ)と関わり続けるに際しては、多くの日本人にはきっと、俄かに想像しがたい、特殊な人間関係がある。家の鍵を預け、家のさまざまを、任せる。夫の実家や親戚の家には、勤続20年、30年を超える使用人が、彼らの暮らしを支えている。
我々夫婦とアンソニーの家族とはまた、主従関係でありつつも、「持ちつ持たれつ」なのだ。他人と割り切れる存在ではない。
書棚にある、アンソニーの子供たち記録ファイルを開く。この6年間。それぞれの子らの学費の内訳や、向こう5年の予算表などを眺めつつ、「2018年:アンソンは大学進学か就職」と書かれたメモが、胸に刺さる。
これから先しばらくは、違う意味での支えが、必要になるだろう。時間が解決してくれるような類いの悲劇ではない。決して癒えることのない痛み。
わたしたちにできることを、丁寧に考えていかねばと、思う。
* * *
今、アンソニーのWhatsAppを見たら、プロフィール写真がアンソンの写真に差し替えられていた。添えられている言葉に、絶句する。
I am proud of my son. Thank you God.
……神様!!!!
●継続しているドライヴァーを巡る熱い旅路。
(過去、我が家が見舞われたドライヴァーを巡るトラブルの歴史)
●日米印スタッフ共作。バイクCMの撮影を巡って。
(アンソニーがいたからこそ、引き受けられた仕事の記録)
●大停電/初潮/泣く庭師/ゴアまで「0km」探検
(使用人にまつわるエピソードなど)
◉日本在外企業協会刊『月刊グローバル経営』に寄稿した記事(2018年4月号)
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