12月24日。ミューズ・クリエイションからのクリスマスプレゼントを届けるべく、慈善団体のJAGRUTHIへ赴いた。我が家からほど近い住宅街の一隅にある家屋。そこはJAGRUTHIのオフィス兼、HIVの罹患者を含む、家庭環境が劣悪な子どもたちのホームである。
本来ならば、18人の子どもたちがいるはずなのだが、ロックダウンに入って以降、行政指導が厳しいとのことで、本当に帰る家がない数名を除き、子どもたちは再び、問題の多い自宅(主には、地方からの出稼ぎ労働者が暮らすスラム)に帰っているという。
創設者のレヌーは毎日短時間ながら、オフィスに来ているとのことだったので、その時間に合わせて赴いた。
1995年、レヌーによってその母体が立ち上げられたJAGRUTHIの活動は「重く」、そして幅広い。軸となるのは風俗産業に従事する母親、即ち娼婦(売春婦)の元に生まれ、虐げられた環境に置かれているスラム居住の子どもたちの救済だ。主な活動内容に、
●街中から、HIVなど性病に感染した子どもたちを救済し、医療措置を施す
●娼婦の子どもたちのための孤児院、施設の運営。医療や教育の提供
●スラムにある無償の学校の運営(ミューズ・クリエイションでも過去2回訪問)
●HIVや性病に関する啓蒙活動
●貧困層の女性たちへの職業訓練
……などが挙げられる。バンガロールは、人口の約3割がスラム居住者。ムンバイやコルカタなどのように特定の「赤線」、すなわち風俗街というのは、この街にないが、風俗営業を行う裏社会の個人、組織は、当然ある。
娼婦を母親に持つ子どもたちの多くが、遺伝的なHIV罹患者だ。このホームではそのような厳しい境遇下に生まれた子どもたちを住まわせてきた。
わたしはJAGRUTHIを訪れる以前も、バンガロールにあるHIVに罹患した人々をケアする複数の団体を訪問しており、それなりの予備知識は備えているつもりだった。しかし、初めて訪問した2018年、レヌーから聞いた話の内容は衝撃的で、闇の深さを思い知らされた。
病気をもった娼婦を「買う」人は、貧困層に限らず、富裕層にも及ぶ。適切な治療を受けていない人、避妊を怠る人たちは、HIVに感染し、罹患者をどんどん増やす。
そんな背景を知っているだけに、強制的に自宅へと戻らざるを得ない子どもたちの身の上は、案じるに余りある。オフィスでコーヒーをいただきつつ、貧しき人がさらに貧しく苦しむことになる、このパンデミック禍を憂いつつ、しばらくレヌーと話をした。
わたしはライターとして、これまで無数の人たちをインタヴューしてきた。話を聞くときには、自分の話をして打ち解けるほうが、相手から話を聞きだしやすい。ゆえに、簡単に自分の考えを伝えたり、身の上を説明することにしている。
無論、今日はそんなつもりは毛頭なかったが、いつもの癖で問わず語りに、自分がインドに来た背景を話していた。
若いころから自分のキャリアの構築に精一杯で、慈善活動に興味もなかったのに、インドに来てから意図せぬさまざまな出来事が連鎖して、ミューズ・クリエイションを立ち上げることになったこと。
グループ活動が苦手で友人も少なく、独立独行で孤独な時間が心地いいと感じていた自分が、毎週金曜日に大勢のメンバーを招き、のべ8年間に亘って228名のメンバーと、さまざまな活動をしてきたこと。
わたし自身の好むと好まざるとに関わらず、「そうせざるを得ない心境にさせられている」のだということ。
何か大きな力(敢えて言えば神様)に、大げさにいえば「使命」、軽やかにいえば「課題」を与えられているような気がしているといったこと。
そしてそれは、誰のためでもない、まずは「自分のためだ」との思いを、歳月を重ねるに従い、強くしていること……。
そんな話をしたあと、なぜレヌーがJAGRUTHIを立ち上げることになったのかを尋ねた。
* * *
彼女はケララ州との州境にあるクールグ(コーヒーの産地としても有名)で生まれ育った。若いころに父親を亡くしたことから、母親や弟たちの面倒を見るなど、責任感の強い女性だったようだ。
起業家精神に富んでいた彼女は、ガラスや鏡の製造販売のビジネスを手がけ、パートナーと組んで規模も大きく事業をしていた。同時に、「虐げられた境遇の人々の存在」が念頭にあり、慈善活動なども行っていた。
彼女の人生を大きく変えたきっかけは、1995年、コルカタへ出張へ行った時のことだった。
ある日、有名なヒンドゥー教寺院である「カーリー寺院」へ赴いた。ところがその日、寺院は閉まっていた。どこか他にいくべきところはないかとドライヴァーに尋ねたところ、彼は彼女を、マザー・テレサの「死を待つ人の家」へ連れて行った。
中へ入ろうとすると、見学時間外だったのか、スタッフの女性から引き止められた。
しかし、どうしても気になった。入れて欲しいと交渉していたところ、奥の方に別の女性から「あとから来なさい」と言われた。しかし出張中につき、あとからは来られない。その女性の言葉にケララ州のマラヤラム語訛りを聞き取ったレヌーは、彼女が同郷人だと伝えて親しげに話しかけた。
その結果、館内を案内してもらえた。そこは消毒液のにおいに満ちていた。筆舌に尽くしがたい、むごい姿で最期のときを迎える人たちもいた。
レヌーは強い衝撃を受け、どうしてもマザー・テレサに会いたくなった。と、案内してくれた女性が、マザー・テレサがいる場所へと連れて行ってくれた。
その中庭のようなところでは、大勢の人たちが、マザー・テレサに一目会おうと待機していた。しばらくしてのち、マザー・テレサが外に出てきた。
マザー・テレサは、大勢の人々の中にいたレヌーへ向かって、なぜか、まっすぐに歩み寄ってきた。
そして彼女の手を握り、「あなたは、ここで奉仕活動をしなさい」と告げた。レヌーは、かつて味わったことのない強い衝撃が全身を巡るのを感じた。感じつつも、自分にはビジネスがあるし、ここで慈善活動に人生を賭すと即答できはしない。困惑するレヌーに対し、マザー・テレサは言った。
「貧しい人 (Poor)、困窮している人 (Needy)、そして子どもたち (Children)を救済しなさい」
マザー・テレサは涙を流していたという。
その日を境に、レヌーの人生は一変した。ビジネスの権利全てをパートナーに託し、資金もごくわずかなところから、救済の活動を始めたのだった。
ある1日の、コルカタでの出来事が、彼女の人生を変えた。そして、以降の彼女の尽力によって、数え切れないほど多くの人々が、救済され続けている。
その、慈愛の連鎖の偉大さを、思う。
* * *
書き留めておきたいエピソードはまだあるのだが、長くなってしまう。
わたしは、彼女が自分の人生を人々の救済のために賭すと決めた経緯に、強く心を打たれた。そして今日の午後はずっと、このことが脳裏を渦巻いていた。
無論、彼女だけではない。インドに移住して、ミューズ・クリエイション創設以前から、いくつもの慈善団体を訪れ、その創始者に話を聞く機会があった。大半が、彼女と同じような「献身」を人生の軸とすべく、経験をされている。
わたしたちの身の回りには、そんな人たちも、大勢いるのだ。そして、そういう人たちの存在が、この動揺や混乱に満ちた、世知辛い世界において、大いなる心の支えにもなっている。
悪しき行いをする人ばかりを取り沙汰するのではなく、善き行いをする人の様子を、わたしはもっともっと、伝えたいと、改めて思う。
しかし、どうすればいいのだ……? こうやって地味に書き続けても、ここまで読んでいる人は、ごくわずかだということも、承知している。
自分の非力が、時に腹立たしく思う。もっと的確に、多くの人に、意義深い話を伝えられないものか。わたしの経験から得た役立ちそうな話を活用してもらえないものか。
ともかくは、こつこつ、こつこつ、続けなさい……と、自分に言い聞かせる、クリスマス前夜。世界にもっと、笑顔のような前向きなものが、広がることを祈る。
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先日もシェアしたばかりだが、同団体についてのバックグラウンドは、動画にも、ホームページにもまとめている。コメント欄にリンクを記載しているので、ご覧いただければ幸いだ。
🎄 🎄 🎄
メリー・クリスマス。