とは、上の写真のことである。どんなに往来の激しい通りでも、なんの危機感もなく、悠然としていられるインドの牛。一方の人間はといえば、前後左右、常に注意を払っていなければ、車にはねられること請け合いなインド。
いっそ牛の着ぐるみでも着て歩きたいものである。
そんな話はさておき、ようやくアンケートのお返事(その2)である。答えるのは結構楽しくて、またしても長々と書いてしまった。
インドやアメリカでの経験を本などになされる予定はないのでしょうか? ブログのバックナンバーでも、相当量の情報があり、大変貴重だと思いながら拝見していますが、テーマを定めた本にされたら…といつも思いながら拝見しております。
本の執筆は? 街の灯・インド編を楽しみにしてるんだけど。
ニューヨークでのエピソードを描いたエッセイ『街の灯』を出したのは2002年。あれから早くも7年がたちました。
自分が書いた文章が本になるというのは、他の仕事やインターネット上に書き流す文章とはまったく異質の、達成感や喜びがあります。その分、その内容にもよりますが、簡単には出版できません。
あの本を、自費出版ではなく一般の出版社から出してもらえた経緯は、「奇跡的」といっていいほどの出来事でした。と、担当の編集者もおっしゃっていました。
たまたまポプラ社の成人向け書籍のための編集部ができたばかりのときで、偶然そのホームページを見つけたわたしは、ピンと来るものがあり、編集部宛にそれまで書いていたメールマガジンの中からいくつかを選んで送りました。
数カ月間、音沙汰がなかったのですが、あるとき編集者の目に留まったらしく、出版のための書き下ろしを依頼され、出版が決まったという次第です。
しかし、執筆の途中で「9/11」が起こり、出版が半年以上延期されるなど、紆余曲折がありました。自分としては、今読み返しても、なかなかにいい本だと思うのですが、たいして売れませんでした。
そもそも、利益をあげる目的で出版を望んでいたのではありませんが、営業その他で「赤字になりすぎ」な事態には、我ながら若干の不毛さを痛感しました。
また、タイトルや表紙のデザインを含め、当然ながら自分の思いが反映されるわけではなく、なかなかに苦い思い出もあります。
ところで印税で食べていける人は、ごくごく一握りです。よほど著名な作家でもない限り、ライターや作家だけで潤沢な収入を得ることはまずあり得ません。
そんなこともあり、わたし自身は、ライターの他にも、編集や取材コーディネーション、写真、広告制作、印刷物制作など、あらゆることをやってきました。なんだか話がそれてきました。軌道修正。
世の中には、本を出したい人はごまんといて、出版社へ原稿を送る人は無数にいます。特別なコネもなく、なんの受賞歴もなく、ましてや日本に住んでいないとなると、営業も簡単ではありません。
いつか「よき編集者」と巡り会い、出版の機会を得られれば、積極的に動きたいと考えますが、今は他の時間を削って営業をする根性がありません。
特にインドでは、書きたいことが次々と出てくるため、今はともかく「エクササイズ」の意味も込めて、書き続けている状態です。
まがりなりにもプロのライターが、無料でひたすら文章を発信することに、これでいいのかと自問することは多々あります。
が、今はこの方法が最良だと思っています。機が熟せば、また次の出版のチャンスは訪れるでしょう。それまでどれほどの時間がかかるのかわかりませんが、気長にお待ちください。
なお、まだ『街の灯』をお読みでない方は、ぜひお読みください。歳月が流れても錆びない、いい本です。アマゾンで、まだ買えます。中古なら258円(←文字をクリック)。お安いですよ。
アメリカやインドで、お仕事を始める際に苦労されたことはなんですか? 特に、アメリカ時代にどのように職を得ていらっしゃったのかなと思っております。
それは『街の灯』を読んでいただければ、さまざまなことが手に取るようにわかります。
自分で「苦労した」などと言いたくはありませんが、若干の無茶もしました。
その結果、幸運にも、それなりに仕事を得、それなりにしっかりと収入を得てきました。インドに暮らしはじめた今でこそ、そこそこに優雅な勇敢マダム生活を送りつつの仕事につき「地味な売上高」ですが。
人生、こんな時期もあってよいでしょう。また近々(数年後)、違う形でキャリアの巻き返しを図りたいとも思っています。
前回も、これまでのキャリアをお尋ねになる質問がありましたので、一両日中に関連記事のある書籍のページをスキャンして掲載します。
(少々個人的な質問で申し訳ございませんが)ご主人とはNYでお知り合いになったということでしたが、インド人の男性と恋に落ちたこと、もしくは異国出身の方と恋に落ちたきっかけはなんでしたか? 周りにも日本人ーインド人カップルがかなりいらっしゃるようですが、美穂さんや皆さんが、恋や結婚に踏み切きれた理由などが気になっています。
彼がインド人だったから、あるいは異国の男性だったから、好きになったわけではありません。
中には、「アメリカに住みたいからアメリカ人と結婚したい」「インド料理が好きだから、どうしてもインド人でなきゃいやだ」という人もあるかもしれませんが、わたしはそうではないです。
たまたま出会って、「一人の人間としての彼に興味を持った」というだけのことで、国籍や周辺情報は、あくまでも彼を育んでいる、あるいは演出している要素に過ぎません。
もちろんそれらは要素は、その人を構成する上で重要ですが、そこから遡って本人にたどりつく、ということはありません。
彼と出会った当時(坂田30歳)は、苦い恋愛の痛手を引きずっていた上に、1年間の語学留学のためにニューヨーク滞在中でした。
正直なところ、「男など、もうよい! 勉強してやる! 英語を武器にして、もっと海外取材に出る!」という心意気でおりました。ですから、今で言う「婚活中」でもありませんでした。
そりゃあ異国人とつきあうとなれば、日本人とつきあうのとは異なるいろいろな問題点などはありますが、大小はあれ、同じ国籍の人間同士でも問題はあるでしょう。それに「好き」とか「一緒にいたい」と思う気持ちは、国籍に関係ないでしょう。
別にクマやサルを相手にしているわけじゃないく、同じ種であるところの「人間同士」なのですから。
同じ日本人どうしても、家庭環境が著しく異なる人は存在するわけで、なまじ日本人同士だから相容れなければならない事態もありそうで、個人的には、そっちの方がダメです。
ところでわが夫は、日本語ができないのをいいことに、「お嬢さんを、僕にください!」なんていう緊張のシーンを味わうことなく、いつのまにか結婚の段取りは整っておりました。
わたしの親に対しても、電話で話す言葉は「オゲンキデスカ?」「ハイ」「ハイ」を繰り返すばかり。何もわかってなくっても、「ハイ」「ハイ」と言っておけばいいんです。お互い、話は通じていないのですから。
日本を訪れた際にも、「ヤキニク、オイシイデス!」「トロ、スキデス!」「ウニ、スバラシイ!」などと、ニコニコして幼児のようなことを言っているだけで、「よかったね〜」ということになり、楽なものでした。
一方の妻は、通訳に追われ、ゆっくり食事もままなりません。
また話がそれました。
ともあれ、相手の国籍を問わず、恋は踏み切ってするものではないような気がします。自然と育まれるものでしょう。
しかし、結婚に関しては、話は別です。特にインド人と結婚する場合は、日本では考えられないほどに複雑な社会構造が存在する上、家族や親戚との関わりが深く、さまざまなハードルが待ち受けています。
わたしの周囲にも、日印双方、もしくは片方の家族や親戚との軋轢に苦労している人は少なくありません。
わたしの場合は、幸いにも問題がありませんでした。かなり稀なケースだと思います。
夫の両親や親戚は、わたしを非常に歓迎してくれ、わたしを必要としてくれました。夫とは結婚前に5年間つきあっていましたが、その間に何度も彼らに会う機会あり、米国でも何度か一緒に旅行もしていました。
唯一問題だったのは、「僕はまだ若い!」と言い張り、なかなか結婚に踏み切ろうとしなかった、マイハニーでした。まあ確かに28歳でしたし、若かったと言えば若かったなと、今になって思います。
ちなみにわたしは、もしインドの家族に結婚を反対されたり、嫁いびりをされるような目に遭うことがわかっていたら、絶対に結婚してはいませんでした。威張っていうようなことでもありませんが。
そこまでして結婚したいとは思っていませんでしたし、そんなことならシングルでいた方がいいと思っていました。別の恋愛のチャンスもあるかもしれませんし。と、今だから好き勝手、言えるのかもしれませんが。
つまり、わたしたちの「絆」とは、その程度のものでした。誰もそんなことは聞いてないですね。失礼しました。
蛇足ですが、インドに暮らすようになって、米国時代には受け入れられなかった夫の素行のいくつかについて、「こういうことだったのか」と納得し、寛大に受け入れられるようになったことは少なくないです。
国際結婚では、互いの育った環境を心で理解することが大切なのかもしれないと、それは最近、気づき始めたところです。
そちらで売られているマンゴーは無農薬ですか? 日本のように、ネットで木を覆い、袋がけなどされてはいませんよね? バンガロールでマンゴーの木を見たいなと思ったのですがありますか?
マンゴーが大好きな方からの質問です。マンゴーについて詳しいわけではありませんが、マンゴーにはたいそうたくさんの種類があり、無農薬のもの、農薬使用のものと両方あります。
また熟れる直前のものを収穫したもの、あるいはまだ熟していないものを早めに収穫して市場に出しているもの、さまざまです。わたしは、バンガロールにおいては、義姉スジャータに聞いて、「季節限定販売の店」というか「小屋」に行き、購入しています。
なお、アルフォンソ・マンゴーについては、ムンバイ周辺が産地ですから、ムンバイの市場で購入します。過去にもマンゴーのことはあちこちで記していますから、検索なさってみてください。
「museindia.typepad.jp/blog マンゴー」(←文字をクリック)で検索すると、わたしのブログだけで110件、ヒットします。この3年というもの、どれだけマンゴーのことを書いて来たのか、どれだけマンゴーを食べて来たのかと、我ながら驚きます。
現在私の最大の悩みは英語力です。ここに来て3年半が過ぎ、気がつくと英語が全く上達していない自分に気づきましたー。ぼんやりとインドに住んでいるだけでは、英語は身につかないと深く理解いたしました。英語のクラスに行き始め、自分でも単語力をつけるような勉強をしていますが、はたして上達するのかと不安を感じます。主人と英語で会話をするという事も始めましたが、主人が忙しすぎてしゃべる時間がありません。
そこで質問です。美穂さんのアメリカ時代も含め、「英語の力が上がったな」と、思った瞬間はありましたか?また、なにか上達のアドバイスがありましたらお願いいたします。
英語力。についてわたしに語る資格はありません。なぜなら、まだまだ努力不足過ぎるからです。自分の努力不足を認めるのは楽しいことではありませんが、英語やヒンディー語に関して、もっと真剣に取り組め! と何度自分にいい聞かせつつお茶を濁して来たことか。
「坂田さん、十分、しゃべれるじゃない!」
と思ったわたしを知るあなた。それはあなたの英語力があやしい。確かにしゃべります。コミュニケーションを取らねばならなりませんからね。言いたいことも、いろいろありますし。
子どものころ英語圏に暮らしていた、学生時代に猛烈に英語の勉強した、あるいは語学のセンスに長けている、といった人でない限り、ある程度大人になってからの英語の勉強は、よほど本腰を入れなければ、実りません。
わたしは高校時代までは、世間と同様の英語の勉強をしておりました。大学時代は日本文学を専攻しており、いちおう英語の授業もありましたが、ろくに勉強はしていませんでした。
つまり社会に出てからも、日本の大勢の人たちと同様、英会話などできませんでした。
海外取材や海外旅行に出かけるなか、あまりにも自分の英語のできなさすぎに嫌気がさし、1995年、29歳のときの3カ月休暇を取り、英国に語学留学をしました。
ものすごくがんばって勉強しましたが、とても納得のいくレヴェルに達しませんでした。
そんなことから、「来年はニューヨークで1年語学留学するぞ」と目標を決めて、猛烈に働いて資金をためて、1996年に渡米したのです。しかし、米国では諸事情により、3カ月間語学学校に通っただけに終わりました。
その後は、仕事をしはじめ、アルヴィンドとも出会い、会社を起こして独立し、それなりに英語を理解せねばならない状況に追いやられ、ニューヨークで生き抜くために最低限の英語は身につけましたが、しかし文法的に間違っていたり、挙げればきりがないミスがたいそうあります。
聞き取りにしても、対面しての会話はそこそこ可能でも、電話では相手の言っていることがわからない、テレビのニュースがわからん、講演会もとんちんかん、映画もややこしいストーリーはもうお手上げ、といった具合に、問題だらけでした。
結婚して、ワシントンDCに移り、夫とは毎日英語で話をしていましたが、だからといって劇的に英語力がのびたわけではありません。
考えてもみてください。あなたは普段ご主人と、どれほど「込み入ったややこしい会話」をしていますか? 日常の会話は、かなり簡単で、しかもあっさりしたものではないでしょうか?
つまり、たとえ英語圏に、英語で会話をする家族と住んでいたとしても、それだけでは「ある程度しか」上達しないのです。
そんなわけで、自分としては「劇的に英語の力が上がったな」と実感することなく、月日が流れました。
ただ、学生時代、歌詞の意味もわからずに聞いていたビリー・ジョエルの曲を久しぶりに聞いて、「意味がわかる!」と感動したことはありました。渡米2、3年目のことだったと思います。
そんなわたしに大きな変化を与えてくれたのは、2003年の夏でした。我々はいつものように、くだらんことで、大げんかをしていました。当時はしばしば、激しいバトルを展開していたのです。
そのとき、アルヴィンドはわたしにこう言いました。
「ミホの英語、なんて言ってるか、全然わからない! ミホはその英語力で、今後アメリカで生活してくつもりなの!?」
鋭いところを突かれて、堪えました。
実はこのままじゃいかん、英語力をなんとかせないかんと思っていたころで、ちょうどジョージタウン大学の英語集中コースの資料を取り寄せていたところでした。
しかし、3カ月間も毎日フルタイムで通うのは、仕事もあるし無理だと諦めていたのです。すでに申し込みの締め切りは数日前でした。
しかし、翌日、無理を言ってでも入れてもらおうと、ジョージタウン大学に足を運んだのです。と、無理を言わなくても、歓迎してもらえました。
3カ月間、ものすごく勉強しました。勉強しました。筆記テストでは、本当は下のクラスだったのですが、筆記はだめでも、他のクラスメイト(みな若かった)よりはしゃべることができたのです。
だいたい、TOEFL、TOEIC、英検と、テストらしきものは一度も受けたことがなく、まともな点数が取れようもありません。
実力は下のクラスだということを自覚していましたが、しかし無理をしてでも上を目指したいと、先生に頼み込んで、上のクラスに移してもらいました。
クラスメイトは若い人だけでなく同世代、年上の人もいて、バックグランドもさまざま、英語以外にも学ぶことがたくさんありました。
宿題もたっぷりで、朝な夕なにテキストに向かい、本当に努力しないと追いつけなかったのです。たくさん英文を読んで、たくさん単語も覚えました。
なのに嗚呼! 今となっては、たくさん忘れてしまいました。
そのときの研究論文のテーマに、インドの頭脳流出、ひいては「インドの新経済」を選んだことから、インドに興味を持ち、インドに住みたいと思うようになり、結果インドに移住しました。
あのとき語学学校にいかなかったら、わたしたちは今ごろ、まだアメリカにいたかもしれません。つまり、夫の「その英語力でいいのか!?」という叫びが、わたしたちをインドへ導いたといえましょう。
ああ、またしても、質問の内容からそれた、長大な回答になってしまいました。
何が言いたいのか自分でもわかりませんが、ともあれ3カ月の勉強は、その時点ではかなり手応えはありましたが、勉強は「続けなければだめ」だということも学びました。
今なお、発音、文法、語彙力、すべてにおいて、精進の余地がたいそうある身の上です。
日々、もっと英語の本や新聞をしっかり読んだり、わからない単語を覚える努力をしたり、簡単なところから……。お互いがんばりましょう!
インドでは遺体を河に流すので墓がないと聞いたことがありますが、現在は変わってきてたり、地域によっても違うのでしょうか。日本では墓地が高かったり、跡継ぎがいないと寺の墓が買えないとか、最近は海に流したり樹木の下に遺灰をまいたりする樹木葬が行われたりと変化してきてるのですが、インドの墓事情はいかがかなと関心をもってます。
詳しいことはわかりませんが、ヒンドゥ教徒はいまでも河川に流します。一昨年他界したダディマも、火葬の後、ヤムナ川に流されました。アルヴィンドの亡母もヤムナ川です。
しかし、インドにはキリスト教徒やイスラム教徒もおり、土葬です。火葬されず、墓地に埋葬されます。またムンバイに多いパルシー(ゾロアスター教徒)の人たちは、そもそも鳥葬(←文字をクリック)でした。
今は太陽熱を利用した埋葬方法に変わっているとの話を聞きますが、「沈黙の塔」(←文字をクリック)と呼ばれる鳥葬場は、ムンバイにもバンガロールにもあります。
以上、質問の答えでした。