センチメンタルもまた、人生に不可欠のスパイスなのだな。ということを、秋のある国の空気に思いを巡らせながら、思う。
衣替えが不要で、年中、同じ服を着て、ANOKHIやSOMAの木綿の服は色あせて、しかしそれに目が慣れて、ある日突然、「飽きた、この服」と思うのだが、肌になじんだ服は心地よく、処分できずにいる、そんなインドの日々。
人々の長袖のジャケットや、赤や黄色に色づく木の葉や、目覚めのひんやりとした空気や、キンモクセイの香りに、秋の訪れを感じることはできないけれど、時にはあの、初秋の黄昏に伴う感傷的な心境に浸るひとときが、人には必要なのかもしれない。
相変わらず夏の部屋着で、天井のファンは回って、手ぬぐいは傍らで、常夏状態だったにも関わらず、そこはかとなく気が沈んでいた今日のわたしは、単なるバイオリズムの下降日であろうと、いつものように判断していた。
しかし、インターネット越しに、日本の秋や米国の秋が迫って来て、ああ、秋だからかもしれない、と納得したのだった。
感情と同時に、「秋」で刺激されるのは食欲。おはぎや栗など、日本的な秋の味覚が懐かしい。
遠い昔、母方の祖母が、おはぎというよりは、ダイナミックな「ぼたもち」を山ほど作ってくれたことを思い出す。つぶあんがたっぷりで、本当においしかった。きな粉がまぶされたものもまた、おいしかった。
たちまち、炭坑の町の記憶が蘇る。
生まれたのはたまたま父の転勤先の熊本だったが、1歳からずっと福岡市内で育ったわたしにとって、お盆やお彼岸の折、両親に連れられて訪れる祖母の家のある筑豊地方、嘉穂郡の桂川町吉隈界隈の情景が、「ふるさと」であった。
母はこの炭坑の町々のことを思い出すことを嫌っていたが、わたしにとっては、さまざまに忘れがたい原風景が横たわっている。
仏壇の傍らで回る壁を彩る巡る走馬灯。
水菓子盛られた小さき船携えて精霊流し。
ぼた山に上れば、鋭い草肌切りつけて、赤い糸のように傷痕。
夕日を透かした橙色のほおずきの鳴らせず苦み。
遠く近くにひぐらしの声、風鈴の音。
たらいの水に冷えるスイカ、アイスキャンデーの滴。
つゆがなくなって、水っぽくなっても頬張るそうめん流し。
火花飛び散らして最後、しめくくる息を殺して線香花火……。
炭坑。といえば、先日までシリーズでやっていた「官僚たちの夏」。インターネットで最終回まで見た。
9話、そして最終回である10話は昭和40年、つまりわたしが生まれた年が描かれており、9話のテーマに炭坑があったこともあり、非常に興味深く見た。
炭坑を巡る記憶はまた、さまざまにあるのだが、炭坑の悲哀の象徴のような記憶は、従兄弟の死を巡るものである。
当時は、北海道や九州で相次いで炭坑事故が起こった時期だった。わたしが生まれる直前(数カ月前)にも、炭鉱事故が起こった。その事故は、間接的にわたしの従兄弟Kくんの命を奪うことになった。
当時3歳だか4歳だかだったKくんは、オートバイに撥ねられて、病院に運び込まれた。しかし、折悪しくも炭鉱事故が起こった直後で病院はいっぱいだった。
どこの病院からも受け付けてもらえず、傷だらけの彼は、息があるにもかかわらず、治療を受けることができず、自宅に戻るしかなく、数日後に亡くなったという。
彼には弟がいる。その弟Yちゃんは、わたしのひとつ上で、子どものころは一時期、近所に暮らしていたこともあり、わたしたち姉妹とは兄弟のような間柄だった。
まだ赤ん坊だったはずのYちゃんは、しかし、亡くなった兄のことを「K兄ちゃん」と呼び、「僕はK兄ちゃんのことを、覚えている」と、ときどき話してくれた。
あれは小学校低学年のときだった。Yちゃんが、神妙な顔をして、わたしを呼んだ。思い詰めたような顔をしていた。
「ぼく、見てはいけないものを、見てしまった」
彼はしばらく、沈み込んでいた。そんなに沈み込んでいる彼を見るのは、初めてのことだった。
だからこそ、わたしは「何を見たの?」としつこく問いただしたのだと思う。同じ日だったか、それとも、日をおいてだったか、よく思い出せないが、ともかくYちゃんは決意したような顔をして言った。
「絶対、誰にも言っちゃだめだよ。僕が見せたことも、そしてみほさんが見たことも」
何度もしつこく念を押したあと、子供部屋からわたしを連れ出して、両親の寝室に連れて行った彼は、引き出しの奥から、紙に包まれたモノクロの写真を取り出して、見せた。
それは、血のにじんだ包帯でぐるぐる巻きにされたKくんが、祖母に抱かれている写真だった。
確か数枚、同じような写真があったように思う。言葉を失い、じっくりと見ることができなかった。しかしその光景を今でも思い出せるくらい、強烈に脳裏に焼き付いた。
Kくんは、愛嬌のある、とてもかわいい男の子だったと、聞いていた。今こうして思い返すに、伯父や伯母、祖父母、とりまく親戚の人々が、どれほど心を痛めただろうかと、今更ながら、思われる。
Yちゃんには、「絶対、誰にも言っちゃだめだよ」と言われていたが、もうずいぶんと歳月を重ねたので、書き記すことを許してほしい。
三井三池炭坑、山野炭坑と、事故が続いた果てに、炭鉱は次々に閉山。エネルギー革命の影響を受けて、やがて筑豊の石炭の時代は終わった。あとには、陽気な旋律の『炭坑節』だけが残り、盆踊りを賑わわせた。
月が出た出た、月が出た。三池炭坑の上に出た……。
炭坑の閉山と同時に、周辺の過疎化は進んだ。ぼた山も少しずつ、消えて行った。
そういえば、先日、幼少時の鮮明な記憶について触れた時、祖父が蒸気機関車に乗って故郷をあとにする息子たちを見送る場面のことを書いた。あれは、地元に雇用機会を失った叔父家族たちが、愛知県の豊田市(トヨタ自動車)に出稼ぎにいくときの情景だったのだ。
ちなみに当時のトヨタ自動車は、炭鉱離職者の労働力を活用していたようである。
小学校にあがるころには、祖母宅を訪れるたび、閉校された小学校の校舎や廃墟と化した銭湯を探検するのが楽しかった。その哀愁のなんたるか、を知らずとも、あたりに充満する悲哀、「宴の終わり」の雰囲気を、感じ取ることができた。
おはぎ、の記憶から、ずいぶん遠くまで来てしまった。今日もまた、仕上げなければならなかったはずの原稿に手を付けないまま、こんなことばかり、書いている。
明日は、がんばろう。