瞬く間に3泊4日が過ぎて、本日夕刻の便で、バンガロールに戻る。ここ数日のことを、書き留めておこう。
1カ月前に訪れたときと、今回の間に、ムンバイ市内でテロが起こった。が、ムンバイは、当然ながら、相変わらずだ。
空港やホテルの警備は以前から厳しかったし、渋滞はいつだってひどいし、いつものような混沌だ。
初日の朝食は、クラブルームのラウンジで。ここは人も少なく静かで、サーヴィスも行き届いているのだが、一般のダイニングルーム(カフェテリア)よりも料理の品数が少ない。
それでも、よい。静かな方が。
と思っていたのだが、お気に入りのクロワッサンが、しっとりしている。モンスーンのせいもあるだろう。階下のキッチンから運んでくる間にも、湿気に襲われるだろう。
でも一応、給仕の男性に聞いてみた。
「焼きたて、ありませんか?」
「少々お待ちください」
と彼。直後、レストランマネージャーがやってきて、
「クロワッサンに、なにか問題でも?」
と深刻に問う。さらには、緊張の面持ちで、シェフまでやってきた。いやいや、クロワッサンひとつでそこまで気遣われると、こちらも照れる。
シェフ曰く、
「時期的に、パンが柔らかくなり易いのです。温め直してきます」
やがて、電子レンジで「チン」してきたらしきクロワッサンが運ばれて来た。
ほかほかだが、ふにょふにょだ。15秒くらいがベストなところ、これは30秒かけた感あり。ってか、せっかくならオーヴントースターの方がいいんだけどね。
だけど、そんなことは言わず、有り難くいただく。それにしても、サーヴィスがよすぎるというのもまた、妙に妙な感じである。
結局、翌日と翌々日は、「サクッとしたクロワッサン」が食べたいがあまりに、賑やかなダイニングルームを選んだのだった。
見るからに、パリパリとしているのがおわかりいただけるだろうか。
形はちょっと、変だけど。
インドでこのクオリティのクロワッサン、なかなか口にできない。
ムンバイでは、わたしが知る限りにおいて、空港近くのホテル、グランドハイアットに隣接するモールの高級デリのベーカリーのクロワッサンがおいしかった。
今はどうか、知らんけど。
このクロワッサンと、煎れたてのコーヒーがあるだけで、かなり幸せ。
ついでにここのマフィンも美味なのだ。そんなわけで、ホテル滞在中の増量は免れないのだ。
一昨日。タクシーを手配して、南ムンバイへと向かった。北ムンバイと南ムンバイを結ぶシーリンクを使って。
この橋が開通してからというもの、南北の移動がずいぶん速やかになった。
以前は、空港への行き来も、今以上にずっと時間がかかっていた。
それでも南ムンバイに入ると、相変わらず随所で渋滞。
特にモンスーンの時期で、道路交通事情の悪さに拍車がかかっているのかもしれない。
ランチは、久しぶりにグジャラティ・ターリー(グジャラト地方の定食)でも、と思うが、その前に、急に、テキスタイルの気分。
先日、チャリティ・ティーパーティで『インドのテキスタイルとサリーの着付け講座』を開いたところ、予想以上に盛況だったうえ、サリーに目覚めた人たちも少なくなかった。
従っては、自らの目を肥やし、知識を増やしておきたい。
というわけで、久しぶりにお気に入りのサリーショップ、KALA NIKETANへ。クライアントをお連れしての視察旅行の際に、数回訪れたが、自分一人で訪れるのは、多分1年ぶりだ。
と、店内の様子がいつもとは違う。
年に一度の「モンスーン・セール」を数日後に控え、棚卸しの真っ最中であった。思えば去年も、偶然に「モンスーン・セール」の最中に訪れ、洋服用のマテリアルなどを購入したのだった。
店内は、セール前とあってかお客はおらず、店員が作業をするばかり。そこへ、やはり去年、わたしの相手をしてくれた、テキスタイルのエキスパート風、老齢のスタッフが、対応してくれる。
「セールは明後日からですが、今日からでも、2割引しますよ」
と、うれしくも危険なご提案だ。この店のいいところは、テキスタイルに対して強い関心を示すと、いいものを奥から取り出して来てくれ、見せてくれること。
まずは、お手頃なものから。せっかくのセール。1枚くらいは、気に入るものがあれば買うつもりだ。このごろは、絣(かすり)、バラナシシルクの上品なものが気になっているので、そのあたりが狙いめ。
しかし、目の肥やしのため、パルシーワークやカシミール刺繍なども見せてもらう。
ここに来ると、買い物というよりも、「テキスタイル・ミュージアムで、作品に触れ合っている」という気分になる。いつものように、「伝統的で、希少なワークを見せてください」と頼む。
これは、カシミールの刺繍。バンブーニードル(竹製の針?)で刺繍されているらしい。
繊細ですてきな仕上がりだが、地色がわたしの肌色には合わない。
パルシーワークは、このごろはいいものがない。数年前にあの黒や赤のすばらしいものに出合えたのは、本当にご縁だったと思う。
しかも、今思えば、信じられないお手頃価格で。
手工芸品の値段も、ここ数年のうちに、どんどん上昇している。その作業の大変さを思えば然るべきことであるが、これが即ち、手工芸品離れに拍車をかけることにもなるのだと思う。
これは、カンタ刺繍のサリー。この店ならではの作品だとのことで、「これは、いい一枚ですよ!」とおじさんに勧められる。が、色がやはり、わたしには合わない。
インドにしては、落ち着いた色合いで、上品なのだけれど。目の保養にとどめる。
このカンタ刺繍のサリーも上品だ。シルクの光沢がやさしく、色合いもいい。ただ、今日は、カンタ刺繍の気分ではない。
以前から気になっていた、動物柄のバラナシ・シルク。これは、いつ見ても、かわいらしい。金糸の部分の織も非常に繊細だ。
「このデザインもまた、KALA NIKETANならではなんですよ」とおじさん。
本当かどうかはわからんが、ほかではあまり見ない柄である。と思っていたら、翌日訪れたホテル、Taj Mahal Palaceのブティックで同じものを見つけた。
値段は1.7倍ほどであった。この店はいずれにせよ、良心的な価格だと思う。
棚卸しで忙しい中、おじさん、「ちょっと着てみなさい」と勧めてくれる。
実はすでに、あれこれとサリーを着ては、鏡の前でポーズを取り……と繰り返していたのだった。それがまた、楽しいものである。
というのも、目で見るのと、着てみるのとでは、布の印象がまったく変わるからだ。
「あなたには、これが似合います」
とゴールドを勧めるおじさんだったが、実際着てみると、
「いや、アイヴォリーの方がいいですね」
という具合に。
わたしの関心が伝わるほどに、おじさんも乗ってきて、次々に取り出してくれる。これは、絣(かすり)とは思えぬほど派手な絣のサリー。金糸のザリ (ZARI) ワークとのコンビネーションだ。
しかし、今の若い人は、サリーをほとんど着用しないし、結婚式などでも、富裕層にはボリウッド的に派手なものが人気だし、こういう渋い伝統工芸は、確かに廃れていくのだろうな、と思わざるを得ない。
ついにはおじさんが、「とっておきの逸品」を取り出してくれる。
恭しく箱から取り出されたそれは……。わたしがこれまで、この店で見せてもらったサリーの中では「最高値」。桁外れに高価な品だ。おじさんが「値札の写真も撮りなさい」と、示してくれる。
日本円にして約60万円超。
が、その手間と価値を考えれば、60万円でも実は、安い。先進国では決してあり得ない値段だ。一人の職人が1年半の歳月をかけて織り上げたものなのだから。
が、これはたいへんな技がきいているのだということは、手触り、裏面の完璧な加工を見ることで、素人でもわかる。
当たり前だが、プリントではない。これは「絣(かすり)」なのだ。
グジャラート地方のラジプート族の伝統技術で、「ヴェジタブル・ダイ」即ち「植物で染色」されているのだという。
パトラと呼ばれるワークだ。
以前、テキスタイルの展示会で絣の技法を教わったが、そのややこしさ、面倒くささは、わたしの理解を超越していた。その超越した技術のさらに極みをゆく、このワークらしい。
これを1年半かけて織り上げたのは、75歳の職人。この技を引き継ぐ次世代は、いないらしい。
アジア諸国を経て、日本へも影響を与えたインドの絣の伝統技術のひとつが、今、途絶えようとしているということを、認識する。
良質のサリーとは、何世代にも引き継げる伝統衣装である。
たとえば義姉スジャータ。彼女が母や祖母から引き継いだサリーの話には、いろいろな物語が込められていて、心にしみる。
わたしも彼女も、引き継ぐ次の世代に恵まれなかったことが、ふとした折に、惜しく思える。もしも娘がいたら、「娘にあげるから」を口実に、間違いなく今よりも、衝動買いしていたこと、間違いなし。
「母さん。わたし、サリー、着ないし。要らないし」
と、言われていたこと、間違いないし。
とおじさんが言うので、まとってみる。
絹の肌触りがやさしくて、本当に着心地がよい。
「伝統的な着方をしなさい」
と、おじさんが頭にサリーをかけてくれたのだが。
こうすると……似合わんな。
60万円には、見えんな。
ともあれ、棚卸しでどたばたとしている中、貴重な一枚を試着させていただき、ありがたい。
これはまさに、ミュージアム・ピース。
博物館に展示されて然るべき、一枚だと思う。いやそれよりも、サリーは人にまとわれてこそ、幸せなのだろうけれど。
このほかにも、あれこれと見せていただいたのだが、きりがないので、この辺にしておく。
昨夜、アルヴィンドに一番上の写真を見せ、伝統技術が途絶える哀しみを語ったところ、
「この赤と金糸のサリー、買えばよかったのに」
と一言。まじですか? インドの伝統を「古くさい」と言い、わたしがサリーを着ることをあんなに嫌っていた男が、本当に変わったものである。
まあ、この間の親戚結婚式イヴェントの際に、わたしのサリーを世間がほめてくれたのが、多分うれしかったのだと思う。
あと、「価値がある」という言葉に、弱いともいえる。わたしの「ミュージアム・ピース」というキーワードに、やられたと思う。
だからって、わたしも調子に乗って買っている場合ではない。実は来週、バンガロールで工芸品の一大展示会が開催される。
そこでは、間違いなく、何かが発掘されるであろう。
というわけで、今回は1枚にとどめておいた。ってか、結局、買ってはいるんですけどね。
初日のランチ。わたしの好きなSAMRATの場所をドライヴァーが知らず、しかしサリー店ですっかりエネルギーを消耗していたわたしは、説明するのも面倒になり、目の前に見えていたエロス・シネマで車を停めてもらう。
エロス・シネマは、アールデコ建築の映画館。ムンバイには、味わい深いアールデコ建築のビルディングが随所に「埋もれている」のだ。
この映画館を正面にして、左手に隣接するフレンチビストロ、CHEZ VOUSへ直行。そう、前回の旅で初訪問した店だ。
今回はランチセットでビーフを注文。さっぱりとした、しかし旨味が凝縮されたソースが美味! 日本人の口にも合う味だと思う。
スープとステーキ、フレンチフライがついて500ルピーと、お値段もお手頃。
力一杯平らげたところで、エクサンプロヴァンス出身のオーナー、フレデリックが登場。
「金曜の夜、ジャズ・ナイトをやるから、ぜひハズバンドと来てください!」
とにこやかだ。金曜の夜に帰るのだというと、残念そうな表情。また来ることを約束して別れる。
CHEZ VOUS
Ground Floor, Eros Cinema Building
M.K. Road, Churchgate
食後はコラバへ南下。訪れたことのない店へいくつか足を運ぶ。このあたりの情報は、今後、ホームページmuseindia.infoの方に掲載する予定だ。
喧噪の街を巡ったあとにたどりつくのは、いつものThe Taj Mahal Palace。ここのSea loungeでコーヒーを飲みながら、ノートを広げて、思うところ綴る。
ここから見下ろすインド門。そして、その周辺を行き交う人々の様子を眺めるのは、楽しいものだ。無声映画を見ているような、ガラス一枚を隔てて、異なる世界。