先週は、途轍もない記録的豪雨に見舞われていたムンバイ。豪雨が続けばホテルでのんびり読書でもしよう本を数冊持参していたが、その必要はなかった。わたしにとって、ムンバイは濃すぎる。
ともあれ、記録しておきたいことを最低限に、しかしたっぷりと残しておこう。
インドのラグジュリアスなホテルのブッフェは、実に豊かだ。コンチネンタル、中国、日本、そしてインド各地の朝食料理。新鮮な果物や野菜を使った絞り立てのジュース。ヴァラエティ豊かなサラダやフルーツ。各種卵料理やパンケーキ、ワッフル、フレンチトーストなどは注文すれば焼いてくれる。ムンバイの超絶湿度を感じさせない焼きたてのクロワッサンがおいしい。先進諸国のそれに勝るとも劣らぬ料理が並ぶ。ついつい食べ過ぎてしまう。
朝のうちは晴れたかと思えば大雨が降ったりと、落ち着かない天候だったが、正午を過ぎて曇天で安定。車を呼んで、南ムンバイへ赴くことにする。喧噪の街並をくぐり抜けながら、見慣れた光景に目を走らせる。
世界最大の弁当配達人ネットワークであるところのダッバワーラーや、タージマハル・ホテルなど、ムンバイの風物詩や名所が描かれた壁画がかわいい。
2003年の終わり。初めてこの街を訪れたときに思ったものだ。「巨人になって、この街をブラシできれいに掃除して、絵筆を握って建物を塗り直したい」と。よくよく見ると魅力的で美しい建築物が、町中に鏤められているのだ。
ムンバイは、実はアールデコ建築が多い。ナリマンポイントのマリンドライヴあたりを走ると、曲線と直線の調和が魅力的なビルディングが次々に目に飛び込んでくる。昨日はただ走るタクシーの車窓から撮るばかりで、中途半端な写真しか撮れなかったが、気をつけてみると、優美な建物が街のあちこちに点在している。
まず訪れたのは、フォート地区にある「ヤズダニ・ベーカリー」。わたしにとって、この界隈を訪れるのもまた、日本人墓地に次いで、儀式のようなものである。1953年創業のこの店は、パールシー(ゾロアスター教)の一族が経営している。初めてムンバイを訪れたとき。タージマハル・ホテルにチェックインして翌朝、カメラのバッテリーチャージャーのコードがないことに気づいた。ホテルから、カメラ店を求めて街をさまよい歩いているときに、パンが焼けるいい香りに吸い寄せられたのが、この店との出会いだ。
この店の看板娘ならぬ看板老兄弟。弟と兄が交代で店に立っている。わたしにとっては、お二人それぞれに、忘れ難いエピソードがある。初めて訪れたときに出会ったのは弟の方だった。彼から、この古びた三角屋根の建物は、「20世紀初頭、日本の銀行だった」と教えてもらった。壁にかけられているSEIKOSHAの時計は、当時のものだろう。
実は我が家にもSEIKOSHAの掛け時計がある。移住当初、コマーシャルストリートのアンティークショップで買った。調べたら、100年以上前のものだった。文字盤が手描きの、素朴な時計。久しく眠っていた様子だったが、修理に出したところ息を吹き返し、今でも我が家で時間を刻み続けている。
わたしが壁にかけられた写真を見ていたら、従業員のひとりが「オーナー兄弟はボクサーだったんですよ」という。まさか! と思ったが、納得した。昨年訪れたとき、弟が店番をしていたのだが、カメラを向けられた彼は、ボクサーの構えをしたのだ!
今日、店番をしていたのは、兄の方だった。2年ぶりの再会。2年前は、少し様子が違ってはいたものの、わたしのことを覚えていて、やたらと手を握ってくれたりしたのだが……。昨日はもう、車椅子に座って、身体を硬直させ、視線は中空を泳ぎ、魂は遠くに漂っていた。「ハロー」といいながら、おじいさんの肩に手をかけても、何の反応もない。
蒸し暑い店内で、時間の渦に吸い込まれるような気持ちで、チャイを飲む。ゾロアスター教のシンボル。ヘリテージサイトに指定された証明。名物アップルパイの看板。古びた食パンスライサー……。初めて訪れた15年前から、なにも変わらない。新しく貼られている「FREE SAUNA & STEAM」の文字に苦笑しつつ……涙が出てくる。
もうお兄さんとは会えないかもしれない。別れを告げて店を去り、界隈を歩く。
2012年にオープンしたスターバックスのインド1号店に立ち寄って「現代」の空気を吸う(写真9)。それまで何年にもに亘り、オープンすると言われていたが、諸々頓挫が続き、南インドのコーヒー豆輸出からスタートしていた。カルナタカ州のコーヒー豆だ。スターバックスを擁するタタ・グループはまたインドのパールシーの象徴ともいうべく財閥。パールシーのストーリーは、ムンバイを語るに不可避である。