昨日の午後、1年ぶりのムンバイに到着した。3泊4日の滞在だ。去年もちょうど同じ時期、ここに来た。初めてこの地を訪れたのは、米国在住時の2003年。捉えどころのない混沌、歴史の重さと文化の深さ、業が渦巻くこの土地に心を奪われた。超絶なる貧富の差。過去と現在、複数の時代が同時進行で流れるが如き異次元の共存……。
我々夫婦は、2008年から2年に亘り、夫の仕事の都合で、ムンバイとバンガロールの二都市生活をしていた。住みやすさはバンガロールが格段にいいが、ムンバイには格別に好奇心を搔き立てられる「物語」が、そこそここに、散らばっている。二都市生活を終えてからも、夫の出張に伴って、あるいは自分の仕事の出張で、しばしば訪れた。日本から視察旅行に訪れたクライアントを何組も案内したものだ。玉石混淆のこの街の、両側面を見てもらい、関心を持ってもらえるのはうれしかった。
街歩きもままならぬモンスーンの時期、訪れるかどうか迷ったが、思い切った。空港のある北ムンバイから、シーリンクを渡って南ムンバイへ。夫のムンバイオフィスがあるロウアーパレルにあるフォーシーズンズホテルに滞在することが多いが、今回は、南ムンバイ最大のショッピングモール、「ハイストリート・フェニックス」に隣接するセント・レジスにチェックイン。4年前、出張でここに滞在して以来だ。右手にアラビア海とハジアリ、左手に南ムンバイを見晴るかす眺めのいい部屋。
ランチは、モール内の「インディゴ・デリ」にて。ムンバイ在住時、コラバにオープンしたばかりの本店によく通った。生地がペラペラの香ばしいピザと、サイドオーダーの野菜のグリルがおいしい。ランチのあと、欧米の高級ブランドが目立つモール内を散策する。この巨大なモールは、常にどこかで工事が行われていて、ちっとも完成しそうになかったことから、わたしは「ムンバイのサグラダファミリア」と呼んでいた。今回は初めて落ち着いた表情を見せていた。
小雨が降るなか傘をさし、ムンバイに来たときには必ず訪れている日本人墓地を目指す。フォーシーズンズホテルだと、道路を挟んで真向かいにあるのだが、セント・レジスからは裏道を歩いて徒歩10分ほど。肌に重い、蒸し暑い空気の中、わずか100メートルを歩くだけで、1キロほど歩いたような気になるストレスフルな通りが、しかし懐かしい。
ビームラーオ・ラームジー・アンベードカル。マハトマ・ガンディと同じくらいに、世に知られて然るべき偉大なる人物。ダリット(不可触民/アンタッチャブル)という、ヒンドゥー教におけるカースト制度の最底辺の出自でありながら、大学に進み、ニューヨークのコロンビア大学はじめ、ロンドン、ドイツへ留学した。インド国憲法の草案を作成し、反カースト運動に身を投じた。
インドが発祥地でありながら、インドではほぼ絶滅していた仏教に、ダリットの未来を見た。仏教に改宗すれば、カーストの縛りから解き放たれる。最晩年の1956年、インドの中心に位置するナーグプルにおいて、50万人ものダリットとともに、仏教に改宗した。アンベードカルの死後、ナーグプルを拠点に活動する日本人僧侶、佐々井秀嶺上人にお会いするため、昨年4月、ナーグプルを訪れたことは、この一年、何度となく記してきた。
さて、この日本人墓地は、1908年、即ち111年前に建立された。19世紀後半、熊本や長崎の貧村から、多くの若い女性たちが、東南アジア、南アジア、果てはアフリカへと売られて行った。「からゆきさん」と呼ばれた彼女たちはまた、このムンバイ(ボンベイ)にもいた。からゆきさんほか、当時、綿貿易に携わっていた日本人駐在員、第二次世界大戦の際、捕虜となってマハラシュトラ州の収容所にて落命した兵士らの英霊がここに眠っている。
この墓地は、近くにある日本山妙法寺によって管理されているが、掃除などを任されているのは、敷地内のバラックに暮らす一家だ。ダリット出自で仏教に改宗した人たちである。初めて訪れた10年前以降、毎回ヤショーダヤというおばあさんが、笑顔で出迎えてくれる。一緒に掃除をし、蝋燭に火を灯し、わたしが持参する日本の線香を焚き、手を合わせて南無妙法蓮華経を唱える。今回は、あいにく近くに花屋がなかったので、花を手向けられず。代わりに近所で掃除道具を買った。
初めて訪れたときには少女だった長女のジャグルティ。21歳の今はカレッジを卒業後、商学士 (B com)を専攻している。今回、彼女といろいろな話しをした。そもそもは、ヤショーダヤのお兄さんが、この墓守をしていたが、彼の他界後、ヤショーダヤと夫が引っ越してき、子供や孫らもこの狭いバラックで暮らしているという。……綴りたいことは多々あって尽きず、インスタグラムの文字数上限2000文字を超えてしまう。