パールシーとは、インドに暮らすゾロアスター教徒のことだ。イスラム勢力の攻勢によりササン朝ペルシャが滅亡した西暦936年ごろ、ペルシャ(現在のイラン)から西インドのグジャラート地方に逃れてきた人々が起源だ。彼らは辿り着いたグジャラート地方のある土地で、その地を治めるマハラジャから、先住の人々と協調して生きるのであれば、土地を提供する。信仰の自由も保証すると言われたという。
この経緯についてはまた、2通りの逸話がある。ひとつは港に到着したゾロアスターの難民たちに、マハラジャが満杯のミルクボウルを送ったというもの。王国は、新しい住民を受け入れる余地はないという意味だ。これに対して難民たちはスプーン1杯の砂糖をミルクボウルに入れてかき混ぜ、マハラジャに戻した。自分たちは、この土地に溶け込み、クジャラートをより豊かにしますというメッセージだ。
もう一つの逸話。ミルクボウルを受け取ると、ゾロアスター教徒は金の指輪を沈めた。我々は自分たちの文化を守り続けるが、一方、この土地を栄えさせます、というもの。ムンバイやプネを拠点に多くの信者が暮らしているというが、インドにおけるパールシーの人口は0.02%と極めて少ない。しかし彼らは、インド経済に大きな影響を与えてきた。タタやゴドレージなどの財閥をはじめ、富裕層や社会的地位の高い人が多い。社会的貢献も積極的に行っており、移住当初の約束を果たしている。
パールシーに関しては、ミューズ・リンクスの「インド・ライフスタイルセミナー〈必修編〉」で、必ず紹介し続けている。クイーンのヴォーカル、フレディ・マーキュリーも、アフリカのザンジバル(Zanzibar)生まれのパールシーの出自で、学生時代はボンベイ(ムンバイ)で過ごし、音楽活動を行っていた。しかし彼は自身の出自を隠し続けており、彼の死後、家族が公表したとされる。本名ファルーク・バルサラ。昨年の映画『ボヘミアン・ラプソディ』で、一躍、あらゆる世代に存在を知られるところとなった。
ゾロアスター教とは、聖なる火を尊ぶ「拝火教」であり、寺院には、何百年も受け継がれてきた炎が灯されている。また鳥葬でも知られており、葬儀場は「沈黙の塔」と呼ばれる。まつわる話しを綴れば尽きないがもうひとつ。
日本のマツダ自動車。社名のスペルはMAZDAである。なぜ、MATSUDAではないのか。マツダの社名は、創業者松田重次郎の名からとっただけでなく、叡智・理性・調和の神を意味するゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー (Ahura Mazdā)にも因んでいるという。社名ロゴをよく見ると翼のようにも見える。ゾロアスター教のシンボルには、大いなる翼が用いられている。昨年、このことを知って以来、マツダ自動車に親近感を覚えている。
そして一日の終わり。儀礼的訪問先としての、タージマハル・パレスホテルへ。インドの海の玄関口、インド門。Gateway of India。ムンバイの最南端、コラバ地区にあるランドマークだ。1911年、英国のジョージ5世とメアリー王妃がムンバイに訪れたのを記念して建立された。その向かい、海洋に面してどっしりと立つタージマハル・パレスは、インドが英国の植民地下にあった1903年に完成した。当時、インドにある高級ホテルの大半は、インドに在るにも関わらず、インド人は宿泊することができなかった。「インド人と犬はお断り」などとするホテルもあったという。
英国統治下にあって、しかしビジネスで成功を治めていたインド人の実業家、タタ・グループの創始者であるジャムシェトジー・タタは、インド人が泊まれる高級ホテルの建設に着手した。当時としては最先端のエレベータや天井のファンを備え、クーポラの鉄筋はエッフェル塔と同じものが用いられているなど、建物そのものにも、さまざまなストーリーがある。
綿貿易会社が端緒のタタ・グループ。1870年代には綿紡績工場を設け、インド有数の資本家となった。ジャムシェトジー・タタは、綿貿易の一環で神戸にも訪れている。彼は製鉄所や教育機関、高級ホテル、水力発電所などをインドに建設することを夢見たというが、生前に実現したのはこのタージマハル・ホテルだけだった。しかし彼の遺志は引き継がれ、タタ・スチール、インド理科大学院(バンガロールにあるIIS)、タージ・ホテルズ・リゾーツ&パレス、タタ・パワーとして結実している。
わたしは、初めてのムンバイで、初めてこのホテルに滞在したとき、言いようのない、強い魅力に引きつけられた。以来わたしにとってここは、インドで最も好きな場所であり、中でもSea Loungeは、心の拠り所でさえある。だから2008年11月26日、我々夫婦がこの近所に暮らしていたとき、このホテルが同時多発テロの標的になったことは、途轍もない衝撃であった。
語るに、延々と語れるエピソード。関心のある方はぜひ、以下の記録をお読みください。