11月9日。昨日は、アヨーディヤーの判決。ベルリンの壁崩壊30周年。
11月10日。2005年に米国より移住した我々夫婦のインド生活14周年。本日より15年目に突入。
11月10日。拙宅勤続8年のドライヴァー、アンソニーの長男アンソンが、キリスト教徒の聖地、タミル・ナドゥ州のベランカニの海岸で溺死して2年。
まずは、スィク教徒の話。昨日のインドは、アヨーディヤーの最高裁判決を巡るヒンドゥー教とイスラム教の軋轢が取り沙汰されたが、スィク教徒にとっても、実は重要な日だった。インドのメディアでは不自然なほど、あまり取り上げられていなかったが。
日本では「シク教徒」と書かれることの多い、ターバンを巻いた人たち。インド人の象徴のように描かれているが、信者の数は少ない。2011年のセンサス(国勢調査)によると、ヒンドゥー教徒79.8%,イスラム教徒14.2%,キリスト教徒2.3%,スィク教徒1.7%,仏教徒0.7%,ジャイナ教徒0.4%……となっている。
キリスト教徒よりも少ない2%に満たないながらも、インドの歴史、社会に大きな影響を与え続けているスィクの人々。
インドが英国から独立した1947年8月15日のことを語る時、切り離せないのは「インドとパキスタンが分離して独立した」という史実だ。ヒンドゥー教の国とイスラム教の国とに二分されたことは、今に至るその後の世界に多大なる影響を与えている。
カシミールの問題、印パの核実験の問題、そもそも「東パキスタン」として独立し、やがてバングラデシュとなったイスラム国家の問題……。「印パ分離独立」の歴史的背景を知らずして、この国の有り様を知ることは不可能だ。
圧倒的な多数派ゆえに、ヒンドゥー教とイスラム教の軋轢ばかりが取り沙汰されるが、独立に際して辛酸を舐めたのは、スィク教徒だった。
インドが分離される際、パーティション(境界線)を定めたのは、英国人法律家のラドクリフだった。敢えて「インド事情に詳しくない」人選により、彼が、インド最後の総督マウント・バッテンに呼ばれて英国からインドへ来たのは、独立予定日のわずか5週間前。
彼は不確かな地図と、不確かな当時のセンサスをもとに、インドとパキスタンに国境線を引くという重責を担わされた。二分されるのは、北西インドのパンジャーブ地方および北東インドのベンガル地方。パンジャーブ地方の分断に際して発生したのは、実は、ヒンドゥーとムスリムの問題だけではなかった。
スィク教徒の総本山は、パンジャーブ地方のインド側、アムリトサル(アムリッツァー)にあるゴールデン・テンプルだが、スィク教の開祖であるグル・ナーナクの生誕地は、パンジャーブ地方のパキスタン側に位置している。
ラドクリフがパンジャーブ地方に国境線を引いた際、スィク教徒にとって重要な2つの聖地を分断してしまったのだ。当時、スィク教徒は独立国家の制定を主張したが、誰からも聞い入れてもらえず、国境の向こうに聖地を眺めるも、聖地に足を踏み込めない歳月が続いていた。
そんな中、昨日。
開祖ナーナクの生誕550年を記念すべく、パキスタンにある寺院を訪問できるよう、印パの国境をまたぐ形で建設されていた「巡礼路カルタールプル回廊」が開通したのだ。スィク教徒はヴィザなしで、パキスタン側に入国し、聖地巡礼を果たせることになった。
これは、いかにも大きな出来事である。
ちなみにバンガロール在住者にはおなじみのヴェジタリアンなマーケット「ナームダーリーズ」はスィク教徒の経営。スィク教徒の「Namdhari」という宗派の名前そのままである。
実はわたしは、今月末、友人らと北インドを旅をするのだが、アムリトサルにも1泊する予定でいる。この地にはまた、特筆すべき事象が多々あり、今からとても楽しみだ。