昨日は、朝6時半にデリーの実家を出て、ハリヤナ州のヤムナーナガールを目指した。夫の、母方の家族にゆかりのある土地だ。ガンジス川の支流、ヤムナー川。夫の実母アンジュナを見送った場所で、ロメイシュ・パパとお別れをするためだ。
アンジュナの祖先は、パンジャーブのラホールが出自。現在はパキスタン領になっているが、英国統治時代は一つのインド帝国であった。
ラホールで、最高裁の弁護士をしていた母方の曾祖父は、「イスラム教とスィク教の聖地争い」の法廷で、当時、イスラム教側の検事だったパキスタン建国の父、ジンナーと闘い、勝訴。またパンジャーブ州の銀行や新聞社の創設に関わるなど、社会的な影響力の強い人物だった。
アンジュナの両親と兄は、1947年の印パ分離独立に伴い、デリーへ「難民」として移住した。祖父は、ヤムナーナガールで英国統治時代に英国人が経営していた砂糖工場を買収。併せてISGECという製鉄・重工業会社も創業した。その一方、政治家、フリーダムファイターとして、インド独立に関わった祖父。わたしも一度、お会いしたかった。同社は祖父の死後、アンジュナの兄が継ぎ、今ではアルヴィンドの唯一の従兄弟が経営している。
ISGECは古くから日本企業との取引も多い。2012年には日立造船との合弁会社を設立している。米国に留学後、米国で就職した夫は、同社の主要株主ではあるものの、経営には関わっておらず、今回、ヤムナーナガールを訪れるのは、母の死後27年ぶりのことだった。
既述の通り、ロメイシュ・パパは転勤が多かったことから、アルヴィンドは8歳から18歳までの10年間を、デリーにある祖父の家で過ごした。インドは州ごとに言語が異なり、教育の内容も異なる。今のようなインターナショナルスクールも少なかったことから、同じ学校で教育を受け続けるのが一番とアンジュナは考えたようだ。アンジュナは夫と子どもたちの住まいを行き来しながらの暮らしだった。
長期休暇の折には、アルヴィンドは祖父とともにこのヤムナーナガールを訪れ、工場そばの広大なコロニーで過ごしたという。
夫が15歳のとき、アンジュナが慢性白血病を発症。余命半年の告知を受けた。アンジュナはインドの大学を卒業後、英国の大学院で看護学を学んだ後、国連機関のユニセフに勤務していた。医学の知識もあった彼女だが、しかし病院で抗がん剤治療を受けることを拒み、代替治療を模索。米国ボストンのDr. Ann Wigmoreのメソッドを採用した食事療法で、病と向き合った。
彼女はまたクリニックを開設し、病に苦しむ人たちにメソッドを教授。実父から農地を受け継ぎ、オーガニック野菜の栽培も開始した。味噌が身体にいいとのことで、自分で醸造していたという。
最近でこそ、西洋医学に頼らずがんを治癒することが、一つの有効な手段として認識されはじめているが、30年以上前のインドでは、極めて稀有だった。子どもたちを米国の大学、大学院に進学させ、スジャータが結婚するのを見送って、発病から5年後、アンジュナは他界した。アルヴィンドが20歳のときだ。
わたしが夫とニューヨークで出会ったとき、彼は23歳だった。母に次いで、祖父を亡くした直後、思い返せば今のような朗らかさはなく、ナイーヴな印象だった。
濃霧のハイウェイをひた走り、途中のドライヴインで朝食。パンジャーブの朝食の定番、大根入りとカリフラワー入りのロティとチャイを注文。たっぷりと盛られたバターをつけながらのシンプルなロティがおいしい。隣席の人が食べているチャナ・バトラにも心奪われ注文。満足である。
10時を過ぎたころ、ISGECの鉄工所に到着。小規模なその新工場へは、散骨場所へ案内してもらうスタッフと合流するため立ち寄ったのだが、流れで軽く工場見学。その後、ヤムナー川のほとりまでドライヴし、無事にロメイシュとお別れをすることができた。
その後、製鉄所や砂糖工場に隣接する、夫が子ども時代に過ごしたという会社のコロニーへ。当時のまま時間が止まっているかのような風情だ。社員の宿舎やプール、テニスコートなどが完備されている。VIPルームで出されたランチはまた、唐辛子が使われていないマイルドでおいしいインド料理。夫の家族は両親側とも、辛味が苦手なのだ。
その後、古くからのスタッフが挨拶に来てくれた。ロメイシュもまた、アンジュナの晩年、ここに勤務していたことから、彼らは夫の両親のことを、懐かしそうに語るのだった。
立ち去る前に、英国式のローズガーデンや、家庭菜園、レンガ造りの住居などを散策する。春になると、花々が美しく咲くに違いない。英国人が住んでいたときの飼い犬の墓石もあった。ジプシーと言う名の犬は、1945年に他界したと刻まれている。
「子どものころ、夜のプールで泳ぐのが楽しかった」「この広場をみんなでかけ回って遊んだんだ」と、懐かしそうに語る夫。製鉄所の煙突から、冷却の水蒸気がもくもくと溢れ出るのを眺めながら、初めて訪れる場所なのに、わたしまでもが、懐かしい。
帰路は渋滞もあって、6時間以上かかり、実家に到着したのは夜10時だった。疲労困憊したが、行ってよかった。