今朝、目覚めた時、この1週間、わたしの心身を満たしていた靄のようなものが、ようやく晴れた気がした。
日常に戻ると同時に、今しばらくは、義父にまつわることも綴っておきたい。
一昨日。日曜の夕方、バンガロールに戻った。昨日は、YPOフォーラムのミーティングだった。久しぶりに親しい友人らと会合し、エネルギーに満ちた彼女たちと語り合い、わたしもまた義父のことを語り、少し気持ちが落ち着いた。
しかし、夕方自宅に戻り、溜まってる雑務やデスクワークにかかろうとするも、心は千々に乱れ落ち着かず、まだ日の高いうちからワインを開ける。このごろは毎晩、白ワインを飲んでいたというパパと乾杯……という口実で。
翳る西陽が当たる場所を眺めながら、思いは巡る。
月曜日に危篤と聞いて、デリーに飛ぶも間に合わず。夕方には火葬の儀式。急なことに動揺激しく。
火曜日は葬儀の準備。会場下見に花の手配。
水曜日はアルバムめくり、メモリアルのスライド作り。
木曜日は葬送式典。花に包まれたパパを見送る。
金曜日は散骨のため、ヤムナーナガールまで遥かドライヴ。
土曜日は一息ついて、マッサージに日本食でリラックス。
日曜日は荷物をまとめ、バンガロールへと戻りました。
テュリャテュリャテュリャテュリャ……と歌えてしまうような1週間であった。
いかにも憔悴している風な我々夫婦であるが、しかし滞在中に増量してしまうという残念さ。ヒンドゥー教では、葬式を出した後の数日間、自宅で火を使う料理をしてはならないのだという。ゆえに、周囲の人たちが、料理を届けてくれる。
1階に暮らすテナントの一家は、義理の両親と親しくしていることもあり、火葬や葬儀に参列してくれたのはもちろん、昼夜、料理を届けてくれた。その料理が非常においしく、もりもり食べてしまった。
さらには、ヤムナーナガールへの旅のときにも、バターたっぷりのパラタ(具入りのロティ)や揚げパンを食べ、ゲストハウスでは、おいしいランチをたらふく食べた。久しぶりの「寒さ」を経験して、食欲中枢が刺激されたようである。
土曜日は、デリー在住の繁田女史と会い、夫のリクエストで日本料理店へ。自宅から程近い、今となっては「廃墟」のようなショッピングモール「アンサル・プラザ」にある日本料理店「KOFUKU」へ。
週の前半、彼女が出張中だったこともあり、彼女の車とドライヴァーを貸してもらえたことで、非常に助かった。デリーはバンガロールと異なり英語よりもヒンディー語が主流。ヒンディー語が話せないわたしにとって、英語が話せ、機転が利くドライヴァーがいてくれたのは、実にありがたかった。
義父の死について、延々と書き綴る嫁。少々奇異に映るだろう。しかし、夫あっての「インドに暮らす」わたしであり、義父あっての夫である。国際結婚だからこそ、そのご縁や背景に思いを巡らせてしまう。
わたしがパパの死を通して感じる悲しみは「感傷」だ。一方で、20年以上、生活を共にしてきた義理の継母、ウマの、苦痛や喪失感を伴う悲しみは、しばらく和らぐことはないだろう。
幸い、彼女には前夫との間の娘ナミタとその家族、孫たちがいる。娘一家は、これまで海外に暮らしていたが、1年前からチェンナイに異動していた。ゆえに、一家はすぐにデリーへ飛んでくることもできる。
わたしは今回、ナミタの家族全員と初めて会った。ティーンエージャーの子どもたち。血が繋がっていないとはいえ、彼らにとって、ロメイシュ・パパは紛れもなく「祖父」であり、わたしにとって彼らは「姪」と「甥」でもある。
今回、ナミタやウマから送ってもらったパパとの写真を見るにつけ、パパがいかに幸福なおじいちゃんだったかということが、ひしひしと伝わってきた。
義父の急逝を巡ってはまた、わたしは大きな課題を突きつけられた気がしている。パパが遺したものを、どう守り、どう有効に使っていくのか。
折しも今年は、バンガロール空港近くに、我々夫婦の新居がようやく完成する。故に今年のわたしは、そのインテリア関係の作業に時間を割く予定にしていた。多くの人々が出入りできるソーシャルな空間を構築し、義理の両親を長期間、招く予定でもいたのだが……間に合わなかった。
それに加えて、デリーの実家。1階のテナントと4階のウマのフロアはそのままに、しかし2階のフロアは、快適にしたい。2001年、結婚式のときに訪れて以来、時間が止まっている。放置していたら、アンサル・プラザに並んで「廃墟化」してしまう。
新居と同時に、デリー実家の内装にも手を加え、こちらもまた、家族や親戚、友人らがいつ訪れても温かく迎えられ、心地よく滞在できるような場にするつもりだ。
今年の年初、自分のライフの優先順位について、じっくりと向き合えていて本当によかった。その結果、「緊急ではないけれど、重要なこと」を、最優先事項として、先延ばしするのはやめようとの思いを強くしている。
義父の死を通して、自分たちの身の振り方を、改めて考えさせられている。