国境近く、過去からの干渉強く、デリー、北インド。時間旅行の日常にて。
一年中、概ね過ごしやすい気候の、南インドはバンガロール。彼の地の暮らしでは、なにかと「甘やかされている」ということを痛感する。
寒暖の差、著しく。国境に近く。タフな地理的環境にある北インドでは、心身の構造も変わってしまうようだ。マッサージオイルを塗れども塗れども、カサカサと乾いてしまう肌。厳寒の時期を過ぎたというのに、熱いシャワーを浴びれば、身体の芯が冷えきっていたことに気づく。
今、URBAN CLAP (COMPANY)のサーヴィスでマッサージに来てもらい、久しぶりに、身体がリラックスしているところだ。
思えば先週の日曜日、ジャパン・ハッバを終えた翌々日にデリーへと飛び、バタバタとした日々を過ごした。わずか1週間の滞在につき、大したことはすまいと思っていたのだが、次にいつ来るかもわからず、できる限りのことはしておきたいと欲が出た。
とはいえ、無理は禁物。昨年8月の「帯状疱疹発症」が教えてくれた教訓につき。しかし塩梅を測りかねるのも事実。前半は、使用人らの協力を得て、家財道具の取捨選択。マルハン家に数十年働く彼らは、わたしよりもはるかに勝手がわかっており。同時に彼らをマネジメントするのは、これからは我々夫婦の仕事となる。課題も、責任も、増える。
急ぎの作業から始めるべしと、「アンティーク」な洗濯機やガスコンロを買い替えたり、オーヴントースタを購入したり、あらゆる鍋釜キッチン類を整える。まずは食。自分がここで料理をしやすいように環境を整えることが優先事項につき。
オンラインで買えるもの、自分で買いに行くもの、さまざまだが、主には無理なくamazon.inのお世話になる。助かる。
古い家具類は極力そのままに。ソリッドウッド(純正木材)の温もりを大切にしたく、ソファーの張替えなども依頼する。カーテンはソファーを変えたあとに、色柄を決定すべく、次回の課題に。ブルーが好きだったロメイシュ・パパの好みもあって、このフロアは何かと青かったが、寒い。薄暗い。明るい印象にすべく、少しずつ、インテリアを変えていこうと思う。
壁のペンキ塗りはURBAN CLAP (COMPANY)に、見積もりに来てもらった。これがまた的確だ。わたしはバンガロールの自宅の内装工事を手がけた際に、いろいろな業者に見積もりを出してもらったこともあり、ペンキの相場や人件費などにも明るいのだが、良質のアジアン・ペイントの塗料を用いて、十数年前のバンガロール相場の1~2割り増し程度である。見積もりを取りに来た青年曰く、創業者(30代)の二人は、「現場主義」でもあり、彼と一緒に家庭を巡ったこともあるという。ラタン・タタからの投資も受けており、海外進出も果たす模様だ。
URBAN CLAPのサーヴィスの利便性については、語れば長くなるので割愛するが、ともあれ、日常生活において、改築改装、修理その他、「業者への依頼」が不可欠なインドの生活において、まさに願ったり叶ったりの存在だ。
一昨日、昨日と、2日間に亘って、夜は親戚宅へ。一昨日、夫の伯父(夫の亡母の兄)宅で聞いたプリ家のエピソードが「ドラマ」すぎて、またしても、歴史に引きずり込まれる。
インドとパキスタンが分離独立した際、夫の母方の祖父は、なぜパキスタンのラホールから、資産を持ってくることができたのか。以前から不思議に思っていた。そして先日、散骨しにヤムナーナガールへ行った時にも感じた。
8月15日の分離独立直後、大勢のヒンドゥー教徒がインドへ、イスラム教徒がパキスタンへと流れ、難民として暮らし始めた中、なぜプリ家は当初から製糖工場や鉄鋼所を立ち上げることができたのか。
そのエピソードは映画さながら。詳細を綴るに長く、簡単に記すならば。
1947年初旬のラホールは、すでに暴動などが起こっていて情勢不安だった。だから祖父は一時、デリーに避難すべく準備をした。彼は当時からヤムナナガールにも事業拠点を持っていた。
ラホール最高裁の著名な弁護士だった彼の父親、すなわちアルヴィンドの曽祖父から、「万一のことがあったら」と、ピストルを託された。
もし敵に襲われた際、家族が敵の手に渡る前に、殺害する覚悟はできているか問われ、祖父はイエスと答えた。彼は以来、死ぬまで、銃を枕の下にいれて寝ていた。
分離(パーティション)の混沌の中、祖父は多くのイスラム教徒を匿い助けたことから、数奇な経緯で恩人と名乗る人物らの救いを得、1948年以降、ラホールに残していた土地を現金化。鞄に詰め込み、デリーに持ち帰ることになった。
関係者に「国境を越えるまで、絶対に車を停めるな! 一直線に突き抜けろ」と言われて、数十マイルを走破した。見るからにゴッドファーザーな出で立ちの祖父。エピソードは尽きず。
伯父の語りが巧みなこともあり、情景がありありと思い浮かぶ。プリ家の物語は、伯父に書き残してもらいたいと切に思う。一つの家族の歴史を追うだけでも、その時代の背景が見えてくる。
以前から、親類をインタヴューしたいと思いながら歳月は流れ、人々は、この世を去る。少しずつでも、聞ける時に、聞いておかねば。