「世界で最も幸せなことは、アメリカの家に住み、フランス料理を食べ、日本人の妻を持つこと」
「世界で最も不幸なことは、日本の家に住み、アメリカ料理を食べ、フランス人の妻を持つこと」
結婚前には一度も口にしたことがなかったこのフレーズを、結婚後、たびたび持ち出すようになった我が夫。子供のころから、母方の祖父に聞かされていたという。
故に米国在住時、わたしとともにフランス料理を食べているときには、彼は世界で最も幸せ者だったというわけだ。
ピストルを携え、大金入りの鞄を車に詰め込み、分離独立直後の印パ国境地帯を猛スピードで走り抜けた祖父。最早、我が脳内では『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』的な映像が展開されているその祖父が、かように軟派な発言をしていたことに違和感だ。
しかし、先日、ランジート伯父にその件についても問うたところ、事実であった。
「そうそう。親父はその話をよくしていたよ。KAWASAKIに行ったあとからだから、日本人から聞いたんだと思うよ」
川崎!? ゴッドファーザーな祖父もまた、日本に行ったことがあったとは。わたしばかりか、夫さえ知らなかった。現在はランジートの息子、即ちアルヴィンドの従兄弟が継いでいる、祖父創業のISGECという鉄鋼会社及び製糖会社は、今でこそ日立造船や住友金属などと仕事をしているが、祖父の代から日本と関わりがあったとは知らなかった。
「親父と僕は、1965年ごろ、何度か川崎に行ったよ。当時はビジネスに発展しなかったけどね」
わたしが生まれたころ、事業家であり政治家でもあった祖父は日本に足を運んでいたのだ。実は、マルハン実家には、母方祖父の思い出の品々も残っており、その中に日本的なものが散見され不思議に思っていたのだが、腑に落ちた。
祖父はまた、日本と「負」の関わりも持っていた。祖父の姉の夫、即ちランジート伯父のそのまた伯父は、第二次世界大戦中、マレー半島のコタバルにで、日本軍の攻撃により戦死していた。
この話は、2014年に、ランジートが我が家に泊まりに来た時に話してくれたのだった。国際結婚は、個々人の問題を超え、背後に国家間の問題も横たわる。有事の際の自分の立ち位置は、常に心しておくべきだろう。万一、日印が国交断絶となった時、自分はどうするのか。断絶と行かぬまでも、今回のコロナウイルスを巡る日中関係のような事態に陥ったとき、自分はどうするのか。
さて、このときにランジート伯父から聞いていた「祖父の最期」の話の記録を加筆修正して転載する。1993年。夫の実母が若くして慢性白血病で他界したあと、祖父は第一線を退き、ランジート伯父に会社を引き継いだ。晩年の祖父は、欧州を旅し、多くの友人が暮らすスイスや英国へ、好んで赴いた。
普段、祖父とランジートとは、会社運営の都合上、異なるタイミングで海外に出ていたが、1996年3月は、いつもと違った。祖父がロンドンに赴いた直後、ランジートも欧州数カ国歴訪の出張が入った。インド人は欧州を訪れる際、観光ヴィザが必要だ。それを準備した上で、ランジートは最初の渡航先、ドイツのフランクフルトに飛んだ。
ところが、フランクフルト空港の入国管理で足止めを食う。発行されたヴィザが、「1カ月先から有効」になっていたのだ。明らかに在インドのドイツ領事館のミスなのだが、入国できない。仕方なく予定を変更し、次の目的地、スペインのバスク地方、ビルバオに入った。その後、ドイツのヴィザの手配をするために、予定にはなかったロンドンへ入ることにした。
午前中、ロンドンに到着したランジートは、父親の滞在する社交クラブに電話を入れた。インドにいるものとばかり思っていた息子がロンドンにいるとわかり、 祖父は驚きつつも「これから友人とランチをとるから、クラブに来なさい」と言った。しかし、彼は疲れていたこともあり、「午後のティータイムに行くから」と電話を切った。
そして午後、ランジートはクラブへ赴いた。フロントで祖父の名前を口にするや、マネージャーが現れ、深刻な顔で彼に告げた。「ミスター・プリは、先ほど救急車で病院に運び込まれました」と。驚いた彼は、急ぎ、病院へと向かう。
そこで、ランジートは、祖父の旧友のインド系英国人のドクターと会った。祖父とドクターは久しぶりの再会を喜び、ランチをとるべくクラブのレストランのテーブルに席を取った。笑顔で語らいながら、給仕に食前酒を注文してときのこと、祖父の急に表情が陰った。祖父の異状に気づいた給仕が、
「サー、大丈夫ですか?!」
と、声をかけると同時に、祖父はふらりと上半身を揺らしながら、倒れ込んだ。旧友のドクターは、救急車が来るまで応急処置をし、共に病院へと向かった。結局、祖父はそのまま意識が戻ることなく、翌々日に他界。英国の友人らが葬儀を取り仕切ってくれ、ランジートは遺灰とともに帰国したという。
「僕の母も心臓が悪くて、英国の病院で手術を受けた後に他界したんだ。父は以前、自分もロンドンで死にたいと言っていたから、願い通りの死に方だったと思うよ……」と伯父。わたしが夫と出会う、わずか4カ月前のことだ。
断片を聞く限りにおいても、ドラマティックな祖父の人生。一度、お会いしたかった。