過去2カ月間、個人的に迷走しながらも続いている部活 (Clubhouse)。自分のクラブ「MUSE INDIA*インド発、世界」を立ち上げてはみたものの、いったい何からどう発信すればいいのか、そもそも記録に残せぬことを敢えて発信する意味はあるのか、迷走中である。
今のところ、関心のあるテーマを語っている他所様の部屋にお邪魔する機会が多いのだが、昨日は思うところあり、「社会人一年生の取材の記憶」を紐解くことにした。またしても、衝動的に。開始2時間前に告知。なにしろ音声のみの発信。服を着替えたり化粧をしたりする必要もなく、思い立ったら気軽にはじめられるところが利点ではある。
初の海外取材は筆舌に尽くし難くタフだった。昨日も言及し損ねた体調不良があった。諸々、泣いた。しかし、この取材で学んだことは、実に多い。わたしが海外を旅するうえで、対象国の歴史や文化を知っておくに越したことがないと痛感したエピソードなども交えつつの90分。
☝︎わたし(笑)
わたしは昭和最後の年、1988年に上京し、海外旅行ガイドブックの制作会社に就職した。初の海外取材先は台湾。以来、数々の土地を巡ってきた。旅の記録は印刷物やノートに残され、今も手元に残る。ページを開けば忽ち、記憶が鮮明すぎるほど鮮明に蘇る。自由に空を飛べぬ今、旅情を募らせつつ、昨日は、1988年11月、3週間の台湾取材の思い出を紐解いた。
ロックダウン直後の昨年4月、個人のYoutubeチャンネルを立ち上げた当初、『世界を旅し海外に暮らし働く』という坂田の半生を語るシリーズをアップロードした。台湾取材の経緯についても、結構、具体的に語っている。
当該の動画は、現在、メインとして利用している【STUDIO MUSE スタジオ・ミューズ】のチャンネルに転載したので、関心のある方は、以下をご覧いただければと思う。ちなみにこのシリーズ、「35歳で結婚@デリー」直前で終わっている。
思えば今年は結婚20周年。早いところ、残り20年分も、一旦、まとめたいところだ。
どんな人間の人生にも、それなりのドラマがあり示唆がある。途上の我が半生にも、参考になる点もあろうかと、この動画では、過去、母校での講演や、若者向けセミナーで語ってきた内容を整理している。現在①〜③までアップロード済み。
【インド発、世界】 🇮🇳🇯🇵世界を旅し、海外に暮らし働く②
◉東京での旅行誌編集者&ライター時代
バブル期の極貧生活、旅の日々、歴史を学ぶ重要性、フリーランス独立の経緯
【わずか3回で挫折した『異郷の食を巡る記憶〜Since 1985〜』ブログより転載】
《002》生まれて初めて食べた小籠包@鼎泰豊 Taipei, Taiwan (November 1988)
大学2年の夏、米国西海岸で経験した1カ月のホームステイ留学を契機に、地元福岡で国語の高校教師になるという進路を見直した。就職情報が乏しい時代。資料を集めて読み漁り、検討した結果、東京の出版社を目指すことにした。就職活動が解禁になった大学4年の夏。東京のウイークリーマンションに1カ月間、部屋を借りた。
インターネットのない時代。願書などは「郵便」でのやりとりだったゆえ、受験できる会社も10社が限界だった。東京に住んでいたボーイフレンドの助けを借りつつ東奔西走したが、結果は全滅。しかし世はバブル経済にわいている。一旦、東京に出てアルバイトをしながら、就職先を探そうと決めた。
1988年3月。大学の卒業式の謝恩会で、お世話になった大学教授にその旨を話したら、大いに呆れられた。見かねた教授は、東京に住む大学時代の友人のつてで、旅行ガイドブックを作る編集プロダクションを紹介してくれ、面接にまで同行してくれたのだった。教授の計らいで職を得られたことは切にありがたかったが、労働条件は過酷だった。
手取り11万円の薄給ゆえ、住まいは千葉県柏市の礼金敷金なしの安アパート。通勤には片道1時間半〜2時間かかる。華やかなバブル景気とは裏腹な、極貧生活が始まった。コンピュータはおろか、ワープロさえないオフィスには、常に紫煙が漂っている。書籍や資料で埋め尽くされた社員らのデスク。灰皿やゴミ箱、流しやトイレを掃除するのも新入社員の仕事だった。
その編集プロダクションでは、大手旅行会社が発行する国内外の各種旅行ガイドブックや情報誌の制作を行っていた。ページネーション作りにはじまり、外部ライターへの原稿の発注、文字校正、写真選び、デザイン発注、写植入稿、印刷所への版下入稿など、コンピュータによるDTP(デスクトップパブリッシング)が主流となった現在では想像を絶するような「アナログ」な編集工程を、先輩の作業を見ながら学んだ。労働環境は、今でいう「ブラック」の極みだ。
入社間もないころから、関東近辺の取材を命じられた。初取材とて一人。見かねた外部のカメラマンに取材の流儀を教わることもあった。一事が万事、極めて雑なOJT(On-the-Job Training)だった。
とある温泉地へ取材へ赴く前、先輩編集者から「モデル」もやるよう命じられた。もちろん嫌だった。ボーイフレンドも反対した。しかし、逆らうという選択肢はなかった。今のわたしなら当然断る。尤も、今のわたしに誰も脱げとは言うまいが。モデルでもないのに、半裸でカメラマンの前に現れねばならぬという苦行。
しかし、その一部始終に一番驚いていたのは、ほかでもない取材先の温泉宿の女将だった。それまで宿について質問をしては、メモを取っていた、色気もくそもない編集者が、突然服を脱ぎ、眼鏡を外し、手ぬぐい一枚で現れるのだから。
だから挙げ句の果てに、仕上がった写真を見た先輩編集者から、「坂ちゃん、二の腕が太い! この写真、使えない!」と言われた時には拳が震えた。時代が時代なら、#MeTooものである。
一つ言えることは、わずか半年足らずで「旅行誌編集者」としての基本を徹底的に叩き込まれたということだ。そして入社して半年後、初めての海外取材を命じられた。行き先は、台湾だ。この台湾取材が、その後のわたしの「旅する人生」に大いなる影響を与えることになる。
「異国を旅するに際しては、歴史を学ぶべし」ということだ。
●1895年、日清戦争に勝利した日本は台湾統治を開始。以降、1945年に日本が敗戦するまでの50年間に亘り、台湾は日本だった。この間、台湾で生まれた人は、日本名を受け、日本語を話す、日本人だった。
●1949年、中国における「国共内戦」の結果、毛沢東率いる共産党が「中華人民共和国」を建国。一方、蒋介石総統率いる国民党政府であるところの「中華民国」は、その拠点を喪失したことから、臨時首都を台北に移転。戒厳体制が発布される。台湾では「犬(日本)が去って猿(中国)が来た」と形容される。
●1987年、米国からの圧力、及びソ連ゴルバチョフ政権の「ペレストロイカ」による緊張緩和政策の影響などにより、38年に亘る戒厳令が解かれる。
●1988年1月、蒋介石の息子、蒋経国総統が死去。李登輝が総統に。
このような歴史的変化が起こった直後の1988年11月、海外からの旅行者を受け入れるべき台湾が門戸を開いたこともあり、ガイドブックの取材対象国となった次第である。歴史的背景を学ぶこともないまま、自分と同じ23歳の先輩編集者二人と、外部のカメラマン二人とで、台北へと飛び、2班に分かれての取材となった。240ページのガイドブックを制作すべく、台北、高雄、台中、台南、花蓮、墾丁などを3週間かけて巡る強行スケジュールだ。
なにしろ、「手書き」の時代である。バックパックに山ほどの資料を詰め込んで、連日、レストラン、店舗、観光地、ホテルなどを何十件も取材する。通訳は、日本統治時代に生まれ育ったおじいさんゆえ、彼には随所で休憩してもらい、どうしても通訳な必要なところだけ、同行してもらった。
取材中は毎晩、資料整理に追われ、数時間しか眠ることができず、慢性的な疲労に襲われていたものの、初めて食する台湾の料理のおいしさには、目がさめる思いだった。蒋介石が臨時政府を樹立する際、中国本土各地の名シェフを連れてきたというだけあり、台湾では、北京、広東、四川、上海、湖南……と、中国各地の料理が揃っていた。
また、茶藝館では、得も言われぬ芳しい香りを放つ黄金色した凍頂烏龍茶のおいしさに衝撃を受けた。日本で飲んでいたあの茶色い飲み物はいったいなんだったのか、と思わせられる、別世界の味覚だった。
東京では、極貧生活ゆえ、ろくなものを食べていなかったわたしにとって、それらの料理は、たとえ写真撮影を終えたあとの冷めたものであっても、おいしすぎた。疲労でお腹の調子が悪かったにもかかわらず、毎日毎日、よく食べた。満腹のあと、しかし胃腸を整えてくれる「高雄牛乳大王」の濃厚なパパイヤミルクを何杯飲んだことだろう。
数ある食の記憶の中でも、突出している店がある。そのひとつが、鼎泰豊だ。繁華街沿いの、古びた3階建てのその食堂は、しかし早朝の開店時からお客でいっぱいだった。店頭では、何人もの従業員が、小さな小さな小籠包をせっせと包んでいる。
「小籠包(しょうろんぽう)」という言葉さえ、日本にはまだ届いていなかった時代。テーブルには、シンプルな豚挽肉の小籠包をはじめ、蟹味噌入り、青菜入り、あんこ入りと、次々に蒸籠が供される。蓋を開ければ、立ち上る湯気と芳香! このときほど、写真撮影の時間が長く感じたことはない。
やや冷めてしまったものの、その肉汁たっぷり、風味濃厚な小籠包のおいしさたるや、筆舌に尽くし難く、疲労困憊の五臓六腑に染み渡る滋味であった。その後、同店は世界的に有名になり、わたしもシンガポールや香港の店に立ち寄った。もちろん、おいしい。おいしいが、あの台北の本店で食べた時の衝撃は、唯一無二だ。
社会人として初の海外取材先となった台湾では、各地で日本統治時代の残像を目にし、未知なる世界の入り口を目の当たりにした。この取材は、わたしにとっての「世界を見る目」を開く、契機となったのだった。
*取材時、カメラマンが撮ったポジティヴ・フィルムに残された23歳のわたし。疲労困憊でやつれている割に、ばっちりとメイクをしているところが涙ぐましい。時代を映す真紅の口紅。エスニック雑貨店で買ったストールは、今見るに、インドもの。(2019/01/13)
【その他、話題に出た情報の関連サイトなど】
*1988年の取材当時、台湾の原住民は「九族」とされていた。当時、政府によって分けられていた九部族の生活を知ることができる「九族文化村」(1986年創業)が、南投県にあった。同施設は今でも存在しているようだ。なお、台湾政府が現在、認定している原住民族は、計16族だとのこと。
●台湾原住民 https://ja.wikipedia.org/wiki/台湾原住民
●順益台湾原住民博物館 http://www.museum.org.tw/symm_jp/08.htm
*高雄牛乳大王 https://tabelog.com/taiwan/A5402/A540201/54000043/
*思い出の湖南料理店 https://www.pengyuan.com.tw/branch/linsen
【以下、1993年、母と妹と共に台北を再訪したときの写真より】
取材から5年後の1993年の再訪時に撮影した写真(ポジティヴ・フィルム)を発掘し、28年ぶりに光を当てた。ポジの画像を取り込む機材がないので、ぼやけた写真ではあるが、むしろ歳月の流れが感じられるかと思う。
☝︎故宮博物院の入り口にて。青天白日満地紅旗。中華民国の国旗。
☝︎当時はまだ日本統治時代の建築物が随所に残っていた西門町。その中心部にあった西門市場は、我が子ども時代(昭和40年代前半)、近所にあった市場を思わせる「懐かしさ」が漂っていた。
☝︎屋台で売られていた大振りの大学芋。本当においしかった。
☝︎母と妹。
☝︎マンハッタンを思わせる(!)イエローキャブが道路を埋め尽くしていた。
2度目の旅は、折しも台湾光復節。当時、台湾の独立を叫ぶ運動が展開されていた。ちなみに10月25日の台湾光復節は、中華民国の記念日。台湾における日本の統治が1945年10月25日に終焉を迎えた日。
◉台湾光復節 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%85%89%E5%BE%A9%E7%AF%80
◉台湾共和国 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD
☝︎国立故宮博物院の歴史には、日本も大きく関わっている。日本軍による戦火を逃れ、毛沢東による文化大革命における文化財の組織的破壊から逃れた、すべての所蔵品が、数奇な歴史を背負っている。
ああ、今一度、見に行きたい!!
……わずか90分では到底語り得ない、台湾旅の思い出。ガイドブックのページをめくれば、当時の記憶が次々に蘇り、旅情エンドレス。インドですら、未踏の地だらけなのに、さらに旅情を刺激するようなことをして、わたしはいったい、どうするつもりなのだろう。
* * *
🙏李登輝「台湾に生まれた悲哀」で貫いた奉仕人生/どんなに大変でも台湾の為に次の世代の為に
2020年7月に他界された李登輝元首相に関する記事。
https://toyokeizai.net/articles/-/366393?fbclid=IwAR3stq1UdWDayYuRcoVuhcWvCcQZTIo0cusOBMqt6ehIxeOOc1FWCcMhUgY
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