今回、京都には6泊、東京には白馬村滞在を挟んで計5泊、滞在した。出発前、わたしは仕事や雑事でかなり立て込んでいたことから、両都市のホテルに関しては、夫に手配を頼んでいた。ロケーション、広めの部屋のサイズなどを優先し、あとはネット上の写真やレヴューを参考に、最終的には二人で確認して決めた。
両方とも三井不動産グループの「ザ セレスティンホテルズ」を選んだ。京都祇園も銀座も、2017年創業と新しい。客室には浴槽があり、朝晩と湯船に浸かることで、疲れを癒すことができた。時差ボケには(大した時差ではないが)、お湯に浸かるのが効果的なのだ。
また、ぐっすり眠れるよう2つのベッドがある部屋を選んだが、マットレスのクオリティも高く、広々としていたので、熟睡できた。今回、3週間の旅の途中で、体調を崩すことなく元気でいられたのは、「しっかり朝ごはん(和風)を味わった」「湯船に浸かった」「よく寝た」の3つが大きい。その点においては、実践的でいいホテルだったと思う。
しかし一方で、「洗練された空間」と「使い勝手のよい空間」というのは異なるのだということも実感した。そもそも利便性が高い一方、狭いエリアに建てられた両ホテル。ロビーは天井を高くとっているにもかかわらず、不思議と開放感がない。
内装を最小限に抑え、上品に統一しているのであろうことはわかるが、京都のホテルは6泊しても、ロビーや部屋に至るエントランスドアがわかりにくく、行きつ戻りつした。ラウンジのムードも、写真で見た印象とは異なる。
また、両ホテル共に、ダイニング(京都は和食、東京はイタリアン)のレイアウトに閉塞感があり、動線がよくない印象を受ける。京都では、混み合う朝食のブッフェで料理を取りにくく、ゲスト同士がぶつかり合いそうになる。さらには、未だテーブルには飛沫防止のパーティションが置かれているから、店内の高級感は損なわれ、カジュアルな食堂のような印象を受ける。
銀座のダイニングは、最上階で眺めがいいものの、狭さをカモフラージュするための、エントランス界隈の鏡が紛らわしい。また、空調の音なのか、電子音が店内を満たしていて落ち着かない。
朝は静かに、摩天楼を眺めながら食事を楽しみたいところだが、電子音に重ねて、繰り返し流されるセンスがいいとは思えないバックグラウンド・ミュージックの音が大きい。少し小さくしてほしいと頼んでも、できないという。確かにわたしは聴覚が敏感だが、それでも大音量がスタンダードなインドに暮らせているから、寛大を心がけているほうである。
あまりネガティヴなことは記したくないが、これは個人的な紀行文ゆえ、本音を記しておく次第。
空間が落ち着かなかったとはいえ、京都のホテルのダイニングは、天ぷらの名店「八坂圓堂」であり、朝食も同店の和食が並び、満足できるものだった。ごはんや味噌汁にはじまり、だし巻き卵や湯葉など京都の名物料理をはじめ、旬の筍の煮付け、こんにゃく、カボチャやサツマイモの天ぷらなど、いずれも上品な味付けでおいしい。洋食のブッフェもあったが、わたしたちはほぼ毎日、ごはんと味噌汁を楽しんだ。
なにしろ6日も滞在しているので、スタッフの方々も毎朝にこやかに迎えてくれる。「おはようございま〜す!」と、かなり大きめな声で厨房の料理人男性に声をかける夫。その様子が「職員室に入っていく元気な生徒」のような塩梅で、笑える。
思い返せば海外旅行誌の編集者として旅をはじめて35年になる。これまで数々の国の、ピンからキリまで、無数の宿に泊まり、その多くを記録に残してきた。無論、良くも悪くも印象的な宿のことは、写真を残していなくても、今なおかなり鮮明に思い返すことができる。それが、35年前のことであっても。
「忘れ得ぬ宿」「また必ず訪れたい宿」というのは、当たり前だが値段やクオリティに比例するものではない。こう書きながら、脳裏に浮かぶのは、モンゴルのゴビ砂漠のゲル(笑)、イタリアはアッシジの修道院ホテル、北スペインはコミーリャスの海辺のホテル、ベルギーはブルージュの川沿いのイン、モニュメント・ヴァレーのネイティヴ・アメリカン居住区……と次々にイメージが浮かぶ。そしてもちろん、インド各地の個性的な宿のあれこれも。
旅の経験値もまた、今後は活かしたいと思う、今回の旅だった。
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