5月27日の夕暮れどき。講演を終えてホテルに戻り、サリーから部屋着に着替えてコーヒーを飲む。一息つきながら、窓越しに広がる摩天楼を眺める。少し疲れているし、日も傾き始めているが、今日は行きたい場所がある。
5月27日は、2004年に他界した亡父の命日だった。去年は、福岡のお墓にて、命日のお参りができたが、例年はインド自宅の「八百万の神コーナー」で手を合わせるのが恒例だ。
今年は、奇しくも命日にムンバイにいるご縁があったので、眼前に見下ろす「日本人墓地」に赴き、手を合わせようと思っていた。ホテルからは、喧騒の街路を通り抜けて10分ほど先にある日本人墓地。
記録を遡れば、初めて訪れてから、ちょうど10年経っていた。
この10年間、ムンバイを訪れるたびに、必ず詣でてきた場所。
ムンバイには、1952年に、ビルラ財閥の慈善活動の一環として建立された「日本山妙法寺」がある。建設の背景には、日蓮宗の藤井日達上人やマハトマ・ガンディーの存在が大きく関わっている。
また日本山妙法寺から数百メートル離れた場所には、「日本人墓地/供養塔」がある。
埋葬地自体は、1908年から存在していたが、墓地として整えられたのは、1933年。今から100年以上前、ムンバイには3000人を超える日本人が暮らしていた。
最初にムンバイを拠点に活動した日本人は「からゆきさん」。
19世紀後半、熊本や長崎の貧村から、多くの若い女性たちが、東南アジア、南アジア、果てはアフリカへと売られた。「からゆきさん」と呼ばれた彼女たちはまた、このムンバイ(ボンベイ)にもいた。
この墓地には、からゆきさんをはじめ、当時、綿貿易に携わっていた日本人駐在員や、第二次世界大戦の際、捕虜となってマハラシュトラ州の収容所にて落命した兵士らの英霊がここに眠っている。供養塔の脇には墓碑銘があり、若い日本女性らの名前が並ぶ。
この墓地は、近くにある日本山妙法寺によって管理されているが、掃除などを任されているのは、敷地内のバラックに暮らす一家だ。初めて訪れた10年前以降、毎回ヤショーダヤというおばあさんが、笑顔で出迎えてくれていた。一緒に掃除をし、蝋燭に火を灯し、わたしが持参する日本の線香を焚き、手を合わせて南無妙法蓮華経を唱える。
しかし昨年、2022年9月に訪れたとき、ヤショーダヤの姿はなかった。パンデミックの最中、他界されていたのだった。🙏
今回はヤショーダヤの娘と、二人の孫娘が出迎えてくれた。長女のジャグルティは大学を卒業し、今、国営放送のドゥールダルシャン(Doordarshan/DD)に勤務しているのだという。次女のアイシュワーリアは大学生。今、日本語の勉強を始めているのだという。
「ここが日本の墓地だから、日本に関心を持ったの?」
と尋ねたら、
「ううん、そうじゃないの。日本の漫画が好きなの」
と、屈託のない笑顔。素直でかわいい。
理由がなんであれ、日本に関心を持ってもらうのはうれしい。次回の訪問時には、日本にゆかりのあるものを、お土産に持ってこようと思う。
なお、日本山妙法寺や日本人墓地、からゆきさんを巡る物語や撮影してきた写真もまた、尽きない。これまで多くの記録を残してきたが、そのなかのいくつかを、『深海ライブラリ』ブログにまとめた。ムンバイやインドに関わる方には、目を通して欲しいと思う。また、毎度おなじみのライフスタイルセミナー動画のリンクも貼っておく。
さらには、一時期、インド系Youtuberの眞代さんとコラボレーション動画を作っていた時、「からゆきさん」をテーマに取り上げた。この動画は極めて見応えがある。どうぞご覧ください。
🙏ムンバイの日本山妙法寺と日本人墓地を巡る個人的な記録のまとめ(2011年〜)
https://museindia.typepad.jp/library/2013/05/bb.html
以下の動画は、日本とインドの交流史にも言及しています。インドに関わる方におかれましては、どうぞお役立てください。
🇮🇳パラレルワールドが共在するインドを紐解く③明治維新以降、日本とインドの近代交流史〈前編〉人物から辿る日印航路と綿貿易/からゆきさん/ムンバイ日本人墓地/日本山妙法寺
🇮🇳パラレルワールドが共在するインドを紐解く④明治維新以降、日本とインドの近代交流史〈後編〉第二次世界大戦での日印協調/東京裁判とパール判事/インドから贈られた象/夏目漱石
🇮🇳パラレルワールドが共在するインドを紐解く⑤ インド国憲法の草案者、アンベードカルとインド仏教、そして日本人僧侶、佐々井秀嶺上人
🇯🇵「からゆきさん」を探る〈前編〉貧しい時代の日本。身を挺して海外で働いた女性たちの歴史を紐解く
🇯🇵「からゆきさん」を探る〈後編〉「からゆきさん」を経てボンベイでマッサージ店を起業。タフな女性の生き様に見る民間外交。誇り高き信念。
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