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🙏この丘を巡ることはよいことだ。
プラダクシナという言葉の
「プラ」という文字はあらゆる罪の浄化を、
「ダ」は望みの成就を、
「クシ」は輪廻転生からの離脱を、
「ナ」はジュニャーナを通しての解脱を表す。
🙏プラダクシナは、「すべてが私の中に在る」を意味する。
アルナーチャラの周囲を歩くことは、世界を一周するに等しい霊験がある。
つまり、全世界がこの山の中に凝縮されているということだ。
それゆえ、すべてが真我の中に存在するのである。
(シュリ・バガヴァン/ラマナ・マハルシの言葉より)
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ラマナ・マハルシの教えを深く吸収しているわけではない。
この地に強く惹かれる理由があるわけでもない。
ましてや祝祭日の大喧騒の中、人ごみに揉まれて歩くのが好きなわけでは、当然ない。
にも関わらず。自分でも説明のつかない衝動と経緯によって、またしても満月の日の巡礼。
朝、6時過ぎに宿を出て、時計回りに山の周囲を歩く。ラマナ・マハルシが存命だった時代、この山麓は自然美にあふれていただろう。しかし、今は車やバイクが行き交い、風情なき道路を歩くばかりだ。心が洗われたり、魂が浄化されたりする雰囲気は皆無のその巡礼路。しかし、また歩こうと思うのは、もはや「嗜好」ではなく、「指令」だ。
還暦までの準備期間を意識し始めてから、「降りてくる声」に耳を傾ける。自分の意識や嗜好を超えた直感。
それは、この先を生きる上での課題であり修行であるとも思う。とはいえ、一年に3度目の14kmとはいかがなものか。
前回は、この周回に曼荼羅を見た。
今日は、我が人生訓の一つ「裸一貫の自分を思え」を、再認識した。ここを歩く人間、老若男女。ひとりひとりの来し方行く末、ステイタス、あるいは資産、そういうあらゆるものを虚しくする。現在だけが見える。
布一枚を身に付けて、生涯を過ごしたラマナ・マハルシは、やはり南アフリカから帰国後の生涯を、布一枚で過ごしたマハトマ・ガンディにも強い影響を与えているという。
持たざる者の持つ力。
とはいえ。資本主義社会の中で生きうえには。銀行口座の残高の数字が、わたしたちの心にゆとりを与えてくれているのも事実。それは、わたしたちの、これまで積み重ねてきた努力の証ゆえ、否定するつもりはない。経済的な余裕は、未来への不安を和らげる。世のためにできることを考えるための糧にもなる。
しかし。
その数字を超えて、わたしが見つめるべき場所は、自分の深奥。その深遠。そのことを、教えられている。
ともあれ、言葉にすると軽い。誤解を招きそうなほどに軽いので、この辺にしておこう。
喧騒の、埃にまみれて14kmを歩いてこそ、肌身に感じられること。
点を、点だけを、語るなかれ。
世界は点と点の間に引かれる無数の線、によって構成された面。そしてその重層につき。
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