今年(2009年)の3月のこと。ムンバイの新聞のローカル特集ページに、オリジナルの香水を調合してくれるムスリム(イスラム教徒)の女性、サビーナの記事が載っていました。
先祖代々のファミリービジネスを受け継いで、夫とともにオベロイ・ショッピングセンターの一画に店を構えているという彼女。使用するのはすべて天然素材の濃縮オイルで、アルコールほか化学薬品は一切使わないとのこと。
インドに暮らし始めて以来、食事にせよ、コスメティクスにせよ、そして衣類にせよ、インドならではの「自然派」を取り入れた生活をしているわたしにとって、その香水の記事はとても興味深く、早速訪れました。
●宗教的な背景を持つ香水。インドから、世界へ。
ムスリムの人たちによる香水店の存在は、以前から知っていました。南ムンバイのコラバ地区にある、しばしば訪れていた商店街にも、棚に香水入りの瓶を並べた専門店が点在しています。
店内には、ムスリムの白衣に身を包み、髭をたたえたごっついおじさんが座っているのが一般的です。
香りに関心がないわけではなかったのですが、民族色、宗教色の強いそのたたずまいに加え、香りもまた濃厚すぎるのではないかという印象があったため、敢えて店内に入り、香りを試してみようと思うことはありませんでした。
しかし、今回記事を読み、自分の体質や精神状態に合わせた香水を作ってもらえることがとても魅力的に思えました。
笑顔で出迎えてくれた調合師のサビーナ。彼女曰く、この店には調合されたもの、あるいは調合されていないものを含めて、5000種類もの香りがあるとのことです。
そもそも、香水は「宗教儀礼用」もしくは「薬用」として成り立ち、発達してきました。この店もまた、25%がムスリムの顧客で、宗教用に使われることが多いそうです。
またムスリムだけでなく、ヒンドゥー教徒の人々も、寺院での祭礼用に買い求めるのだとか。バンガロール出身の彼女は、バンガロールの寺院にも顧客をたくさん持っているとのことです。
仏教にもまた、仏前に捧げるものとしての、閼伽(あか)や香水(こうずい)の存在があることから、宗教と香りとは密接な結びつきがあるようです。
その他の顧客の大半は、欧米の香水業者の買い付け人だとのことで、ここで香水のもととなる天然の濃縮オイルを購入し、各ブランドが独自の配合で香水を作るのだといいます。
尤も最近では、天然の香料ではなく、薬剤により安価で香りを作り出す方法もとられているとのこと。匂いを嗅いで頭が痛くなるような激しい香水は、質のよいものではないのかもしれません。
●香水の魔術師サビーナと、彼女の香水
サビーナの家族、親戚はみな、香水関係の仕事をしていて、彼女も自然とこの道に進んだのだといいます。
現在35歳の彼女は、17年前からこの仕事をしているとのことですが、香水に関するアカデミックな教育を受けたわけではありません。
インドのあちこちを旅し、さまざまな花やハーブ、樹木、スパイスに触れ合い、独学で「大地の芸術」を身につけていったとのことです。
彼女曰く、ビジネスよりもまず、香水に対する情熱を重んじていて、だからこそ、なるたけピュアなものを人々にまとってほしいと考えているのだそう。
「従兄弟たちは、商売を優先しているから、普通の香水と同じように、アルコールを配合したりしているの。でもわたしは、アルコールや薬剤を配合することで自然の香りが喪われることを知っているから、決して使いません」
「香りは、気持ちや身体のコンディションを左右するもの。生活する上でとても大切な要素なんです」
ここで売られている香水は、アロマセラビーにも、もちろん使えます。ただ、一般のエッセンシャルオイルと違って水で薄めたりキャンドルで温めたりする必要がないのだとか。
「小皿の上に入れておけばいいのです。それだけで香りが漂いますから。残りはまた瓶に戻してもいいんですよ。香りは永遠に続くんです」
さて、オリジナルの香水を作ってもらう前に、まずは予算を確認しておかなければなりません。希少価値の高いオイルもあるから、もしもそれをたくさん使うことになっては、たいへんなことになってしまいそうだから。
と、彼女曰く、
「香水は種類によって値段が全く違います。本当にピンからきりなので、オリジナルの香水に関しては、このボトル1本(約150ml)で5000ルピーと設定しています。あれこれと混ぜ合わせますから、厳密に料金を出せないので」
とのこと。日本円で1万円。インドの物価を考えると、決して安くはありません。
しかし、普通の香水が70%ほどもアルコールで薄められていることを思えば、100%天然素材で、しかも自分だけの香りだと思えば、価値はあるように思います。早速、作ってもらうことにしました。
●自分のことを語りつつ、さまざまな香りを嗅ぎつつ……
香水作りの過程は、実に楽しいものでした。というのも、香りの一つ一つの成り立ちを彼女に聞くことができたうえ、彼女もまたわたしの話を聞きながら、わたしのイメージを掴み、それに合わせた香り作りを行ってくれたからです。
結果的にわたしは、店に2時間半以上も居座っていました。ランチを食べていなかったのに、空腹を覚えることなく、香りの世界に没頭させられ、それはまるで、カウンセリングを受けているようでもありました。
まず、簡単に自己紹介をした後、彼女が一つ一つのボトルを開けて、香りを嗅がせてくれます。その香りが好きか嫌いかの反応を、彼女に伝えます。
まずはホワイト・ムスク。やや、甘め。次にヴァニラ。思ったよりも甘くない、いい香り。ラヴェンダーの花。なじみのある香り。リラックス効果があることで知られています。ついでジャスミン。ああ、ジャスミンティーが飲みたくなってきました。
ラヴェンダーの根。おおぅ。根だけあって、なにやら土の湿ったような匂いです。あまりいい香りとは思えませんが、しかしこれは大地に近い香りで、精神を深く鎮めてくれる効果があるとのこと。そういわれると、確かに気分が落ち着く気がします。
今度はジュヒ (Juhi) 。ジャスミンに似ていますが、ジャスミンではない似た別の花の香りだとか。次はサンダルウッド。しかし、サンダルウッド特有だと思っていた強さはなく、かなりマイルド。甘い風味もします。聞けばサトウキビを少しブレンドしているとのこと。
ジャスミンのつぼみから抽出した香り。ああ、これは本当に爽やかでいい香り。ジャスミンの花にグリーンティーの爽やかさが混ざったようで、好きな匂い。気分が清々しくなる感じです。
次は3種のブレンド。バラとジャスミンのつぼみ、そしてジュヒ。結婚式の花嫁がつける香りなのだそうです。バラは、なじみのある酸味と甘みとエレガントな香りとは異なり、若干、きつくて濃い気がします。
聞けばこのバラは、オリッサ地方のガンジャムというところでとれるものらしく、このままだと香りが強いのですが、非常に人気の高い高級種で、海外からの買い付けも多いのだとか。
そして次は、奥の間から取り出されてきた濃厚な黒い液体。ブラック・ムスクです。ムスク、即ち麝香(ジャコウ)は、そもそも雄のジャコウジカのヘソのあたりにある香嚢からとれる分泌物を乾燥したもの。
古来より、香料としてだけでなく、漢方薬など薬としても利用されてきました。産地についてわたしはおぼろげながら、中国やアフリカをイメージしていたのですが、実は中国とインド(ネパールやチベット界隈も含む)で採取されてきたのだそうです。
ジャコウジカが殺されるケースが続き、今では採取を禁止されているとのこと。つまり現在、世間でムスクと言われているのは合成香料だそうです。
彼女ははっきりと言いませんでしたが、ここでは「本物のムスク」も扱っているようです。「山に暮らす専門の人たちに頼んで、採取してもらっているんです」とのこと。
さて、ブラック・ムスクは、なじみのあるムスクとは異なり、とてもいい香りとは思えない、濃厚で、どっしりとした強さです。この香りは、鬱病に絶大な効果を発揮するのだとか。
次は緑色のカス (KHAS)と呼ばれるオイル。これはケシの種からできているそうで、体内の血液などの循環をとてもよくするとのこと。手のひらの指の付け根などにつけてマッサージをするよいようです。
それからラミヤ (LAMIYA)。これはカシミール地方産のサフランと蜂蜜を配合したもの。お湯で溶いて飲みたくなるような風味です。これは若々しさを保つ効果があるとのこと。
ついでアンバー。これは精神の鎮静化に作用します。
そしてなじみのあるユークリップス(ユーカリ)のオイル。これは我が家でもよく使っています。風邪の引きはじめなど、洗面器にお湯をはって、オイルを数滴たらし、頭から洗面器ごとバスタオルで覆って頭部をサウナ状態にします。
このスチームがかなりききます。スチームができないときは、コットンにほんの少量(肌への刺激が強すぎない程度)を垂らして、両耳に詰めると、頭から目頭、鼻にかけてがすっきりするのだそうです。
そして次はアラブの国々から需要が高い香料で、DEHNAL OUDHと呼ばれる高価なもの。アッサムのジャングルに自生しているアガール・ウッド (AGAR WOOD)の樹皮から作られるとのこと。テーブルの下のガラスケースに入っているのがそれです。
このオイルを作るには、3カ月間、樹皮を煮続けてオイルを抽出し、それから5年間、暗室で寝かせるとのことで、まるでワイン作りのようでもあります。
デトックス効果があるという5SPICESは、彼女のブレンド。レモングラスなどが使われて、爽やかな柑橘系が夏に似合ういい香りです。
そしてヒマラヤ・スプリングウォーターと名付けられたブレンド。オレンジ、アムラ、トゥルシ(インドの聖バジル)、ミントなどがブレンドされていて、これもまた気分がリフレッシュするいい香り。
最後に彼女が最近、ブレンドして作り上げたという香水、REEM。
別名を"She is the perfect girl" 。
オレンジの皮やオレンジの花、ニーム、レモン、ムスクなどが配合されているとのこと。
いろいろ混ぜずに、もうこれだけでもいい香り。これが欲しい気もしますが、何しろ「パーフェクト・ガール」と命名されています。大人なわたくしには、ちょっと香りが若々しすぎるかもしれません。
大人の女としては、ちょっとリッチで深みのある香りをまといたいもの。
ところで、これだけたくさんの香りを試していながら、ちっとも頭が痛くならない自分に驚きました。実はわたしは、一般で売られている香水には苦手なものが多く、たとえそれがいい香りでも、場合によっては頭痛や吐き気を催したりしていたのです。
それでもたまには香水を試してみたく、一度シンガポールへ母と赴いた折には、かなり自然派のブランド、Annick Goutalの専門店で、Le Chevrefeuilleという香りを探し当てました。
その香りは今までのなかで一番気に入っていたのだが、すでに使い切ってしまい手元にありません。
ともあれ、数々の匂いをかいだにも関わらず、嗅覚にさほどの混乱はなく、ましてや頭痛などまったくせず、むしろどんどんリラックスして、香り以外にもあれこれと話をして、結果的にずいぶんと長居をするに至ったのは、自然の香りがもつやさしい力のおかげだったのでしょうか。
●いよいよ自分のための香り作り。肌につけて、香りを確認しながらの作業
さて、これまでが「香りの模擬テスト」ならば、これからが本番です。
サビーナ曰く、ベースとなるムスクに加え、5、6種類の香りをブレンドするのだとのこと。なお、一般の香水は、何十種類、何百種類もの香りが混ざり合っているのだそうです。
まずはベースとなるムスクの香り選び。最初はホワイトムスクを甘いと感じていましたが、改めて香ると、これがいいように思えてきました。彼女はまずこれをビーカーに注ぎます。
ブレンドされた香水は、紙切れにつけたあと、肌に塗ります。香水は、人の体臭や体温によって香りが変化するので、自分の肌につけてみてしばらく時間をおいてから、確認するのがいいのです。
●第一のブレンド:ジャスミンのつぼみ。ここで香りを確かめます。うむ。いい香り。しかしオリジナルの香水、と呼ぶには物足りないシンプルさです。
●第二のブレンド:ベラ・ジュヒ・ローズ。バラとジャスミンとジャスミンに似た花のブレンド。香りに複雑なメロディが織り込まれました。
●第三のブレンド:ヒマラヤ・スプリングウォーター。ここで瑞々しさとまろやかさが加わります。
●第四のブレンド:バラ。ううむ。このバラは、ちょっときつい。さっきでやめておけばよかったかも。しかし、肌につけてしばらくすると、きつさがとんで、温もりのある香りに変わっています。
バラでちょっと混乱したわたしの様子を見て、彼女は別の瓶を取り出した。
●第五のブレンド:Reem。例のパーフェクト・ガールです。ここで柑橘系の爽やかさと溌剌感が添えられました。同時に香りに深みが増しました。主旋律だったバラが後手に回り、柑橘系がメロディを奏で始めた感じです。
もう、これでいいかも、と思ったのですが、彼女が最後にもう一種類、加えたいといいます。
●第六のブレンド:サンダルウッド。彼女曰く、サンダルウッドは「太陽の光」のような存在なのだとか。これが加わることで、香りに光が射すのだとのこと。
確かに、彼女の言う通り。香りがうまく、まとめられた感じです。そしてとうとうわたしだけの香りが出来上がりました。うれしい!
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最終的には多めに作ってくれた彼女。3種類のボトルすべてにおさまるよう調合してくれました。そして最後に、「どんな名前をつけますか?」と問われたので、とっさに "MUSE" と答えました。
わたしがニューヨーク時代に経営していた出版社 Muse Publishing, Inc.から取った名前です。
ボトルはそれぞれ恭しく、素朴なケースにおさめられました。
夫、アルヴィンドのためにも、リラックス効果や、サイネス問題に効果のある、なにかシンプルな香りを買っていこうと思い、彼女にアドヴァイスを仰ぎました。
と、彼女は食生活や民間療法に関していくつかの提言をくれ、そしてまずはそれを試してから、香りを試されるといいですよ、とのこと。
香りの話を通して、彼女といくつもの言葉を交わしましたが、印象的だったのは、「自分の体調が悪いなどと思い込んではいけない」といったことでした。なんに対してもポジティヴな姿勢でいること、そして眠りにつく前は、心を平穏にすることなどが大切なのだとアドヴァイスをしてくれます。
わかっているはずのことでも、そして自分で実行しているつもりでも、実はそうではないことを、再認識しました。
「わたし、年齢とともに、新陳代謝が悪くなっているのか、太りやすくて、以前なら食べ過ぎても体重をもとに戻せたのに、最近は戻せないんです」
などと打ち明けたとき、彼女はこういいました。
「年齢と新陳代謝が関係があると思いすぎるのがいけません。老齢でも痩せている人はたくさんいますし。まずは自分がなにを食べているかをきちんと認識すること。そしてよい食べ物は、身体にきちんと作用していると自覚しながら口にすることです」
思い込まずにいようと思っていたにも関わらず、実は自分にとって都合の悪いことは、加齢だのなんだのと、身体のせいにしていた気がします。反省しました。
ムンバイ在住もしくは訪問予定がある方で、興味があれば、お立ち寄りになってみてはいかがですか。店の場所がわかりにくく、類似の店がいくつもあるので注意が必要ですが、この住所があれば大丈夫なはずです。
SHAMA PLAZA: Indian Perfumers
Sabeena Y. Shama (Specialist in: Oil base pure concentrated perfumes)
M-36/36, Hotel Trident, 1st Fl. Oberoi Shopping Centre, Nariman Point Mumbai
Phone: 022-2287-5786