写真上:2001年1月のマンハッタン。自宅アパートメントの屋上から、セントラルパークを見下ろす風景
米国でも、折にふれ、パーティーを開いていた。ニューヨークでミューズパブリッシングを立ち上げたばかりのころは、ネットワークを広げ、出会った人々との懇親を深めるためにも、半年に一度ほど、開催していた。
当時住んでいたマンハッタンのアパートメントは少し広めのステュディオ一室。自宅兼オフィスだったその部屋で、思えば30名、40名を招き、ひしめきあうようにしてパーティーを楽しんだものである。
ニューヨーカーは、狭苦しいところで開かれるパーティーに慣れているから、それは別段、特異な状況ではない。部屋に満ちる人々の会話、グラスの音なる重なる音、笑い声……。
パーティーの前日は、近所のスーパーマーケットとリカーショップ、それから花屋へ買い出しに出かける。たくさんの料理を作ることを、億劫ではなく、むしろ楽しく思っていた。パーティーの当日には早い時刻から狭苦しいキッチンにこもり、準備をする。掃除、テーブルセッティング、すべてひとりでやっていた。
さて、翻って明日。
インドに来て以来、初めてのパーティーを我が家で開く。40名ほどのゲストが来訪する予定だ。今日はそのための食料の買い出し。米国と異なるのは、すでにご存知の通り、すべての食品が一カ所で手に入らないこと。
今日もまた、ドライヴァーのクマールと家政夫モハンの3人で、ラッセルマーケットをはじめ、新鮮野菜店、肉屋、リカーショップ、パン屋、菓子屋、鍋釜屋などを求めて、市街を行ったり来たり。相変わらずの渋滞だから、目的のものを揃えるのにも一日仕事だ。
今回は初めてのパーティーだから、自分で食材を確認し、どれほどのボリュームが必要かも見ておきたかったので買い物に密着していたが、今後はクマールとモハンだけで買い物に行ってもらうことになるだろう。
ところで、モハンが大量の料理を作ることができるのだろうか、ちょっと心配だったので確認したところ、例の24年間、働いていた(奉公していた)家では、彼曰く、"Everyday" "40, 50 people" を招く "Party" が開かれていたという。
料理人は彼を含めて2人で、毎日朝から晩まで、働き詰めだったとか。食事は遅めの朝と、夜、パーティーが終わってから深夜の2回だけ。いつも忙しかったという。でもって、その家の2人の子供が、"Very Bad"だったらしい。子供が"Very Bad"だったことは、すでに彼の口から何度か出て来た。よほど困った子らだったのだろう。
毎晩パーティーというのは大げさにしても("sometimes"とか"often"とかいう表現を知らないから"Everyday"なのかもしれない)、いったい、どんな家だったのか。インドの富裕層は桁外れだから、あながち大げさでもないかもしれない。
そういう背景があるから、彼は辛抱強く働くのね。ともかく彼は、大仕事に慣れている様子。つまりは、わたしも心配することはない。
昨日のうちに、どういうメニューにするかを打ち合わせ、彼は主菜の大半を、わたしは前菜のカナッペやサラダなどを作ることにした。いや、なにもわたしが作る必要もないのだけれど、なにか、ちょっとくらいは作りたいのだ。
食器洗いや給仕などは、クマールの妻が手伝いに来てくれることになった。
今まではパーティーとなると、ゲストと話したいが故、準備はできるだけ早めに整えてはいたものの、それでもキッチンから出たり入ったりを繰り返しで忙しかった。しかし明日は、ゆっくりと、パーティーそのものを楽しめそうだ。