先日、日本から取り寄せた本を、折を見て、あれこれと、読んでいる。最も心を奪われているのは、やはり一番欲しかった竹内浩三の全集『日本が見えない』だ。
前回、彼の詩、「骨のうたう」を転載するにあたり、彼の「ホームページ」とおぼしきサイトにアクセスし、著作権のことについて念のため問い合わせた。通常、作者の死後50年が経過している場合、著作権は消滅するが、彼の作品はお姉さんである松島こう子さんが所蔵しているらしく、一応確認したかったのだ。
ホームページの担当者曰く、著作権はフリーとのこと。また、お姉さんの松島こう子さんも、多くの人に彼の作品を読んでほしいと思っていらっしゃるようなので、積極的に「転載」を勧めていただいた。
英訳までも依頼されてしまったが、それは大変な任務につき、安請け合いはできない。が、いくつかの詩は、自分なりの感覚で、英訳をができたら、とも思う。
わたしは、編集者、ライターという職業を経て来ている割に、読書数が少ない。わたしは、熱心な読書家ではない。一番読んでいたのは、小学校へ上がる前の数年間と、大学時代ではなかろうか。
東京時代は、日々の仕事に追われていて、仕事以外で活字を読むのが辛く、本を読む時間があれば、寝ていたいと思っていた。
米国に移住してからは、日本語の書籍が手に入りにくくなったうえ、日本語の本を読むよりも英語の本を読んで、英語力を身につけるがいい、などと思っていて、結局はどちらもあまり読まなくなった。
故に、多くの作家の文体を知る訳でもなく、多くの作家の傾向を知る訳でもない。そんな数少ない情報の中からでも、敢えて言うならば、この竹内浩三と言う人の「言葉」「感性」「情緒」「発想」「在り方」が、途方もなく、我が琴線に触れる。すばらしい、という賛辞の言葉よりも、むしろ共感。
遠い時代に、ずっと自分より若くして死した人への。
インドとは、まったく関係のない彼の存在ではあるが、カテゴリーに「竹内浩三に関すること」を設けた。これから折にふれ、彼の作品を、転載してみたいと思うのだ。
●街角の飯屋で
カアテンのかかったガラス戸の外で
郊外電車のスパァクが お月さんのウィンクみたいだ
大きなどんぶりを抱くようにして ぼくは食事をする
麦御飯の湯気に素直な咳を鳴らし どぶどぶと豚汁をすする
いつくしみ深い沢庵の色よ おごそかに歯の間に鳴りひびく
おや 外は雨になったようですね
もう つゆの季節なんですか
●雲
空には
雲がなければならぬ
日本晴れとは
誰がつけた名かしらんが
日本一の大馬鹿者であろう
雲は
踊らねばならぬ
踊るとは
虹に鯨が
くびをつることであろう
空には
雲がなければならぬ
雲は歌わねばならぬ
歌はきこえてはならぬ
雲は
雲は
自由であった
●筑波日記(二) 1944年5月8日
隊長室へ入る作法と云うやつはなかなかむつかしい。ノックする。戸をあける。まわれみぎをして、戸をしめる。またまわれみぎをして、けいれいして、中隊当番まいりましたと云う。まわれみぎは二度するだけだけれども、なんどもくるくる廻るような気がする。そして、それがワルツでもおどっているようでたのしい気さえする。その場で、入ったものと、出ようとするものとがかさなって、二人でくるくるまわりをやるなどは、たのしいものである。
●1944年6月14日 手紙(姉の三女、松島芙美代宛) 筑波
オ前ガ生マレテキタノハ、メデタイコトデアッタ。オ前ガ女デアッタノデ、シカモ三人メノ女デアッタノデ、オ前ノオ母サンハ、オ前ガ生マレテガッカリシタトイウ。オ前ハセッカク生マレテキタノニ、マズオ前ニ対シテモタレタ人ノ感情ガガッカリデアッタトハ、気ノドクデアル。シカシ、オ前マデガッカリシテハ、コレハ生マレテコンホウガヨカッタナドト、エン世的ニナル必要モナイ。
オ前ノウマレタトキハ、オ前ノクニニトッテ、タダナラヌトキデアリ、オ前ガ育ッテユクウエニモ、ハナハダシイ不自由ガアルデアロウガ、人間ノタッタ一ツノツトメハ、生キルコトデアルカラ、ソノツトメヲハタセ。