インドでの日常がはじまった。相変わらず埃っぽい混沌で、帰国早々、なんだかんだと、面倒が起こったりもするが、これが自分に合っている、とさえ思う。なぜだろう。
2週間の日本旅は、まさに別世界への旅だった。みなが日本語を話している唯一の国。わたしの一部である大切な日本語が通じる国。それは一方で、すべての言葉が吸収されすぎて、疲労でもあった。
遮断することに慣れないしばらくは、他人の会話も、街角の看板も、すべてがまんべんなく取り込まれるようで、それだけ脳みその許容量を超えてしまいそうだった。
そして、インドに戻って来た。上空から見下ろす、暗闇に浮かんだ、ぽつぽつと頼りない街灯りに、ほっとした。夜風が、気持ちいいと思った。
一方、夫は相変わらず、インドが嫌いだ。
食後のTV。流れていたミュージッククリップ。エルトン・ジョンの"Can you feel the love tonight"を聞きながら、無闇に情感の籠った顔をする。眉間に皺を寄せ、まぶたを閉じ、なんだかひとり、黄昏れている。
「この曲、好きなの?」
「うん。ノスタルジック。アメリカを、思い出す。アメリカでの生活……」
「……」
米国にいたときだって、どれほどの問題にぶちあたってきたか。あの国が、そんなによかったのか。けれど過ぎてしまうと、よかったところばかりを、思い出すものである。
エルトン・ジョンの旋律の向こうから、"God Bless America"や"We are the world"が聞こえてくる。いかにも、米国的な旋律。
近親憎悪。わたしが日本に住みたくないのと同じように、彼もまた、インドに対しては思うところがあるだろう。
過去の自分を思い出して、過去の良きを回想して、遣る瀬ない思いに身を焦がすのもまた、「人」ならではの、すばらしい情感とも思える。その、胸が締め付けられるような情感があるからこその。
確かに在った過去ですら、記憶の中で事実が変貌してゆく。伸びたり、縮んだり、歪んだり、する。そして、不確かな未来が、いかにも確かであると思い込むようにして、日々を積み重ねている。
人生とは幻想のようである。
そんなにアメリカがいいのなら、わたしはいつ、戻ってもいいよ。あなたに、合わせるから。
そんな気持ちもまた、在る。