使用人を抱えて暮らすのは、当然ながらインドに暮らし始めて初めて経験することであった。せいぜい一日に数時間、通いの使用人が来てくれれば十分だと思っていたわたしに、しかしデリーの両親は、住み込みの使用人、モハンを紹介してくれた。
モハンは、デリー実家に30年近くつとめる、まるで執事のような存在の使用人、ティージヴィールの親戚である。ちょうど職を失っていた矢先で、わたしたちの渡印は、まさに渡りに船の状況だった。
働きのよい使用人。
そのことは、彼の仕事ぶりを数日間見ればわかることだった。あいにくヒンディー語しか話せぬ彼とは、わたしは意思疎通が図れず、だからその分、ゼスチャーまじりで、最初のころはコミュニケーションを図るのに時間を割いた。
彼はいかにも、信頼が置ける風に見えたし、与えられた仕事をこなそうとしている風にも見えた。実際、いまでもそうであるには違いない。
しかし、これまで働いて来た場所と我が家とでは条件が著しく異なる。彼が我が家で理想的な働きをし続けているとは、決して言えない。
けれど、「なるだけいいところを見よう」と、わたしは努めてきたように思う。
言葉の問題だけでなく、誤解や行き違いはあった。加えて、いままでは当然ながら、家事をすべて自分でやってきて、料理をするのも結構好きで、一人でいる空間を大切にして来た身としては、朝から晩まで他人が家の中にいることに、違和感や不都合を覚えることも多々あった。
なんとか、彼の仕事を減らそうと思うのだが反面、彼は退屈するのを嫌い、休日をとらない。スジャータ宅に送るなどの対策も講じた。彼の料理に飽きた、と思った矢先に料理教室を開いたのは、彼がいることによる「よさ」を、自分なりに有効利用しようと思った部分も強い。
彼の料理は確かにおいしいし、身体にもいい。レシピを作成し、みなで料理を作っていながら、それは実感することだ。
いい面は、たくさんある。
いい面がたくさんあるのだから、多少の問題には目をつぶるべきかもしれない。それは贅沢な悩みかもしれない。そういう思いもあり、突き詰めずに見過ごして来た事柄も、少なくなかった。
しかし、それは間違いだったかもしれない、と、一年を過ぎて思うようになった。
たとえば、健康診断で、たいていの箇所は非常に健康である。唯一、一部の疾患が見られるが、他の場所が優良なのだから、プラスマイナス・ゼロ、ということでいいでしょう……。
とは、決して言えないのと、同じことなのであると。
プラスマイナス・ゼロにできることと、できないことがある。この件に関しては、ゼロにしてはいけない、ゼロにはできないことだということに、気づいたのだ。
たとえば日常の食材の買い物は、丸ごと彼に任せていた。肉や魚、調味料、日用品など値段の高い物はわたしが買っていたが、野菜と果物、小麦粉や米、卵などは、彼に任せ切っていた。
家計簿に、ヒンディー語で明細を書いてもらっていたが、わたしは読める訳でもなく、ただ、なんとなく確認をして、数字を合わせていた。わたしたちにとって、それは大きな金額ではなく、一つ一つの値段を問いただすのも細か過ぎるかもしれない、疑り深いかもしれない、と思っていたのだ。
しかし、それは間違いだったのかもしれない。金額の大小の問題でもなかった。実際、彼にとって、それは大きな金額でもあるのだ。
具体的な数字のごまかしが発覚した、というわけではないのだが、わたしは、何かごまかしができるチャンスを与えていたということに、デリーの実家で義両親と話をしながら、気づいたのだ。
ヒンディー語ができないのを口実に、厳密なチェックを怠っていた。厳密にチェックされないとすれば、少々上乗せしても大丈夫だと、思われても仕方がない。
こう思うに至るまでは、いろいろな経緯があったのだが、さておき、今後インドで暮らし続け、使用人と関わりながら生活する日々を送るとなると、彼、もしくは彼らとの付き合い方を学んで行かねばならない。わたしも、何らかの努力をせねばならない。
ともかくは、一定の距離を置くこと。それはもう、半年以上前から感じて、行っていることであるが、必要以上に私情に関わらないようにしている。故郷を、家族を遠く離れて来ているのだと思うと、あれこれと思うところはあるが、思ったところで仕方ないのだ。
ただ、以前も書いた気がするが、わたしたちにできることは、誠意のある付き合い方をし、給与をきちんと支払う。それだけである。
さて、わたし自身、今後は野菜や果物の相場をきちんと把握するようにした。ラッセルマーケットなどに出かける機会は少なくないが、敢えて値段をきちんと覚えようとはしていなかった。
そして食材のヒンディー語くらいは、すんなりと読み書きできるようになろうと思う。従っては、今後近所の八百屋で、食材を少しずつ買うことにした。
今朝、郵便局へ行くついでに、家の近所の地元商店街を歩いた。途中、子供たちの歓声が聞こえた。この時間帯にここを歩くことがなかったので気づかなかったが、そこは小学校だった。
制服を着た子供たちが、休み時間なのであろう、狭い校庭にひしめきあって、遊んでいる。
さて、八百屋の前に立てば、まだ十歳に満たない少年が、店番をしている。学校へ行けない子供たちのひとりだ。
つい数カ月ほど前、政府は確か16歳未満の子供たちの就労を禁止したはずで、一時期、働かせている店舗や業者などを取り締まっていたりもしたが、案の定、焼け石に水だったようだな……などとと思いながら、大根の煮付けでも作ろうと、インドならではの小さな大根の、新鮮そうな4本を選んだ。
それを、両手に抱えて少年に渡すとき、少年の指先が、わたしの指先に触れた。
瞬間、ぐっと、胸が迫る。
小さくて、冷たくて、乾いた、その指先。
利発そうなその少年は、天秤の左側に大根を載せ、右側に分銅をひとつ、ふたつと載せて言った。
「ハーフ・ケージー (half kg)。10ルピーです。1ケージーが、20ルピーだからね」
そう、説明するようにいいながら、白い小さなビニル袋に大根を入れ、10ルピー札と引き換えに、渡してくれる。
この国では、たくさんの子供が、本当にたくさんの子供が働いている。その事実が、子供の指先を通して、電流のように伝わって来て、どうにも遣る瀬ない。遣る瀬ないが、今のわたしには、なにをどうしようもできないことである。
家に戻ると、打ち合わせに出かけようとしている夫が、わたしに声をかける。
「ミホ。モハンの子供、目があまり見えてないらしいんだよ」
ちょうど去年の今頃生まれた、彼の息子だ。1歳になる彼の、どうも目がよく見えていないらしい。村に住む彼の兄に頼んで、町の病院に連れて行ってもらうのだという。
「彼に休みをあげようよ」
夫が彼に尋ねる。しかし、彼は年に一度の1カ月の休み以外はとろうとしない。どこまで関わるべきなのか。わたしも、そしてアルヴィンドも、よくわからないでいる。
明日、義父ロメイシュに相談してみよう。
人と関わりながら暮らして行くということは、実に一筋縄ではいかないものである。「距離を置く」といっても、どれほど置けばいいのか。
まだまだ、わたしのインド生活は、序章のただなかである。