まるで社会の縮図を見ているような、インドで作業を一つするにしても。
新居内装工事のときから、わたしはどうも「タイル運」が悪いのかもしれない。無論インドでは、そんなことを言っていたら運の悪いことばかりとなってしまう。
キッチン横、ユーテリティールームに面した庭の一画に屋根を取り付け、タイル貼りのバルコニーを作る計画を立てたのは2カ月前。
なかなかよさそうな業者が見つからず、最終的にアパートメント・ビルディングに出入りしているマネージャーのアマルナド経由で依頼をした。それが間違いだった。
アマルナドは、仕切りをエレクトリシャン(例の子犬おじさん)に任せた。新居移転にあたって、子犬おじさんはよく働いてくれたので、彼なら信頼できると思ったのだ。
そもそも、彼が手配したタイル業者がまともな仕事をしていれば、問題が起こることはなく、不正も発覚することはなかった。
工事にあたっては、バルコニーに水が溜まらないよう、外に向かってわずかに傾斜する形でタイルを貼るよう何度もしつこく要請した。作業中も、内側への傾きに気づいたから指摘をした。にも関わらず、作業後に業者が帰りし後、水をまいてみたところ、よりによってすべての角度において、内側に傾斜していることが発覚したのだった。
これでは、バルコニーに水溜まりができてしまう。雨水が降り込んだときや、水をまいての掃除のとき、いちいち掃かねばならない。こんな仕事は受け入れられない。
わたしはすでに、子犬おじさんを通して材料費、人件費を8割方支払っていたのだが、もちろんこの不完全な仕事を容認するつもりも、残りを支払うつもりもなかった。
その後、子犬おじさんと談判を繰り返し、すべてのタイルをはがし、基礎からのやりなおしを承諾させたのだった。中途半端な貼りかえでは、ダイニングルームの二の舞になってしまう。
と、ひとことで書いてしまうとひどく簡単な経緯にみえるが、ここに来るまでに3週間かかった。その間、激しいやりとりも、少なくなく。作業の催促ものべ十数回。
「なんであんな男に仕事を頼むんだ!」
と、夫はわたしに文句を言うし、
「じゃあ、あなたが見つけて来なさいよ!」
と妻は返し、事態は夫婦間に亀裂さえ与える始末だ。
さて、再作業は、2日前に始まった。3階ご近所さんのドライヴァーが、主が不在で暇だからと、タイル業者と一緒に手伝いに来ている。そういう変な仲間意識が、あまりにも、インドならではである。なんだか知らんが、彼は自ら通訳をかって出て、地元カンナダ語しか話せぬタイル業者との橋渡しをしてくれる。
この際、なんでよそんちのドライヴァーがうちに出入りしているのかについて思いを巡らせたりは、しまい。どうでもいい。インドだもの。
ともあれ、一昨日、タイルはがし作業が終わった段階で、「古いタイルを再利用するなよ」と、子犬おじさん何回も念を押したのだった。端の方が欠けていたり、すでにセメントがこびりついていたりで、ダメージを受けているものを使うのは絶対にいやだ。
子犬親父は、「ノープロブレム。タイル業者に新しいタイルを張り替えさせる」と、何度となく、言った。
にも関わらず。実は古いタイルを改めて箱につめ、いかにも新品に見せて我が家に運び入れ、タイル業者に作業をさせていたのだった。そして古いタイルとわずか1割ほどの新しいタイルとを混ぜて、貼らせていたのだ。
わたしの目は、節穴ではない。
もう、何度目かの激怒のあと、激怒に疲れて労働者及び通訳ドライヴァーの前で言った。
新しいタイル代はわたしが改めて払う。だから、頼むから、古いのを使ってくれるなと。
すると彼らは彼らで言うのだ。
子犬親父が古いタイルを使わせるのだ。僕らはいけないことだとわかっていたのだと。聞けば子犬に前払いしていた2000ルピーのレイバーフィー(人件費)を彼らは受け取っておらず、今のところ100ルピーだけをもらっているとのこと。
100ルピーかよ。
自分ら、もうちょっと話しを詰めて仕事しろよ。
その事態が発覚したとき、すでに子犬親父は帰宅していた。やれやれ。とんだことである。
ラヴィも、プレシラちゃんも、わたしの気持ちをくんでくれ、子犬親父に対しては、大いに憤慨している。実際、貼り直されたタイルの中に古いものが紛れているのを見つけ出したのはわたしだが、箱に古いタイルを詰め込んで「新品タイル偽造」していることをプレシラにちくったのは、タイル業者の下っ端のお兄ちゃんだった。
「マダムに気の毒だから。でも、ぼくが言ったとは言わないでね」と言って、事実を伝えてくれたらしい。
社会の縮図を見るようではないか。
ともあれ、こんなことで時間と労力を費やすのは、もう我慢がならん。自分で、タイルを買いに行く。セメントも、砂も、買いに行く! と、午後、家を出たのだった。
我が家のドライヴァー、ラヴィの運転で、なぜかタイル屋やらセメント屋やら砂屋の場所に詳しい3階のドライヴァーとともに、近所のタイル屋に車を走らせる。
幸い、同じタイルは売っていた。が、そこはあくまでショールーム。さらに車で20分ほどの倉庫に行かねばならない。
はっきり言って、このところ仕事が立て込んでいて、時間に余裕がない。こんなことをしている場合じゃないのだ!!
と、声を大にして言いたいが、誰に言えばいいのやら。尤も、仕事が立て込んでいなくても、こんなことをしたくは、ない。
最早、脱力笑いがこみ上げて来る。これもまた、自分の力量を試されているのである。学びである。そうでも思わねば、やっていられないのである。
そんなわけで、郊外のタイル倉庫へと赴く。事情を知らないタイル屋のおじさんは、ご機嫌だ。あれこれと世間話を持ちかけて来る。
「マダム。ぼくはね、バンガロールに生まれ育ったんですけどね。ここしばらくの開発、開発で、もううんざりなんですよ。バンガロールは、本当に、きれいな街だったんです。
この街の美しさは、すっかり失われてしまいました。
だからぼくは、今25キロ離れた郊外に住んでいます。毎日通勤しているんです。バンガロールが、もういやなんですよ」
わたしももう、いやなんですよ。
と言いたいところだまったく。
さてさて、実際、タイル屋でタイルの値段を確認したら、2割以上、上乗せされており、レシートも偽造であることが発覚。わたしは、最初から子犬おじさんにコミッションを払うつもりであり、そのことは彼もわかっていたことだった。が、ここまで材料費に上乗せをされたのでは、見過ごせない。
だからといって、子犬親父ばかりを責めるのも間違っているように思う。彼は、明らかに貧しい。富める者から少しでも、多めに取りたい。と思う気持ちをも、わからないでもない。
ただ、その方法が間違っている。わたしとて、だまされるのはいやだ。仕事に対して、まっとうだと思える金額を、両者の合意の上で支払いたい。きちんと、申請してほしいのだ。
だが多分、彼は「外国人のこのマダムなら、わからないだろう」の思いで、小さなごまかしを重ねた。旧家政夫モハンがやり続けていたのと、同じように。
きちんと説明をしてくれれば、お金は払う。なのに、相談をせずに、勝手に上乗せをする。それが不愉快なのだ。よくないことなのだということをわかってほしいのだが、わかってもらえない。わたしが説明していることを、理解できない。言葉も足りない。文化も違う。
わたしはケチではない。無駄遣いはしない方だが、しかるべきところでは、しかるべき支払いをしたい。それは自分が、フリーランスとして「自分勝負」の仕事をしてきた結果のことでもある。自分も、正当に支払われたい。
ただこのインドというごちゃまぜの国で、その額の大きいところから小さいところまで、お金の扱いに困惑しているのは、事実だ。
なにかといえば、賄賂。賄賂。賄賂。そんな社会で、富める者には「金の操作」が許され、貧民には許されないというのはまた、妙な話である。
インドは、他の先進国からは想像もつかないほど、貧しい人たちの人口が多い。それは、この地に赴いて、自分の目で確かめてみなければわからない。悲惨な暮らしをしている人が、どれほどいることか。
貧しい人々に、わたしはきちんと報酬を払いたいと思っている。
わたしたち異邦人は、この国に来て、仕事をさせてもらっている。無論、アルヴィンドはインド人だが、わたしを含め、多くの外国人が今、インドにビジネスチャンスを求めて、この国に来ている。
この国に住まわせてもらっている。
この国で働かせてもらっている。
この国で稼がせてもらっている。
確かに、インドの人々にも雇用機会を与え、しかし「してやっている」ばかりでは、ない。「僻地に送られた被害者意識」は、正しいとは、思えない。文句はインドに言うべきことではない。
そのことを思うとき、そもそもからここにいるインドの人々の暮らしを、特に貧しい人々の暮らしを、逼迫するようなことを、我々は決してやってはならないと思うのだ。
我々がインド市場の「旨味」を味わうのが正しくて、彼らがそんな我々から報酬を多めにもらおうとすることを、どうして責められようか。
だからわたしは、低所得者層の人たちから、著しくは値切りたくない。しかしながら、相場を崩すようなこともしてはならない。その塩梅がもう、難しい。
皆、貧しい。だからこそわたしは、「いい仕事をしてくれる人には、きちんと支払いたい」と思っている。過度に値切ろうとも思わない。明らかに、外国人だから、NRIだからとふっかけてくる人とは、もちろんそれなりに戦うが。
わたしは、自分たちが働いて得たお金を、うまく使いたい。貧しい人たちの雇用機会、報酬を与えることでお金を循環させることは、まったく健全なことだと思っている。だからこそ、過度に値切らず、しかしいい仕事をしてほしいと望むのだ。
が、それはあまりにも理想論で、こちらの思いが相手に伝わるなどとはまた、思っていない。さまざまな価値観が渦巻いて、貧富の差が著しくて、だから彼らがわたしたちにふっかけたくなる気持ちはわからないでもない。
いかん。
話が長くなった。しかもくどい。同じようなことを繰り返している。酔っぱらいだ。実際ちょっぴり、酔っぱらいだ。
ともあれ、今まで何度も書こうと思っていた「お金の問題」とはこのあたりのことなのだ。
わたしにとって、タイル代は、高くない。行きつけのスパの、アーユルヴェーダのマッサージ2時間分で、必要なタイルはすべて買える。が、それは多分、「子犬おじさんの1カ月の給料」に匹敵する。一家の大黒柱の月給。
だからと言って、彼らのミスにも関わらず、ではわたしが失敗分までもわたしが払うべきかといえば、それは当たり前だが、違う。
支離滅裂に走り書いた。
今日のエネルギーの浪費を、ただ浪費としてしまうのも情けなく、しかしやっぱり、すべては無駄だったのか。
世の中、得るものばかり、な、はずもなく。
嗚呼!