ここしばらく重きを置いているレポート作りの仕事は、去年に引き続き二度目とあって、作業の要領がよくなったのか、あれこれと思いがけぬ用事が入ってくるにも関わらず、順調に進んでいる。いい気分である。
とはいえ、全作業の3割程度を終えたばかり。まだまだ先は長い。が、今日のノルマは早く終了したので、午後からの音楽会に出かけるべく、早めに支度をする。
午後4時半より、州知事官邸で、日本人のコーラスグループやシンガーによる音楽会が開かれるのである。久しぶりにサリーを着用し、3時すぎに車に乗り込む。
ところで、モンスーンが終わったと思ったのは間違いだった。今日もまた、暗雲垂れ込めてのち、激しい雨が降り出した。洪水の道路を走り抜け、州知事官邸には3時40分に到着。
30分前の4時までに来場してくださいとのことだったのに、「4時半にならなければ入れない」と門番に追い返される。他の人が来ている様子もない。
「コンサートは5時からだったはずよ」と母もいう。わたしは間違えていたのか。
近くにあるTaj West Endでお茶をする。さて、会場に向かおうとするが、一方通行ばかりでぐるぐると渋滞に巻き込まれ、到着したのは4時40分。
やっぱり4時半からだったようだ。うっかり門番を信じたわたしが愚かだった。
こういうことが、たまにある。
インド暮らしにおいて、特に時間についての感覚を、通常は「疑ってかかっている」のだが、たまに警戒心を忘れ、人のいうことをすんなりと聞いてしまうことがある。
面倒ではあるけれど、毎度疑ってかからねばならない。この地の人々にとっての「2分」は、30分にも、1時間にも、そして3日にもなり得る。永遠に訪れないことさえあるのだ。
そんなわけで、惜しくも最初の1、2曲を聞き逃してしまった。
「さくらさくら」
「竹田の子守唄」
「赤とんぼ」
日本の唱歌には、本当にすばらしいものが多い。先日のJAPAN HABBAで歌われていた「おぼろ月夜」はまた、わたしの大好きな歌。旋律に加え、歌詞がすばらしい。ほかにも、「砂山」や「この道」や、「みかんの花」など、情景が鮮明に脳裏に浮かぶような美しい歌詞の唱歌が特に好きだ。
最後の曲、「赤とんぼ」は出席していた日本人ゲストも参加しての、みなでの合唱である。
みなと声を揃えて歌うのは、実に気持ちのいいものである。
『街の灯』の「ピアノ・レッスン」にも書いているが、ピアノ。もう、20年以上もまともに弾いていないのだが、この家でなら、弾けるかもしれない。
なんとかどこかで入手して、また少しずつ練習をしてみようかと思う。
「幻想即興曲」などといった高度な曲を目指すのではなく、日本の唱歌からはじめて、「弾き語り」をするのもいいかもしれない。
●わが両親。その激しさ。
母はもう、すっかり我が家に住み着いている。家事は基本的にプレシラがやってくれるが、夕飯の準備や片付け、それにアルヴィンドのお弁当作りは母に任せている。
おかげでわたしは、仕事に専心でき、助かっている。母にしても、あまり「優雅な暮らし」を送り過ぎると、日本に帰ってから社会復帰ができなくなるからね。適度なリハビリは必要なのである。
さて、数日前のことである。
朝からコンピュータに向かい、作業に集中するあまり、後れ毛その他、少々荒れ果てた容貌となり、しかし、ちょっと気分転換にと庭へ出ようとしたときのことだ。
自室のテラスで「お絵描き」をしてた母に呼び止められた。
「美穂。顔、もうちょっと、なんとかしなさい。パックをするとか、フェイシャルに行くとか……」
荒れた娘の顔を思う母心をわからんでもないが、ほっといてよ、という気持ちもある。
「わたしは仕事とかキャリアとか、なんにもないでしょ。だからね、この顔が、坂田幸子、なのよ。勝負なのよ」
と、わかるようなわからないようなことをいい、お風呂あがりはスキンケアに余念がない母の人生。わたしの人生とは、少々、いや、かなり異なる。
「この間のロティカさん……だったっけ? 随分、お年を取られたな〜って思ってたのよ。やっぱり、お手入れはしないとね」
わたしが、ロティカの話を真剣に聞き、その好奇心に満ちた瞳の奥に「少女」を見いだし、心打たれていた最中、母は彼女の顔の皺やらシミやらをまじまじと見つめていたのである。
……。
ま、言葉が通じないから、顔でも見てるしかなかったとはいえ、だ。彼女の顔に刻まれた皺の一つ一つにも、わたしは味わいを感じていたのだが……。しかしながら、翻って自らを思えば、あまり皺を増やしたくない、できればシミもない方がいいと思う乙女心。
「アルヴィンドと並んでいると、母と息子みたいよ」
などと言われ、カッチ〜ンと来る一方で、危機感も覚えるのである。風呂上がりにお気に入り銘柄であるところのSHAHNAZ HUSAINのSHAROSE (ローズウォーター)をバシバシと肌に付けるだけで基本的に完了。では、やっぱりまずいか。
たまに、やはりSHAHNAZ HUSAINのパールクリームも使うし、月に一度はフェイシャルに行くようにもしているが、それでもまだ足りんのか。いや、もう十分なんじゃないのか。そこそこ健康的な肌であれば、シミだの美白だの毛穴の開閉など、重要なことではないんじゃないだろうか。
が、時を同じくして、アルヴィンドからも指摘されるのである。
「ミホ、そろそろフェイシャルに行ったら?」
やれやれ。人間、見た目か。
思い返せば幼少時。我が母は今でこそ「お上品でやさしげ」だが、多分、当時の母は現在のわたし以上に、「激しい女」だったと思う。
あれこれと暴露すると、母のプライヴァシーにも関わるので、軽く触れるにとどめるが、世が世なら、うちの両親は逮捕されてたね。ドメスティックバイオレンスという名の罪状で。
当時の日本、いや九州一円では、体罰関係もさほど珍しいことではなかった気がするが、実際はどうなんだろう。小学生の頃は、担任から並ばされてビンタ、なんてことは珍しくなかったし、高校時代には体育教師から、「こぅらぁ〜、坂田ぁ〜!」と、無闇に竹刀でぶったたかれたものだ。いったいわたしが何をしたというのだ。
が、PTAが騒ぎだすといった事態はなかった。
我が家にしても、そうだった。特に体格のいい、体育会系の父からの、時折のビンタ(というよりは殴打)はすごかった。
「歯を食いしばりなさい!」
バッコ〜ン!
よくもまあ、鼓膜が無事だったことである。
一方の母は「武器で勝負」であった。
「しゃもじ割れるまで事件」とか、「スリッパの底で殴打事件」とか、「出前ちらし寿司玄関先で暴投事件」とか、「お灸連帯責任・主犯の妹は脱出事件」とか、数え上げたらきりがないほどの、懐かしい思い出。いやいや、痛ましい記憶。
よくもまあこんなにもすくすくと、いい娘に育ったもんだと我ながら思う。無論、途中かなり激しく荒れた時期もあったけれど。それにしても、なんて野蛮な家庭だったろう。我が家の汚点をさらすようなことを綴っているが、これはこれで、人生である。
ところで母は、幼少時から「美形」であった。それは自らも認めており、
「美人薄命っていうから、わたしは長生きしないかも」
などと、厚かましいことをぬけぬけと口にしていたものだ。子供心に「お母さん、長生きしないのかなあ」と、心配していたものだ。不憫な子どもだ。
一方のわたしは、かなり巨大(4050グラム)かつ、ちょっぴりぶさいくに誕生した。物心ついたばかりのわたしに向かって、母はよく、我が赤ちゃん時の話をしてくれたものだ。
「あなたはね〜。生まれたときは、ほんと、おかしかったのよ〜。顔がぺた〜んとしててね〜。いろんな人があなたを見に来るんだけど、お布団とかお洋服ばかりほめて、誰も可愛いねっていってくれなかったのよ。でもね。Kさんだけは違ったのよ。美穂ちゃんは幸子さんと泰弘さんのお嬢さんだから、将来はきっと、かわいくなるわよって」
さらには、こういうことを平気で、しかも何度も言う母でもあった。
「美穂、あなたは大きくなったら、鼻と目を整形手術しなさい」
普通、幼児期の娘に言う言葉であろうか。わたしは幼少時からの記憶が非常に鮮明なので、間違いなく、覚えているのである。芋づる式に思い返せば、母の母親、つまり祖母もなかなかに強烈な人だった。
あるとき、中学生くらいになったわたしに向かって彼女は言った。
「美穂はこのごろは、見られるような顔になってきたね〜。美穂が赤ん坊のときは、ほん〜と、ブスやったもの。心配したよ〜本当に。小鼻がひ〜くくてから、右の目から左の目が、見えるんやなかろうか、って顔やったもんね」
わ、わたしって、そんなに、ブスだったのかよ!?
自分で言うのもなんですがね。昔のアルバムを自らめくる限り、それなりに愛嬌のある顔をしていると思うのだ。母も祖母も、ちょっとおかしいんじゃないの〜?
上の写真は座敷童(ざしきわらし)。ではない。幼児期のわたしだ。……確かに、この写真を見る限りでは、まずい顔だ。言い訳をすれば、このころは、ちょっとした「反抗期」でカメラを向けられることに反発し、父親に「眼(がん)をつけている」のである。お隣の家のけいこちゃんと、裏の徳永さんちのドンちゃんが、おびえた目をしているではないか。
それにしてもだ。このファッション。いくら男の子に間違われがちだったからって、強引にちょんまげをしてリボンを付けているところに無理がある。胸元にフリル満点のブラウスを着せているところにも無理がある。太ももがはみ出しているパッツンパッツンのパンツにも無理がある。
一方、こちらの写真。これはそれなりに、キュートだと思うのだが、いかがなものか。相変わらず、ちょんまげをやられてはいるが。
ところで、アルヴィンドが初めてわたしの母と会ったときのことだ。
「美穂のおかあさんは、かわいいよね。目が大きくて丸くて。美穂のお母さんは目が大きいのに、美穂の目は、どうして、細い線なの?」
Thin line。細い線。線かよ。まぶしかったり笑ったりすると、確かに細くはなるけど、線じゃないやろ、線じゃ。彼はわたしを写真に撮るとき、いつもいつもいつもいつも言うのだ。
"Open your eyes(目を開けて)!!"
だから、目は開けているんだってば!
そんな彼に、わたしは前述の母の言葉についてを、告白したことがあった。母に整形手術を勧められて、幼心にも傷ついたのよ。と、少々悲劇のヒロイン的流れで会話を展開していたはずだったのだが。
「美穂。美穂のお母さんは、正しいよ。確かに美穂は、鼻と目を整形したほうがいいと思う」
……。
究極の目鼻立ちくっきりなインド人であるところの夫に告白したわたしが、まちがいだった。マイハニーの幼少時は、憎らしいほどキュートなのだ。
最後に、母の名誉のために書き加えておくが、母は概ね、よき母だった。そして今でもいい母だ。ファッションやインテリアのセンスもよく、欧米のおしゃれ情報をいち早くメディアから吸収する柔軟性を持ち得ている。ファッションやデザイン関係の仕事に就いていれば、それなりに力を発揮できたのではないかと思われる。
我が父親は、潜在的に「男尊女卑」な傾向を持っており、「女は仕事をせんでもいい」といった考えの持ち主だった。自立した女も嫌いだった。母に対しては、「黙って俺についてこい」な男だった。
我が中学時代以降、そんな父と、どれだけ衝突したかわからない。
「ぼくは、美穂みたいな女とは、絶対結婚できんね!」
などと、言っていた父親である。こっちの方こそお断り! である。っていうか、そのたとえは何なんだという話だ。
一方、母はわたしが幼少時から「これからの女性は自立していなければならない」と、「ジリツ」の言葉の意味も知らない頃から言い聞かせてくれていた。
そのおかげで、福岡とは目と鼻の先の下関の大学に進むにも、1カ月の米国ホームステイに出るにも、卒業後に東京へ出るにも、いちいちいちいち猛烈に反対していた頑固親父と衝突しまくりながらも、すっかり自立した女に育った。
その「表現方法」に若干の問題があろうかと思われるが、愛情を以て育てられたと、40過ぎた大人が言うのもなんだが、思うのである。
両親のことを書き始めるとまた、きりがない。なんだか、またしてもどうでもいいことばかり、長々と書いてしまった。
仕事に戻りたいと思う。