何かが足りない、と思うのは、何かに溢れ過ぎている場所に普段暮らしているからか。
いつかは、インドとマンハッタンの両方に居を構え、年に数カ月はここで暮らそうという話を夫とよくしていたのだが、その衝動が沸かない。ない。
わたしだけでなく夫も。あれだけインドをいやがっていた夫ですら。
インドに新居を得たことも、大きいだろう。しかしそれだけではない。徐々に、確実に、自分たちの価値観が変わりつつある。
あの国の、エネルギーに満ちた日々の様子に比して、マンハッタンですら、おとなしく見える。わくわくと、しない。
新しいブティック。新しいレストラン。新しいエンターテインメント。
それらに手が届かないときには、欲しいと思っていた。
それらに手が届く今、果たして求めていたもののひとつは、これだったのか、と思う。
磨き上げられたガラスの向こうに、磨き上げられた美しいクルマ。
滑らかなボディ。
上質の革シート。
移動する快適な空間。
お金で手に入る、ステイタスの象徴のひとつ。
それら優れたモノのすばらしさを、知っているし、認めもする。
けれど、たとえば手に入れたいか、手に入れるべきか、と思ったときの答えはどうだろう。
モノの価値について考える。
それらのモノを備えて生きる場所について考える。
それらのモノが有効に生かされるか否かについて考える。
尤も、考えているのは「わたし」で、この場合、夫の考えがいかなるものかは、わからない。夫婦同時期に価値観の変化があったとはいえ、さまざまで共通しているとは当然思えない。
デパートメントストアの、重い重いドアをぐっと押して中へ入れば、甘くまとわりつく香水の匂い。つやつやとしたハンドバッグ。つやつやとしたブーツ。ふわふわ滑らかな毛皮。上質の時計。
冬だけれど、大きなサングラス。無数の大きなサングラス。
大きなものから小さなものまで、追い求めればきりがない消費世界。
自分がインドで買った宝石や、カシミールのカーペットが、10倍や20倍の値段で売られているのを見て、喜んだりしているうちはまだ。
まだまだこれからも、という思いと、もうかなり十分だ、という思いの狭間。
旅にしても、なんにしても。
次なるステージに向けての自己の在り方を、より具体的に考える時機かもしれない。
すでに、多くの国を旅して来た。
すでに、多くの街を見て来た。
もっともっと、と思う好奇心は悪くないと思うが、それは同時に、いつまでたっても満たされない心境のあらわれ。
自分は果たして、何に拠って満たされようとしているか。
歯に衣をきせるようにしか、公衆の場であるここには書けないが、ともあれ、半年に一度こうして、米国を訪れて、インドでの自分たちを俯瞰するように省みながら、心境を変化させていくのは、意義深いことだと思う。
あれこれと、話題のレストランに行こうね、などと話していたのに、ZAGAT(レストランガイド)をめくる意欲もなぜか浅く。
今夜は「焼き肉居酒屋りき」で落ち着き、冷えたビール[E:bear]や日本酒や、カルビでかなり幸せでもあり。
1年前は、逡巡のただ中にあった夫。しかしこのごろは、人から訊ねられると、
「僕たちは、これからもずっと、インドに暮らすつもりですよ」
と、迷いなく答えるから驚く。
軽く語るのは困難だが、さておき、この1年でわたしたちは、ずいぶんと成長したように思うのだ。