●いたずらに、不安を煽られるなかれ。逃げることの無意味。
「根っからの怖いもの知らず」というわけではない。わたしの行動の一部をみている人からは、タフだとか、たくましいとか言われることの多い人生である。
しかし生まれついたときから楽観的で積極的、逆境に強かったわけではない。子どものころは神経質で心配性、天災などを過度に恐れていた。「死」に連なることに敏感で、深夜、無駄に泣いたりすることも少なくなかった。
時を重ねるに伴い、経験を重ね、知識を得、価値観を改め、強くなっていった。その程度の差はあれ、自分なりに逆境の多い道を歩いているように思う。それもまた、強度を高める理由かもしれない。
わたしをより強くしたのは、2001年の秋、米国を襲った同時多発テロだったと、今になってしみじみと思う。
2001年7月、我々夫婦はインドのニューデリーで結婚式を挙げた。しかし、わたしはニューヨーク、夫はワシントンDCに暮らす二重生活を続けていた。「ワシントンDCにおいでよ」という夫の願いを、わたしはまだ、聞き入れてはいなかった。
1998年に立ち上げた出版社「ミューズ・パブリッッシング」の仕事が、軌道に乗り始めたときだった。ニューヨークを離れたくなかったし、DCで一から営業をして、異なる仕事を始めるのも億劫だった。
ニューヨークには、他の土地にはない独特の「磁力」があり、わたしはそれに引きつけられていた。
アムトラックと呼ばれる鉄道で、片道3時間ほどかけてワシントンDCに通っていた。DC宅にもオフィス環境を整え、月の3分の1はDCで過ごしていた。そんな矢先の9月、テロは起こった。
このときのことは著書『街の灯』にも詳しく記しているが、ともあれ、わたしはこのとき、人生の優先順位を再考した。今まで自分の好きなように、自分中心に生きて来た。けれどこれからは、二人で生きる日々を、大切にしようではないかと考えるに至った。
テロの直後に発覚した友人の重い病の事実もまた、わたしの考えを変えさせるに十分だった。あのころのわたしは、いろんな意味で、打ちのめされていた。ずいぶんと、弱気になっていたと思う。
9/11以降の米国は、空気が重かった。テロ後の数カ月間、さまざまな情報やデマに翻弄された。化学兵器によるテロの噂が流れて、ガスマスクを購入をする人が現れた。わたしとて、一度はその「ガスマスク販売」のサイトを開いたくらいだ。
高層ビルから脱出するためのパラシュートさえ買う人もいた。笑い話ではない。みな、真剣だった。
空港や鉄道駅が攻撃されるとの噂もまた、絶えなかった。発令されるアラート(警報)が、黄色からオレンジ、オレンジから赤と、上部を行き来するたびに、心が締め付けれるようだった。
DCへ向かう列車を待つ間、ペンステーション(ペンシルベニア駅)で、落ち着かない思いをしたことも数知れず。香ばしいプレッツェルの香りすら、遣る瀬なかった。
待合室の中央に設けられた警察署のブース。でかでかと、「POLICE」の文字が記されたその看板がまた、気持ちを圧迫した。
サンクスギヴィングデーも、クリスマスも、心に灰色の膜がかかったような、常に不安にかられていた。東海岸の冬の寒さが、身体の芯まで冷やすようだった。
思えばこの年、7月のインドでの結婚式に続き、10月にアルヴィンドの叔父の邸宅を会場に、ニューヨークでパーティを開催する予定だった。米国の友人知人を招いての、披露宴を行う予定だったのだ。
日本の家族の航空券やホテルも手配し、ミュージカルやコンサート、ハドソン川クルーズなどの予約さえすませていた。
すでに肺がんを患っていた父だが、そのころは小康状態を保っていたので、だからベースボール発祥の地であるニューヨーク北部の地方都市の、クーパースタウンにも連れて行く予定だった。若かりしころの父は「野球こそ人生」だったのだ。
そんなすべてを、やりきれない思いでキャンセルしながら、しかし当時のジュリアーニ市長の言葉を、わたしは胸の中で繰り返していた。
ふだん通りの生活をしましょう。
それが、テロに屈しないという意思表示となります。
今ならブロードウェイのミュージカルのチケットも簡単に手に入りますよ……。
とはいえしばらくは、風向きによっては、自宅まで届いてくるグラウンドゼロからの「焼けた匂い」が、気分を滅入らせた。誰も口にはしなかったが、それは建物が焼ける匂いだけでは、もちろんない。
当然ながらその匂いには、数千もの人々の、焼ける匂いをもが、含まれていたのだ。
一人、マンハッタンの自宅(52階建て高層アパートメントビルディングの18階)で眠っているとき、ふと、ビルディングが揺らぐような恐怖に襲われた。数年前の火事の記憶と重なって、高層ビルディングに住むことが恐ろしいと感じるようになっていた。
翌年2008年1月。DCに移転する日の朝を、今でも忘れられない。荷物を運び出し、がらんとした部屋に、朝日が差し込む。思えばわずか5年間だった。しかし、この5年間を通して、この街がわたしに与えてくれたものは、はかりしれない。
大好きなニューヨークを、離れる自分を、逃げているのだろうか、とも思えた。しかし、自分を責めるような、否定するような考えはすまいとも、思った。わたしは、夫との新しい日々を、歩き出すのだ。前向きな一歩なのだと言い聞かせながら、部屋を出た。
新しい暮らしを始めたワシントンDCだって、決して「安心できる場所」ではなかった。同時多発テロの衝撃が和らぎ始めたころの2002年秋、今度はスナイパー騒ぎ(連続狙撃事件)に見舞われた。外出するのが、恐ろしくなった。
戦場でもないのに、小さな恐怖が、ところどころにあった。それでも、その程度の恐怖は恐怖のうちにはいらないと、DCで多くの友人らと出会い、彼らの母国の話などを聞くにつけ、思うのだった。
特に、コソボ出身の友人、フェリデの話は心に響き、自社出版していた情報誌 "muse Washington DC" でインタヴューさせてもらったのだった。
世界は広い。自分の身の回りのことにばかり囚われていては、人生を思うように楽しめないと身を以て感じた。
喧嘩や行き違いの多い我々夫婦は、今だって決して「円満」とは言いがたい。しかしこの人と過ごす時間を大切にしようと思うようになったのも、このころだった。
そんな経験を経て、切に思う。翻弄されることの無意味。折に触れて記している「自分自身の軸がぶれないように」とは、まさにこのようなことなのだ。ぶれないように、両足でしっかりと屹立していたいと思うのだ。
2001年当時のことは、メールマガジンに記し、ホームページにも掲載している。なにしろ膨大な記録であるが、ご興味のある方は、ご一読いただければと思う。
■坂田マルハン美穂のニューヨーク&ワシントンDC通信
■2001年に発行したメールマガジン
■私は27歳だけれど、もう、100年も生きている気がする。
ところで、一昨日はアルヴィンドの唯一の従兄、アディティヤの誕生日であったため、夫が祝いの電話をかけた。
実業家であり政治家であったアルヴィンドの母方の祖父が設立した、ISGECという鉄鋼会社と製糖会社を、彼は父親(アルヴィンド亡母の兄)と共に経営している。
今回、ムンバイのトライデントホテルに滞在していた日本人の視察団。彼らのうちの5人が、ISGECを訪問していたという。亡くなった方以外の5名だったとのことだが、いずれにしても、世界の狭さを思う。
テロのことを書き始めれば、私的な経験を通しての、思うところは尽きず。
ともあれ、不安や懸念や恐怖に翻弄されたところで、得るものはなにもないということを、改めて認識したい。
それは即ち無茶をする、というわけではない。
ただ、不安や懸念や恐怖といった、「実態の曖昧なネガティヴな感情に支配されたくない」と思うのだ。そこで自分にできることは、日々を大切に、楽しく暮らすこと。ささやかなその幸運を、しっかり諸手に握りしめること。
言いたいことは尽きぬが、今日のところはこのへんにしておこう。
●結婚式のその前に、マッサージ。のその前にフードフェア。
さて、昨日金曜日は、知人の妹の結婚式のイヴェントに招かれていた。先日、NHKの「インドの衝撃」に登場した、日本の製薬会社を買収したインドのルピン社のCEOグプタ氏の末娘である。彼女の姉カヴィタとその夫マニーシュが我々の知り合いなのだ。
結婚する当事者を知らなくても、その近親者によって結婚式に招かれるのは、非常にありがちなインドである。
インドは現在、結婚式のシーズンである。宗教や地方、コミュニティ、階級などによってその結婚式の有り様はさまざまであるが、ともあれ、いずれもかなり「大掛かり」であることは共通している。
彼らの結婚式も、いくつかの式典が数日に亘って企画されているようだが、わたしたちが招かれたのはカヴィタとマニーシュが企画した若者向けのDJパーティ、それから結婚披露宴パーティだ。
結婚披露宴は、タージマハル・パレスで行われる予定だったのだが、ホテルがテロに攻撃されたこともあり、北部郊外のホテルに変更された。わたしたちは、やはり北部にあるグランド・ハイアットホテルで開催されるDJパーティにだけ、参加することにしたのだった。
さて、日本から帰国した翌日である。それなりに疲労している。特に慣れない布団で寝たため、身体の節々が凝っている気がする。午後4時にご近所のTaj Presidentのビューティーサロンに、ヘッドマッサージとフットマッサージの予約を入れる。
毎度記しているが、ヘッドマッサージとは名ばかりで、肩や背中、腕までも、がっちりマッサージしてくれるのである。
スーツケースの荷解きも終わり、さて一段落したところで窓の外を見れば、お向かいのワールドトレードセンターに、派手な「のぼり」がたっている。
UPPER CRUST SHOW?
大急ぎでインターネットで調べたところ、なにやらフードフェアのようである。
これは行かねばなりますまい。
マッサージの予約時間まで1時間。
目にも留まらぬ早さで着替えて赴けば、なにやらあたりはいい香り。
屋外スペースには屋台が並び、料理のデモンストレーションが行われている。
フォーシーズンズホテルにある日本料理店のシェフ、加藤さんの姿が見える。蒸し暑い中、額に汗を光らせて、さまざまな料理を作っていらっしゃる。
TAJ MAHAL PALACEのWASABIが銃撃戦の舞台となってしまい、当面は再開が望めない今、さまざまと思いは去来するが、ともあれ、こうして一生懸命な日本人の姿を見ると、胸が熱くなる。
そんなわたしに、テレビ番組の取材クルーが近寄って来た。二言三言、インタヴューを受ける。いったい何の番組でいつ放送されるのかわからぬが、派手な黄色いシャツを着た東洋人が食べ物についてコメントしていたら、それは多分、わたしである。
喉が渇いたので買い求めたサトウキビジュースのおいしいこと! ショウガとライムなどがまざっていて、ともかく風味よく、おいしい。料理もあれこれと試したかったが、なにしろランチを終えた直後で、お腹いっぱいなのが残念であった。
屋内会場では、以前もここで記した日本食料品の輸入会社もブースを出していた。さらには、日本のカレーをインド人ゲストに振る舞うという暴挙(?)に出ていた。日本のカレーについては、あれこれと言いたいことが「ごまん」とあるが、それについてはまた、後日。
国産ワイン、輸入アルコールのブースもあり、あちこちで味見をさせてもらう。オーストラリア産の美味白ワインに巡り合えた。そのフルーティな味わいに惚れて、つい一本、購入したのだった。
●グランド・ハイアットにて。DJパーティで踊る結婚イヴェント
さて、パーティである。DJパーティだからカジュアルな服装でいいだろうとは思うのだが、しかしサリーを着たい。こういうときこそが、サリーを着る好機なのである。
8時からの開場だが、我々がホテルに到着したのは9時ごろ。しかしそこはインド。パーティはだらだらと人々が集まってこそのパーティなのだ。
ホテル周辺は、予想通りの厳戒態勢。金曜の夜といえば、賑わうのがホテルだが、街の喧噪とは裏腹に、たいそう静かだ。部屋の明かりもまばらで、広々としたロビーもがらんとしており、なにやら寂しい。
ここ数日、さまざまな警報が発令されていて、外出を控えている人が多いのだ。特に空港や高級ホテル、高級レストランなどがテロの標的になっているとの噂も流れて、敢えて外出しようと言う人は少ないのである。
華やかに飾り付けられたバンケットルームはしかし、人が少ない。ムンバイからだけでなく、他の地方からも訪れるはずだった招待客のキャンセルも、きっと相次いだに違いない。
カヴィタとマニーシュが笑顔で出迎えてくれた。二人とも、相当に「普段着」である。やはりカジュアルでよかったか。
ちなみに出席者の大半は20代から30代とおぼしき若者層。サリーを着ていたのは40代以降とおぼしき女性3名のみ(わたしを含む)。であった。うううぅ。
ちなみにカヴィタは4姉妹の長女。今回結婚するのは末の妹だ。さらに一番下に弟がいる。彼がまた、とてもフレンドリーで感じのいい好青年。
「あなたのお父さんの製薬会社、日本の製薬会社を買収したのんですよね? 先日、日本のテレビ番組に取材されていたのを見ましたよ。お父様の姿も拝見しました」
と言ったら、
「NHKの番組でしょ? 僕も出てましたよ。いや、僕の方が出てました。日本には会議で何度も行きましたから!」
と笑いながら言う。ビジネスの服装と、今日のカジュアルな雰囲気があまりにもかけ離れていて、全然気がつかなかった。
記憶をたどれば、彼は確かに「インドの衝撃」で、共和薬品を訪れたルピン社の経営陣の一人として、ボードミーティング(取締役会)に参加していたのだった。
まだ20代前半であろうその若さで、たとえ二代目とはいえ、貫禄たっぷりにボードミーティングに参加していた彼。社交に慣れているインド富裕層の備え持つ、天性のようなものを感じる。
しばらくは、グラスを片手に参加者の人々と挨拶をしたり、語り合ったり。やがてDJがはじまり、フロアが音に包まれると、みな踊り始める。
インドのパーティでは、食事が出されるのはとても遅い時間となるので、あらかじめ腹ごしらえをしての参加である。さもなくば、空きっ腹にアルコールで踊ってしまうことになってひどい目に遭う。
それにしても、いつも思うのは、「スニーカーに履き替えたい」である。かかとの高いサンダル履きでは、足腰に堪える。ならば踊るなと言われそうだが、あの環境で踊らずにいるほうが苦痛というものである。
つい昨日までは、日本における「年齢差を感じやすい社会」で、急に「老けた気分」に陥っていたわたしだったが、インドに戻ったらまるで時計を巻き戻したかのような「若者気分」に戻ってしまい、我を忘れて踊って、疲れた。
顔がテラテラと光ってしまってもう、それでも一応、記念撮影。
さて、みなが夕食のブッフェに向かい始めたのは、ようやく11時を過ぎたあたりから。遅すぎるというものである。それにしても、料理がとてもおいしかった。
大勢のゲストを予想していたのであろう、コンチネンタルにインド料理と、大量の食事が用意されており、あれこれを試さずにはいられない。
デザートもまた格別。美味クレームブリュレや、チョコレートケーキ、その場で焼いてくれるクレープ、モーヴェンピックやハーゲンダッツのアイスクリームなどなど……。
アルヴィンドもわたしも、すっかりデザートまで満喫した。
数カ月前にニューヨークからムンバイに移住したというインド系ジンバブエ人夫妻との話がまた楽しく、久しぶりに、世界を軽やかに行き来する多くの人々と接することができて、気分がリラックスした。
右上の写真は、本日主役の花嫁リチャと、「インドの衝撃」に出演していた弟である。とても仲のよい姉弟で、見ていて本当に微笑ましかった。
アルヴィンドも久しぶりに、いつもとは違う面々と米国時代の話などができ、とてもよい気分転換となったようである。
最後に新婦に挨拶をし、祝福の言葉を捧げ、カヴィタとマニーシュにお礼を言って、ご陽気に立ち去ったのだった。帰りの車では二人して「爆睡」したせいか、あっというまに家に着いてしまった。
本当に、いい一日だった。
●ワシントンDC時代の友人日印カップル、来訪!
ワシントンDC時代は、わたしたちを含め4組の日印カップルと、ときどき集まっていた。そのうちの一組であるノリコさんとアビナシ、そして二人の子供であるさやかちゃんと4年ぶりに再会した。
アビナシの故郷が北ムンバイで、今回2週間ほどご実家に滞在しているとかで、明日の帰国を前に、我が家まで遊びに来てくれたのだった。
さやかちゃんがずいぶん大きくなっているのを除いては、みな変わらず、元気そうである。
4年も会っていなかったことが信じられない感じで、気分はたちまちDC時代に戻る。
折にふれ、互いの家を行き来していたあのころ。
彼らの家で開かれたバーベキューパーティや日本式のお正月、さやかちゃんのひな祭りパーティなどに招かれたことを思い出す。
我が家では、サンクスギヴィングデーなどを共にした。こうして思い返せば、何もかもが遠い記憶だ。
5人でTAJ PRESIDENTまで赴き、ダイニングでランチを食べる。
あれこれと語り合い、夕方、彼らを見送った。
実はムンバイ、ここ数日、新たなテロの噂もあり、それなりに危険なエリアとされている我が家の界隈へ遊びにいくことを、ご家族からは反対されていたらしい。
それでも遊びに来てくれたことを、とてもうれしく思う。今日の再会はきっと、心に深く刻まれることだろう。
一日一日のささやかであれ喜びが、身にしみる日々。